シャアはニュータイプ

 自分はガンダムオタクではありませんが、以前からすごく気になっていたガンダムネタを書きます。

 アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズに登場するキャラ、シャアについて、一部ではニュータイプかどうか意見が分かれるようです。

 普通に観ていればシャアはニュータイプです。
 しかしそこで、「違うのでは?」と考えるのが面白いんでしょうね。

 ガンダムシリーズのニュータイプ論は、原作者である富野由悠季さんご本人の中でも定義がはっきりしておらず、何度も解釈が二転三転しているからこうした議論がおきるようです。
 特にシャアは、ファーストガンダム終盤で明らかにニュータイプに覚醒する描写がなされ、シリーズ二作目である「Zガンダム」でも、はじまってすぐは、会ったこともないカミーユの気配を「この感覚…アムロ・レイ? ララア・スンか?」というように察知したりと、明確にニュータイプ的な感覚を発動させます。
 しかしそれが、終盤になって敵の主要キャラであるシロッコに「ニュータイプのなりそこない」と言われてしまったため、非ニュータイプ説に火が付きます。

 ただ、ニュータイプの定義自体がはっきりしていないので議論が分かれるのは仕方ないにせよ、作中におけるシャアの描写は完全にニュータイプだと思います。

 ファーストの最後では、頭に閃光が走るような描写がなされ、死角からのミサイルを避けたり、アムロの接近に気付いたりします。
 Zガンダムでは、遠く離れたところにいるカミーユの息づかいを感じ取ったり、シロッコにプレッシャーを与え、逆にプレッシャーを感じたり、姿も見えていないアムロの接近に気付いて思わず「何をする気だ、アムロ!」と叫んだり、カミーユとともにフォウの波動を感じ取ったりしています。

 超能力者的な部分でいえば、シャアは完全にニュータイプというか、どう見ても常人ではありません。

 このことから、少なくともアムロをニュータイプとして認めるのであれば、シャアもニュータイプだと断定できます。
 
何故そう言えるのかを、ニュータイプの設定の変遷から掘り返して説明します。

 そもそも、ニュータイプという概念は、ガンダムの企画段階では存在しなかったそうです。
 SFアニメ・ロボットアニメが流行しつつあった当時、富野さんは、ガンダムの企画にあたり、より高いリアリティとシリアスさを持たせようとしました。
 それまで、ヒーローものの主人公というと、無条件に強いのが当たり前でした。
 そこにガンダムでは、素人の少年が、ベテラン軍人を超える活躍ができる理由づけのために、「主人公はエスパー」という要素を付け加えます。
 そういう点では、シナリオに説得力を持たせるために生まれた側面がまずありました。

 それに加えて、ガンダムには「人類の革新」というテーマがストーリーの根底にありました。
 これは当時、「新人類」や「ニューエイジ」といった言葉が流行っていたことを受けて、未来時代における人間の革新を、ストーリーのエッセンスに加えようとしたそうです。
 ただ
、それが具体的にどういうことなのかは、最初から明確に決まってはいなかったようです。

 そうして制作を進めていく中で、超能力的な要素と人類の進化という要素を融合させて生まれたのが「ニュータイプ」という言葉だったそうです。
 
その言葉を思いついた富野さんは、そのことにひどく興奮されたとか。

 しかし、戦いのさなかにキュピーンと閃光が走って敵の攻撃を感知する表現などは、他のSF作家から「古い」と酷評され、それに富野さんはショックを受けたそうです。

 1970年代はSFブームに真っただ中にあり、超能力者だとか、ミュータント的なキャラがエスパー能力を発揮するという設定は、そのへんにゴロゴロ存在していたからです。

 そこで、エスパー的な力はあくまで能力の発現の一部であり、ニュータイプの本質は、超感覚によって人間同士がお互いの心の中を感じ取ることで、これまでの言語に頼ったコミュニケーションでの誤解などが一切発生せず、本当の意味で「分かり合える」という設定を富野さんは生み出したのです。

 そんな背景から、富野さんの中でもニュータイプ自体の解釈が作品の進行とともに変化し、より思想的になり、それが作品内の表現にも反映され、物語が進むにつれて、ニュータイプなのかどうなのかわからない微妙なキャラクターや描写が増えていきます。

 そうしたことがニュータイプ論をややこしくしていきます。

 ですが、やはり超能力的なものなしにはニュータイプは語れません。
 富野さんは、目に見えない敵を察知したり、サイコミュを操れるといった超能力それ自体はニュータイプの本質ではない、と、何かのインタビューで語られていました。
 
