セザンヌは絵が下手なのか古典的な遠近法や画法にとらわれないスタイルによって、「近代絵画の父」と言われる19世紀のフランスの画家、ポール・セザンヌ。
あのピカソをして「唯一の師」と言わしめ、近代絵画史の中でも超重要な存在のセザンヌですが、古典的な写実表現とは異なる独特のスタイルゆえに、良さを理解するのが難しい画家とされています。東京国立博物館評議員で美術評論家の山田五郎氏に至っては、セザンヌは絵がとんでもなく「下手」だったから、結果的に特異なスタイルを作り出した、と断言し、世の中の評論家は、セザンヌを下手だと言うのを避けようとするがゆえに難解になるだけで、「ヘタ」だと思えばセザンヌが簡単に理解できる、とまで言い切っています。
しかし、そういう見方は適切ではなく、セザンヌは絵がちゃんと上手いと僕は思います。
山田五郎氏は、セザンヌは絵が下手で遠近法がまるでだめだったと言われますが、セザンヌの初期の絵を見ると、遠近法がまるでだめだとは言えない、きちんとした構図の絵も多数見られます。
というか、絵を描く人ならわかると思いますが、そもそも遠近法は手法さえ学べば、それ自体は難しい技術ではありません。
学生時代に法律を学ぶかたわら絵の学校にも通ったり、デビューこそ遅いですが長年絵を描き、多くの芸術家と交流のあったセザンヌに、遠近法の知識・技術がなかったはずがなく、セザンヌの独特の遠近法を崩した表現は明らかに意図的なものです。確かに、ピカソやベラスケスほど精密な写実画を描く力はなく、だから個性的な表現に走ったという見方はありえると思いますが、山田氏が言うような、ヘタだから遠近法が崩れて変わった絵になった、という解釈は違うと思います。
セザンヌの絵を理解するのは、特に日本人ならそんなに難しくないと思っています。
何故なら、セザンヌのセンスは「漫画」に近い感性だと思うからです。一般的に「上手い絵」といえば、真っ先に思うのは写真のように精密に書ける画力でしょう。
その点、セザンヌや近代画家の抽象的表現は写実的ではないので、何が良いのか理解するのが難しい、と言われがちです。ですが、その評価軸で考えた時、日本を代表する文化である「漫画」や「アニメ」の絵は、どうなるでしょうか?
漫画家でも、画力の高いとされる漫画家の絵はとても精密だったり、リアルだったりしますが、それでも写実的とはほど遠く、日本の漫画やアニメの絵はかなりデフォルメされています。
特に人物画は実写とは遠くかけ離れた表現がなられ、むしろおよそ人間の造形とはかけ離れた大きな目をしてるのに「可愛い女の子」に見えたり、人間離れして隆起した筋肉・体格が「かっこよく」見えたりするわけです。ですが、漫画・アニメファンは、そうした写実とは全く異なる造形表現に対して、何らかの理屈や絵画知識をもって可愛いとかカッコイイとか理解しているのでしょうか?
言うまでもなく、何の事前知識も理屈も関係なく、見たまま「可愛い」と思えば可愛く、「カッコイイ」と思えばカッコイイのです。一方、それが絵画になると、写実でなければ良い絵と評価されないのは、よくよく考えるとおかしな話です。
絵画でも、「絵」として綺麗だったり美しければ、それで良いのではないでしょうか?ただそうなってくると、それは絵画ではなく「イラスト」だと思われるかも知れません。
しかしそうなると、そもそも絵画とイラストとの違いは何なのか? という話になりますが、「イラスト」というものが芸術的なジャンルとして確立したのは20世紀以降で、ごく最近の話なのです。
それまでのイラストというのは、資料や文献、小説などの挿絵や、劇場のポスターといったものとしては存在しましたが、芸術的な作品としての位置づけにはなく、近代絵画が生まれるる前の古典的な「画家」が扱う絵は、あくまで写実的なものでした。このあたりの感覚を理解するには19世紀当時の状況を知る必要があり、そこで大きなポイントとなるのが、「写真」の登場と普及です。
セザンヌの特徴といえば、伝統的な遠近法や無視した構図や、写実的な質感を目指さない表現方法、そして「キュビズム」ですが、そもそも、セザンヌに限らず、19世紀頃からこうした写実性を無視した描き方や抽象画が生まれた最大の理由は、「写真」が発明されたからなのです。
世界最初の写真は1820年代頃とされていますが、その頃から写真の技術は急速に発達し、1840〜50年代にはかなりの広がりを見せ、日本でも有名な勝海舟や坂本龍馬の写真は1860年代に撮影されており、短期間で世界中に広まりました。
