コロッケの起源

 庶民食の代表といえる「コロッケ」。
 コロッケの発祥もかなり深い話で、ルーツが判然としていない洋食ネタです。
 ここでは、あまりネットでは知られていない情報を紹介しながら、日本での発達を書いてみます。

●コロッケの語源

 コロッケの起源には色々な説がありますが、そもそも、コロッケやそれに類似する料理は世界各国に古くからあり、それ自体の発祥を決めることはほとんど不可能です。 

 なので、ここではあくまで「日本のコロッケ」の起源を考えます。

 日本のコロッケは、フランス料理の"croquette"(クロケット)やオランダの"kroket"などが起源とされ、いずれにせよ、西洋からもたらされた「クロケット」がなまって「コロッケ」になったことは間違いないでしょう。

 日本では、明治時代の料理書にすでに登場し、レストランでも提供されていたので、日本に洋食が流入した初期から存在していたことは明らかです。

 ただ、ここでよく議論になるのが、どこの国の何の料理の影響を受けて、現在の我らの国民食ともいうべきコロッケが誕生したか? ということです。

●クリームコロッケとポテトコロッケ

 日本でのコロッケのイメージというと、おそらく最初に思いつくのは、じゃがいものコロッケ(肉入り・肉なし含む)。
 その次に、カニクリームコロッケが思いつくのではないでしょうか。

 今日では、100円ローソンの惣菜コーナーでもじゃがいものコロッケとクリームコロッケがあるくらい、日本の食生活に浸透したコロッケですが、よくよく考えると、じゃがいものコロッケとクリームコロッケは、作り方も性質もかなり違うように感じる人も少なくないでしょう。

 だから、クリームコロッケは西洋式のコロッケで、クリームをじゃがいもで代用して作ったのが日本独自のコロッケ、と言われることが多く、そうした記載をしている本やサイトも少なくありません。

 ですが実は、じゃがいものコロッケも、昔から西洋にちゃんとあります。

 例えばフランスでは、じゃがいもを使ったコロッケは、"Croquettes de Pommes de terre"(Pomm de terre=じゃがいも)という古典的な野菜料理です。
 1903年にフランスで発刊されたエスコフィエの有名な料理書"Le Guide Culinaire"にも掲載され、主に付け合わせ用です。 

 作り方は、じゃがいもを茹でて潰したものに、バター・塩コショウ・スパイス・卵を合わせて60gくらいの俵型にまとめ、パン粉をまぶして高温で揚げます。
 生クリームを加えることもあり、わかりやすく言えば、マッシュポテトにパン粉をつけて揚げたようなものです。

 また、フィッシュ&チップスに代表される、揚げ物料理が盛んなイギリスにも、昔からじゃがいものコロッケがあります。
 イギリスで1861年に発行されたイザベラ・ビートンの有名な料理書"The Book of Household Management"には"Croquette"という料理があり、その説明は、

"Ball of fried rice or potatoes"

となっています。
 この本は、日本でも『ビートン夫人の家政読本』という名前で有名ですが、膨大なレシピが書かれているので、料理書の一つとしても扱われています。

 なお、英語版のウィキペディアを見ると、"Croquette"の項には、

"usually as main ingredients, mashed potatoes and/or ground meat (veal, beef, chicken, or turkey), shellfish, fish, cheese, vegetables and mixed with béchamel or brown sauce"

とあり、よく使われる具材の最初にマッシュポテトが挙げられています。
 ちなみに、マッシュ・ポテトの「マッシュ」とは、「潰した」という意味です。
 今日のフランスやイギリスでも、庶民のコロッケはじゃがいもだけで作られたりします。

 また、そこには世界各国のコロッケの説明がされていますが、United Kingdom(イギリス)の説明には、

"Croquettes are available frozen or refrigerated in most supermarkets, typically with potato filling."

とあり、ここでも、中身(filling)はじゃがいもが一般的(typically)、となっています。
 そして、ここに書いてある通り、イギリスでは今日でも冷凍や冷蔵のポテトコロッケがスーパーなどで売っているそうです。

 このように、「じゃがいものコロッケ」というもの自体は、日本で生まれたわけではなく、そもそも西洋でも古くから一般的だったのです。

 なお、フランスのコロッケはバリエーションは豊富で、カニを使ったり、エビを使ったり、チキンを使ったり、フォアグラやトリュフを使うこともあります。
 それに刻んだマッシュルームやタマネギなどを加えたり、とにかく様々な具材を混ぜてタネ(アパレイユ)を作り、ベシャメルソースを合わせてクリームコロッケにしたり、クリームではなくドミグラスソースを使ったり、それに衣をつけ、揚げたりオーブンで焼いたりして作ります。

●どこの国から伝わったか?

