少し前に、毎日新聞の記事でこういうのがありました。
「セルフレジになって放り出された気持ちになった」という記事https://mainichi.jp/articles/20190109/ddm/013/070/040000c
https://twitter.com/robo7c7c_2/status/1082775530611531776/photo/1
簡単に要約すると、
「近所のスーパーがセルフレジになり、何だか放り出されたような気持ちになった。その気になればできないことはないが、やりたくない気持ちが先に来てしまう。そうして買い物難民化している人が、結構いるような気がしてならない。お客が来たらいらっしゃいませ、ありがとうございました、と言うのは物を売る側の最低限のあいさつだ。人はコミュニケーションによって育つ部分がある。セルフレジには、店側の誠意や感謝を感じることがない。人の心の荒廃がこんなつまらないことから進んでいかなければいいと思う」
という内容で、72歳の人が投稿されたものですが、とりあえず、twitterはじめ、ネットでは大不評です。
そりゃそうでしょう。
特にtwitterとかを利用するのは圧倒的に若い世代ですから、こうなるでしょうね。でも、若いとか関係ないと思います。
この記事に書いてあることは、かなり偏ってます。どう考えてもおかしいでしょう。特にひっかかるのが、
「その気になればできないことはないが、やりたくない気持ち」
「物を売る側の最低限のあいさつ」
「コミュニケーション」というところです。
「出来るのにやりたくない」なんて、一方的に言い放つのはどうなのか??
そりゃあ、自分で作業するのは面倒だから、従業員がやってくれたほうが楽です。
ですが、店がどういう仕組みにするかは店が決めることです。
よしんば、スーパーがセルフレジ化してぼろ儲けしてるというならまだしも、今のセルフレジ化の流れは、価格と人件費の構造から、やむを得ない結果です。
「値段を上げてもいいから対面でやってほしい」ならまだわかりますが…そして、「物を売る側の最低限のあいさつ」って、ちょっと待てよと。
「挨拶」って、お互いが交わしてこそのものじゃないんですか?
「人としてのお互いの最低限の礼儀」という表現ならわかります。
でも、「物を売る側」という書き方をしている時点で、双方向ではなく、従業員側に対する一方的なものであるのは明らかです。こうした、サービスなんてのは一方的に受けられるものだという思い込みこそが「心の荒廃」だと思います。そしてとどめが「コミュニケーション」
これこそ、双方向ではじめて成り立つもの。
店員に一方的に「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と言わせること、商品を計算させることのどこが「コミュニケーション」なのでしょうか??
これって「こっちは客なんだから丁重にもてなせ、面倒なことはお前らがやれ」って言っているだけでしょう。僕が子供の頃にも、ちょっと似たような話が新聞記事やニュースになっていました。
それは、昔は市場や商店街で、店主やパートの人とお喋りしながら買い物をしていたのが、どこもスーパー化したことでそれがなくなり、非人間的で機械的になってしまった、というもの。僕は小さかった頃に、近所に市場があって親に連れられて買い物をしていたので、このことについては、その感覚が少しはわかります。
ただ、こうした市場や商店での店と客との関係というのは、決して「売る側の最低限のあいさつ」とか、そんな次元の話ではありませんでした。
店主のおっさん、おばさんは、元気に明るく声を掛けてきて、会話もしますが、良いか悪いか別として、もはや「タメ口」です。感覚的には、ご近所さんのような感覚です。ていうか、実際にご近所さんがその店をやっていたり。
そこには確かに、人間対人間の「コミュニケーション」がありました。
そして、話が盛り上がった流れで、「じゃあ、一つもらうわね」と言って、「まいどありぃ!」となる。確かにそこには、誠意や感謝といった人間的やり取りがあったと思います。それが生産性の高い経済活動なのかはともかく、こうした時代のことを、あくまで「懐かしむ」感覚はわかります。
けれど、いつしかそれがスーパーにとって代わられたのは、合理化によって、より安い価格で安定して物を買えることにほうを、消費者が選んだからです。
流通革命を起こしたダイエーの「エブリデイ・ロープライス」ですね。こうした昔の商店を懐かしがる声は随分長くあったけれど、やっぱりそれも、多くの人にとってはむしろ煩わしいだけで、ニーズには成り得ませんでした。
ていうか、実際そうした流れを作り出した張本人が、この記事を書いている72歳くらいの世代、すなわち団塊世代じゃないの??って思います。今起きているセルフレジの流れも、似たようなものだと思いますが、当時と今回のこの記事での大きな違いがあります。
それは、かつての商店は確かに「コミュニケーション」だったけれど、この記事でスーパーの従業員に求めているものは、「バーコードの読み取り・会計」といった「作業」と、ただ一方的に「いらっしゃいませ」と「言わせる」だけの、隷属的な関係です。こんなものは、コミュニケーションでもなんでもない。
この話は、何のことはない、今ままでは「お客さん」として手厚くされていたのが、自分でやらされるようになって面倒くさい、ただそれだけの話でしょう。セルフになって面倒くさいのはわかります。
でも、そんなのは、老いも若いも関係ない。
単にその部分だけをとらえて、「時代の流れとは言え、面倒くさい世の中になった」とただ愚痴るだけの記事なら、まだその気持ちを理解できます。でも、若者でないと対応できないゲームのような複雑操作を求められるわけでもなく、「その気になればできる」のを「やりたくない」だけなのに、それにかこつけて「感謝・誠意が感じられない」とか、「心の荒廃」に結びつけるのは、むしろ別の意味で疑問を感じ、もはや「傲慢さ」すら感じます。
感謝、誠意というのなら、買う側には働く側に感謝の気持ちはないのだろうか??
欧米では、客であっても従業員に挨拶しないと、冷たい扱いを受けます。
アメリカのスーパーなんかに行くと、レジで店員と客が、互いに”Hi!”と挨拶を交わします。
それは、客とか従業員とか関係なく、人と人との最低限の礼儀だからです。一方日本では、レジやコンビニ、レストランで従業員が「こんにちは」と言っても、客は基本無視です。
そこにはコミュニケーションも何もありません。
むしろ、そうした意識が実態だからこそ、セルフレジでいいや、と変化していくのは当然です。何でも欧米が良いとは言いたくありませんが、こと「従業員と客」という関係において、日本のそれが「主従関係」のようになっている風潮は、まるで封建時代の身分制度のごとく酷い感性だと思います。
むしろ、昭和中期頃までのほうが、従業員も客も対等な関係があったのに、いつしか日本では「客」というだけで上から目線で良いと思うようになっていたことこそが、心の荒廃だったと言えないでしょうか?