セザンヌの生まれは1839年、日の出や睡蓮で有名な印象派のモネが1840年生まれ、二次元的な表現を強調したゴーギャンが1848年生まれ、ゴッホは1853年、ピカソは1881年。
一方、写実的な手法色濃い、前時代のロマン派の画家となれば、ドラクロワが1798年、ゴヤが1746年、写実主義を掲げたクールベが1819年生まれ。
この生年の並びからもわかる通り、絵画が写実的な表現から近代絵画に移行したタイミングは写真の普及と完全に重なっていて、美術史において写真の影響は非常に大きいのです。写真がなかった時代は、情景や人物を正確にビジュアルで残すには、絵で描くしかありませんでした。
だから写実的な絵を描ける技術が求められ、それが絵描きの技量であり、絵画の芸術的価値でもありました。しかし、写真が発明されたことで、写実的な絵を描く必要性が一気に下がり、それ以降の画家達は、写実的な表現よりも、絵でしか表現できないものを表現することに価値と芸術性を追求していくようになっていったわけです。
印象派はまさにそうした背景から生まれたもので、セザンヌも最初は印象派の画家としてスタートしたのですが、そこからさらに新しい表現方法を生み出し、次世代の画家達の多大な影響を与えるまでに至ったのです。
また、写実的な絵から卒業した近代画家たちが抽象的な表現に走った理由は、ピカソの「ラファエロにように描けるようになるには4年かかっただが、子供のように描くには一生掛かった」という有名な言葉がわかりやすいのではないでしょうか。
おそらくセザンヌが持っていた感性も、まさにピカソの言う「子供の感性」だったのではないかと思います。子供の絵は、写実的な感覚とはかけ離れていることが多いですが、その対象物に関して自分の知っている情報の全てを一枚の絵の中で表現 しようとしたりするので、結果的に抽象画のようになります。
これって、横顔なのに両目が書かれたりするピカソの抽象画のような、キュビズムの考え方と同じです。
子供の頃に絵が好きだった人ならきっと思い当たる部分があると思いますが、たとえば好きなアニメのロボットの絵を描くと、一枚の絵の中に、そのロボットが持っている武器や攻撃を全て盛り込もうとしたり、その攻撃で敵をやっつけているシーンを一緒に書き込み、それで主人公や仲間が喜んでいるシーンまで一緒に書き込んだりします。
シチュエーションとしてはめちゃくちゃで、いかにも「子供の絵」なのですが、書いている本人の頭の中では成立しており、しかも子供同士だとその絵に共感できたりする感覚に、抽象画の本質と共通する部分があると思います。難解に思われがちなキュビズム的表現は、特に児童漫画では結構あたりまえに用いられています。
キュビズムはとは、一つの絵の中に複数の視点から見た形を共存させたり、物の形を、立方体や、円錐、球体など幾何学的な形にする、という表現方法です。
こうやって文字で書くと意味不明に見えても、たとえばドラえもんの「スネ夫」なんかはわかりやすい例で、髪は三角形と長方形、意地悪な性格を表すとがった口を横顔アングルで描かれながら、目は両目が描かれ、形状は楕円にデフォルメされていて、これはもうピカソが描く人物画と同じ構図です。
このように、漫画のキャラクターは、シンプルな立体・円錐・球体といったシンプルな図形にデフォルメされた、ある意味前衛的な抽象画のようなものだったりするのに、普通に受け入れられています。イラストや子供が描くチューリップの絵などもそうで、実物のチューリップは花弁が何枚も折り重なっているのに、よくイラストでは3つの三角のとげとげにデフォルメされていますが、こうした抽象的表現も受け入れられています。
話が横にそれてしまいましたが、実際はこうした写実とは切り離してデフォルメした表現は、古代の壁画などにもある、非常に古くからある手法ですが、それに対していわゆる「絵画」は、デフォルメされた表現ではなく、いかに写実的に、正確に、立体的に美しく描けるかを追求して技術が進化してきたものと言えるかもしれません。
しかしそこに、「写真」が発明されたことにより、写実的に絵を描くことの「必要性」が失われ、その結果、絵画もイラスト的なデフォルメや、抽象表現の領域に変化し、そうして印象派のような表現や、セザンヌのような表現が生まれたというわけです。