 コロッケ談義で、一番議論が分かれるのがここです。(冷静に考えるとどうでもいい気がしますが…)

 本やネット上では諸説ありますが、真相はイギリスではないかと思います。

 というのも、日本は1854年に開国してから急速に西洋文化が流入しましたが、その時、明治時代の皇室や日本海軍がお手本としたのは、当時欧米列強の中でも力のあったイギリスでした。
 
開国後の日本にいた外国人で一番多かったのもイギリス人で、食文化においても、明治期の洋食界は、イギリスコ系コックの影響を大きく受けました。

 ただ、当時も現在も、欧米の公式な正餐における料理のスタンダードはフランス料理なので、料理としてはフランス料理がベースです。
 ですが、イギリス料理の「ビーフシチュー」が、当時から今日に至るまで日本の洋食の定番であることでわかるように、黎明期の日本の洋食界はイギリスの食文化の影響を強く受けていたことは明らかです。

 辻調理師専門学校創立者の辻静雄も、著書『フランス料理の学び方』の中で、日本にフランス料理が入ってきた初期の時代について、「どちらかといえばイギリス風の料理が多かったようです。なぜかというと、そのころイギリスの国力がフランスよりも強かったからです」と書いています。

 イギリス料理の特徴は、じゃがいもが主食と言って良いくらいよく食べられることです。
 アイリッシュ・シチューやホット・ポット、フィッシュ&チップスなど、じゃがいもを使った料理が非常にポピュラーです。
 じゃがいもコロッケもイギリスでは一般的だったわけですから、それが日本に伝わったとしても、何ら不思議ではありません。

 開国とともに日本にやってきたイギリス系のコックが、日本人にじゃがいものコロッケを伝授した可能性は高く、それが日本のじゃがいもコロッケのルーツになったのではないでしょうか。

 フランスではコロッケをオーブンで焼くことが多いですが、イギリスでは油で揚げるので、日本のコロッケがフライ式なのも、イギリスから伝わったからではないかと思います。

 ちなみに、コロッケと並ぶ揚げ物洋食のひとつ「カツ」についても、西洋では焼いて作るカツレツを日本では揚げて作るようになったのは、「煉瓦亭」がてんぷらを参考にして作った……というのが定説ですが、真相はイギリスの影響もあったんじゃないか…? と思います。
  
 明治時代の日本の料理本の中には、コロッケとクロケットを区別し、じゃがいもで作ったのがコロッケで、クリームで作ったのがフランスのクロケット、としているのもあります。
 ですが、それはおそらく、じゃがいものコロッケがイギリス経由で日本に入り、フランスからはクリームのコロッケが入り、当時の日本人はそれを別の料理だと感じて、じゃがいものコロッケに対して、クリームのコロッケは「仏蘭西コロッケ」と区別したのではないか…と思います。

 現在の日本人にとって、じゃがいものコロッケは、もはや和食と思えるくらい大衆化しすぎたので、あのお手軽な「イモコロッケ」が「西洋料理」というとピンと来ない人も多いでしょう。

 いくらイギリスやフランスにじゃがいものコロッケがあったとしても、日本のイモコロッケはあくまで日本人が手ごろな食材でアレンジして生まれたもの、と思う人もいるかも知れません。

 しかし、そもそもじゃがいもは、開国当時の日本では大衆的な食材ではありませんでした。

 じゃがいもは、明治中期頃に北海道で大量栽培に成功するまでは貴重な高級品で、庶民的な食材になったのは大正の末頃です。

 大正〜昭和にかけてのじゃがいもの大衆化とともに、じゃがいものコロッケが大衆的な惣菜となっていった、というのはわかりますが、少なくとも明治期においては、じゃがいもは決して安価な大衆食材ではありませんでした。

 日本のじゃがいものコロッケは、まだじゃがいもが安価でなかった明治時代から存在していたので、「クリーム・クロケットを安価なじゃがいもで代用した」という説は、あくまで現代人の感覚での誤った推論でしょう。
 当時の食材事情からすると自然な図式ではなく、西洋のじゃがいものコロッケがそのまま日本に伝わった、とするほうが、むしろ自然な流れだと思います。

 日本でじゃがいもが大衆的な食材になった経緯はある程度はっきりしていて、大正七年以降です。
 明治期においてじゃがいもは、まだ富裕層や外国人向けの存在だったホテルや洋食屋でしか使われない、マイナーな食材でした。