その解釈からすると、超能力を発揮しているだけでは真のニュータイプと呼ぶ十分条件にはなりません。

 ですが、テレパシー的な超能力がないと「分かり合う」ことができないので、超能力は必要条件になります。
 従って、超能力がないキャラクターは、ニュータイプからは外れます。

 なので難しいのは、超能力があるけれど精神面にはニュータイプじゃないというのを、どこで区別すべきか? ということで、ニュータイプ論がややこしくなったのは、まさにそこにあります。

 ファーストガンダムでは、物語の最後に、ホワイトベースの主要な乗組員全員がアムロの言葉を感じ取り、宇宙時代の人類は皆ニュータイプになれるような描写で話を締めくくりました。
 
しかし、富野さんは次作のZガンダムで、精神やマインドが進歩的でないとニュータイプとはいえず、そうでなければ能力も開花しないような設定を持ち込み、そうした「意識」が人類の革新を阻んでいるような流れにしました。
 それを、「重力に魂が惹かれた人」と表現したり、「頭でばかり考えるからだめなんだ」と言ったりします。

 結論から言うと、これが矛盾を生んでしまったわけです。

 Zガンダムでは、ニュータイプなのかどうかが微妙なキャラクターが出てきます。
 ジェリドやカツがそうですが、ジェリドがまさにその象徴的存在です。
 ジェリドは、不快感やプレッシャーのようなものを感じ取ったり、超能力的な面での資質の片鱗を何度も垣間見せます。
 しかし、考え方が古くて意固地なために、ニュータイプとして開花できず、オールドタイプとして時代に取り残され消えていく存在として描かれます。

 ジェリドはオールドタイプ扱いされるのが一般的だし、カツも、ニュータイプの資質はあったけれど、ニュータイプと断言するには一歩及ばず、覚醒しきれなかったという扱いをされます。

 そしてシャアについても、過去のしがらみ囚われているために自身の殻を破りきれず、ニュータイプとしては中途半端で、だからシロッコに「ニュータイプのなりそこない」と言われたわけです。

 そうした部分だけを見ると、シャアは能力的にはニュータイプの資質を持っていたけれど、ニュータイプには開花しきれなかった、と言えなくもないように思えます。
 特にZガンダムでのシャア(クワトロ)はヘタレなので、そのヘタレっぷりがそうした見方を後押しします。

 ですが、それを言ったら、シャアを「なりそこない扱いする」シロッコは、果たして革新的なマインドの持ち主だったのでしょうか?
 超能力的には、ハマーンの操るファンネルを心眼のようなもので察して撃ち落としたりと、相当高い力を持っていますが、「人とひとを心で分かり合う」という点では、全くそうは見えません。(女を口説くこと限定ではすごいが)

 ハマーンにしても同様で、ファンネルを自由自在に操り、シロッコに強力なプレッシャーをぶちかまし、カミーユと精神の邂逅をするという、明らかに人間離れした超能力の持ち主ですが、キャラ的にはめちゃくちゃ保守的で、頑固で融通が利かず、カミーユからの精神的なアプローチを最後まで拒絶しました。

 精神的な革新が伴わなければニュータイプと呼べないのなら、シロッコもハマーンもニュータイプとは呼べないでしょう。
 だいいち、ニュータイプの代表であるはずのアムロ自体も、人間的には煮え切らないオタク気質のキャラクターで、特に進歩的な思想やマインドを持っているわけでもありません。
 
だから富野さん自身も、どこかのインタビューか何かでアムロについて、ニュータイプ的能力は持っているが、精神的にはオールドタイプだと言っていたような気がします。

 というか、精神面で言ったら、ニュータイプの存在を証明したといえるファ―ストのララアですら、アムロと分かり合うことよりもシャアへの個人的な思い入れを優先しています。

 そうなっていくと、そもそもガンダムの中で精神的な意味での革新を達成したキャラっているのか????

 精神的な革新を前提としたら、真のニュータイプと呼べるキャラは一人もいません。
 つまり、結局のところ超能力面でしかニュータイプであるかどうかは証明できないのです。
 (強いて言うなら、人の心を受け入れたことで精神崩壊したカミーユは真のニュータイプになれた!?)

 このへんの話は、ニュータイプという設定自体が破綻している部分で、富野さんも「ニュータイプは失敗」として多くのところで語られていたり、ガンダムマニアの間でも矛盾が指摘されています。

 というわけで、ニュータイプであるかどうかは超能力面でしか判断できないとなれば、シャアは、明らかに常人離れした超能力を持ってるので、ニュータイプだと言えるでしょう。

 

 


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