 それが、大正三年から始まった第一次世界大戦によって、様々な資材・食材の特需が生まれ、じゃがいもは食用としてだけでなく、でんぷんや燃料原料にするための工業用素材として急激に増産されるようになりました。
 そして大正七年に戦争が終わると、じゃがいもは市場で大量に余り、相場が大暴落します。
 そこが転換点となって、じゃがいもが大衆食材になっていくのです。

 ちなみに、このサイトにコロッケの記事を掲載した当時(2010年頃)は、ウィキペディアではコロッケの発祥地はオランダが有力で、クリームコロッケはフランスから伝わり、それを日本で独自にじゃがいもにアレンジされた、と書かれていました。

 自分はそこに真っ向から異論をぶつける形でイギリスのポテトコロッケ説を提唱しましたが、それから五年以上経った現在、今ではオランダ説は姿を消し、じゃがいものコロッケが日本独自とも書かれなくなりました。

●「コロッケの唄」の誤解

 「コロッケの唄」というのをご存知でしょうか?
 帝劇や浅草オペラで使われ、1917年〜1918年(大正六〜七年)頃にヒットした歌ですが、洋食のルーツを書いた本などでは、よくこの歌を引き合いに出して、大正期にはもうコロッケが大衆食として定着していた、などと書いている人は多く、ウィキペディアにもそう書かれています。(2019年現在)

 ♪ワイフ貰って嬉しかったが、何時も出てくるおかずはコロッケー
  今日もコロッケー、明日もコロッケー、これじゃ年から年中コロッケー、アハハハ…

 とはじまるこの歌詞を見て、「お嫁さんをもらったけど、貧乏だから毎日コロッケばかりでウンザリ」、といった意味に解釈し、大正時代にはもうコロッケが広く普及していた大衆食だった、と判断しているわけです。

 しかし、実はこれ、大きな誤解なのです。
 まず、コロッケの歌詞を最後まで見てみましょう。
 (作詞者の死後五十年以上過ぎてるので著作権にひっかからないと思います…)

1.ワイフ貰って嬉しかったが、何時も出てくるおかずはコロッケー
  今日もコロッケー、明日もコロッケー、これじゃ年から年中コロッケー、アハハハ…

2 亭主貰つて嬉しかったが、何時もチョイト出りゃめったに帰らない
  今日も帰らない、明日も帰らない これじゃ年がら年中留守居番、アハハハ…

3 夜店ひやかしおはち買ったが たった二十銭じゃ滅法界に安い
  家へ帰って、フタをとったら 安い筈だよ底が無い、アハハハ…

4 ちょいと紳士に成ってみたいと 無理に算段して自動車借りて
  乗るにゃ乗ったが、時期に止まって 仕方なくなくエンサカホイ、アハハハ…

5 晦日近くに財布ひろって 開けてみたらば金貨がザクザク
  株を買うか、地所を買うか 思案最中に目がさめた、アハハハ…

6 英語習って訳も知らずに チョイト西洋人にアイラブユーと云ったら
  急に抱きつき、顔をなめられ つけた白粉がむらだらけ、アハハハ…

7 わたしゃ洋食が好きと云ったら 直ぐに呼ばれて、出されたものは
  牛の脳みそ足に尻っぽ 肝になめくじ豚の腸、アハハハ…

 いかがでしょうか?
 1番だけ見ると、確かに誤解してしまいそうですが、7番まで見ると、自動車を借りて乗りまわしたとか、英語を習って外人にアイラブユーといったとか、洋食好きで牛テールやエスカルゴを食べたなど、どこからどう見ても庶民生活の歌ではありません。

 そもそも、この歌の作者の益田太郎冠者は、三井物産創業者・益田孝の次男、益田太郎男爵です。本業は実業家で、貴族院議員でもあり、およそ庶民とはほど遠い超エリートです。

 それに、当時、洋食を作れるような女性というのは、女学校や料理学校などで教育を受けたお嬢様だけでした。
 この頃の日本の格差社会は、現在からは想像もつなかないほど激しいもので、ハイカラなパン粉やじゃがいもを材料に食用油をゼイタクに使った料理なんてのは、金持ちでなければ毎日作れない時代です。

 当時の庶民のおかずといえば、漬物と魚の干物です。
 大正時代まで遡らなくても、戦後の高度成長期を迎えるまでは、ひとつのちゃぶ台を家族で囲んで、毎日おきまりの一汁一菜が日本の一般庶民の食卓でした。
 毎日同じおかずなんて当たり前の時代に、毎日コロッケ〜と歌ったところで、何も面白いわけがありません。

 そうした時代背景があって、「洋食を作るようなお嬢様を奥さんに貰ったけど、作ってくれるのは毎日コロッケばかり…」という、おノロケ話と皮肉をひっかけてギャグにしている、というのが本来の意味なのです。

 つまり、庶民暮らしの共感を歌った詞ではなく、そんな洒落た生活への憧れを歌った詞なのです。(もっとも、帝劇なんかを観に行けた人は貧しくなかったと思いますが…)

 このことは、作家の玉川一郎氏(1905年〜1978年)も、『月刊専門料理別冊〜Specialitecの時代がやってきた〜』(柴田書店・1978年)に書いていて、

「大正時代のコロッケは、昭和になってからのマーケットの総菜屋の安もの代表になり下がった安コロッケとはちがい(中略)、そんな下等で一般的な西洋料理ではなかったのである。(中略)その頃の日本の庶民でコロッケの味を知っている者は、実にすくなかったのである。つまり、当時の女学校出(今の女子大だの短大卒なんてのよりはるかに稀少価値のあったインテリ女性)の花嫁さんは、学校の割烹の時間にならった、一番簡単なコロッケしか作れないので、花婿さんノロケまじりに嘆いたのがコロッケであって、安物を食わしたという事ではないのでアリマス」

と、コロッケの唄について解説しています。

 そもそも、大正時代は、『女工哀史』の時代です。
 現在からは想像がつかないかもしれませんが、明治・大正期は、現在とは社会構造も国民所得の水準も全く違う格差社会で、大正前期の世相となると、日本中が深刻な不況と食糧難に苦しみ、コロッケの歌がヒットしたとされる1918年(大正七年)は、全国的な食糧難で歴史的な米騒動が勃発した年です。

 豊かだったのは日清・日露戦争で大儲けした一部の層だけで(逆に言うと、そこで潤った人々が、モダンで華やかな大正文化を築いた)、いわゆる一般庶民の生活とても貧しく、当時は栄養失調症の一種である脚気が二大国民病のひとつとされ、年に一万人以上も亡くなっていました。

 脚気はビタミンB1不足でなる病気なので、ビタミンB1が豊富なじゃがいもコロッケが簡単に食べられたら、日本が脚気に悩まされてはいなかったでしょう。

 そんな背景も知らずに、「貧乏だから毎日コロッケでウンザリだ」なんて言ったら、当時の人々に「このバチあたりが!」って怒られます。

 ちなみに、日本の洋食の起源について書かれた有名な本に、小菅桂子氏の『にっぽん洋食物語』(1983年・新潮社)という本があります。
 その中に「コロッケを推理する」というのがありますが、小菅氏も現在人の感覚から脱却することは難しかったようで、論理が自己矛盾するという失敗をしています。

 調査はそれなりに詳しく行われ、なかなか興味深い資料も多く、コロッケの唄の作者の生い立ちも当然調べ、コロッケの唄にはモデルがいたことまでつきとめています。

 しかし、そうやってわざわざ十四ページにもわたって分析・説明をしておきながら、最後の結論のわずか四行で、

「コロッケは歌と共に都会から日本中に広まり、庶民の共感を呼んで大流行したのである。そしてコロッケーの唄はそれまで庶民の口には縁の遠かった西洋料理の名前の一つ、コロッケが日本中に広まった記念すべき歌なのである」

 と、”庶民の口には縁の遠かった西洋料理”と書きながら、”庶民の共感を呼んで大流行”という、完全に矛盾した、めちゃめちゃな結論で締めくくっています。

 調査の結果、当時のコロッケは庶民食ではなかったことが判明したはずなのに、「イモで作ったコロッケは庶民食」という先入観を消すことは出来なかったため、自分自身でこの文章の矛盾に気付かなかったのでしょう。

 じゃがいもの相場が下落するのは、この歌が生まれた一年後の大正七年以降。
 そのじゃがいもが、大衆向けの洋食堂でコロッケとして用いらるようになったのは、関東大震災以降と言われています。
 コロッケの唄が流行した当時は、まだまだ一般庶民には馴染みのない食べ物でした。

●コロッケの日本化

 コロッケ自体は、西洋からもたらされ、時には高級な「伊勢海老のクリームコロッケ」だったり、時には安価な「イモコロッケ」として日本に普及していったわけですが、時代とともに、さらに独自の進化をしているのが、日本のコロッケです。 

 「メンチカツ」も、コロッケから派生した料理と呼べそうですが、コロッケの衣である「パン粉」も、日本では流行りがあります。
 (ちなみに当時のフランス料理やロシア料理にも、メンチカツのように挽肉を丸めてパン粉をつけて焼いたり揚げたりした料理は存在しています)

 もともと西洋のパン粉は、パンを乾燥させて細かく砕いたドライパン粉で、現在の日本でも西洋料理には細かく砕いたパン粉がよく使用されます。

 日本で最初にパン粉メーカーが誕生したのは明治四十年、創業者は丸山寅吉という人で、粉砕機を使って細かくしたパン粉を販売していました。

 しかし、日本には西洋にはない独自の「生パン粉」文化があり、現在では、カツでもコロッケでも、生パン粉を使うのが主流です。
 生パン粉とは、通常のパン粉のように細かくせず、大粒にちぎったようなパン粉で、乾燥させずに使うことから「生パン粉」と呼ばれます。

 この生パン粉は西洋のパン粉とは違うため、この部分だけを見て「日本のコロッケは西洋のものとは別物」と断じるニワカ洋食マニアがいますが、そもそも生パン粉にも変遷があります。

 西洋のドライパン粉は、サラサラの粒子のような状態のパン粉で、それに対して生パン粉は、「生」というくらいですから、焼きたてのパンのようにフワフワかというと、実は「生」といいながら、昔はこれもある程度乾燥させていて、料理によって使い分けていました。

 このような生パン粉をはじめて使ったのは銀座の「煉瓦亭」と言われ、生パン粉を使った日本のカツは、西洋のカツとはかなり味わいが違います。
 しかし、それがいつ頃から始められ、普及したのかははっきりしていません。

 昔の洋食屋は、コロッケには細かいドライパン粉を使っていた店が多く、パンクズや余ったパンをカリカリに干し、わざわざ裏漉し器にこすりつけて細かくするなどして使っていました。自分がいた店ではミキサーを使って粉々にしていました。

 ちょっと年齢の高い人であれば、ひと昔前の洋食屋のコロッケというと、今のような小判型のものばかりではなく、きめ細かい生地で勾玉型をしたクリームコロッケや、俵型のコロッケが多かったのを覚えてる人も多いのではないでしょうか…?

 日本橋にある洋食の老舗「たいめいけん」の創業者、茂出木心護氏が書いた『洋食や』(1973年発行)には、パン粉の話の記述があり、「パン粉には、食パンを二、三日おき金の裏漉しでこすって作る生パン粉と、砂のようにこまかく乾いてる乾パン粉と二種類あります」と書かれています。

 この乾パン粉が西洋式のドライパン粉で、乾燥させてこすって作る粗めのパン粉が生パン粉、というわけで、この記述からも、昔は使い分けていたことがわかります。

 ですが、最近ではこの生パン粉の扱いも変化し、乾燥させていないフワフワした、本当の(?)生パン粉を使う店も多く、現在で生パン粉というと、乾燥させていないパン粉を指すように思います。

 コロッケにこうした生パン粉を当たり前に使うようになったのは、二十年ほど前に「神戸コロッケ」が流行ってからではないか…?と、個人的には思います。

 神戸コロッケは、一般的なパン粉よりさらに粗く大きいパン粉をたっぷりとつけ、そのザクザクした味わいが人気になり、それが1990年代頃に全国的にブレイクしたあたりから、コロッケに限らず、フライもの衣全般で粗い生パン粉が流行り、昔ながらの細かいドライパン粉を使う店は随分減ったように思います。
 しかも一時は、大きなパン粉がゴテっとついた衣であるほど上等であるかのような風潮まであったような…

 しかし、こうした新しいスタイルによって、日本のコロッケは、さらに独自の進化をしたと思います。
 味のバランスを損ねるほどのパン粉の是非はともかく、ここまでくると、もはやコロッケは、和食の一部と言える料理になったのではないかと思います。

 資生堂パーラーや東洋軒のように、エスコフィエの料理書にあるような西洋の伝統的な作り方を踏襲しているコロッケは、名前こそ日本的な「コロッケ」ですが、昔ながらの繊細な衣にくるまれた紛れもない西洋料理なので、日本にあるコロッケを、全てひとくくりに同種の料理とは言えません。

 こうして考えると、日本でコロッケが大衆化したのは古くても、本質的に日本独自の形になったのは結構最近で、しかしバリエーションも様々で、シンプルに見えて奥が深い料理だと思います。
  


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