スパゲッティ・ナポリタンの発祥・起源

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  スパゲッティ・ナポリタン(調理:管理者)

 洋食屋の定番、スパゲッティとトマトケチャップを和えた「スパゲッティ・ナポリタン」が、日本特有のパスタ料理であることは良く知られているところです。

 というのも、イタリアでは基本的にケチャップを使わない(というかむしろ邪道扱い)ので、このような料理が存在しないからです。

 これだけ日本でメジャーなわりに、その発祥や元祖がはっきりしていないので、それを談義することはB級グルメ好きにはなかなか人気のテーマのようです。

 というわけで、この「ナポリタン」の発祥について、簡単にご説明します。

 なお、ナポリタンの発祥論については、僕を含め一部のマニアな人々によって長らく色々な論議をかもしだし、それらを全て語ると長大な内容になってしまうため、ここでは、あまり深い論拠や歴史的背景などは省略し、簡単な説明にとどめることとします。

 もし、マニアックな内容が知りたい方は、こちらをご覧ください。
 ナポリタンに関する情報の量・質としては、おそらく日本一だと自負しています。
 ちなみに、今でこそウィキペディアの情報等も充実していますが、このページを作った当時(十年以上前)、専門的な視点での情報は皆無に等しく、横浜ニューグランドの戦前のメニューにナポリタンが載っていたとか、エスコフィエの料理書や大正時代の料理書にはスパゲティナポリタンが記載されているといった情報を発信したのはこのサイトが初出です。

 ⇒ナポリタンの発祥・完全版

●発祥説として有名な“横浜ホテルニューグランド”

 ナポリタン発祥の定説は、横浜ホテルニューグランドの第二代総料理長・入江茂忠氏が考案したという説です。
 現在でもナポリタンはニューグランドの名物料理として提供されています。

 ニューグランド第四代総料理長・高橋清一氏の著書『横浜流 -すべてはここから始まった-』(東京新聞出版局)によると、第二次大戦後、ニューグランドの総料理長に就任した入江氏は、アメリカの進駐軍がスパゲッティにトマトケチャップと塩コショウをかけて簡単に食べているのを見て、もっときちんとした料理にして提供しようと考えて作り出したメニューが、「スパゲッティ・ナポリタン」だったと説明しています。

 これが、ナポリタンの発祥として一番広まっている説です。

 結論から言うと、ナポリタンの本当の意味での元祖はニューグランドではないけれど、「スパゲッティ・ナポリタン」という単品料理を「世間に広めた」という意味ではニューグランドがおおもと的な存在で、「世間に流行させた元祖」と言えるのではないか、と思います。

 なお、考案者の入江氏は、ニューグランドの初代総料理長サリー・ワイル氏の下で腕を磨いた人物で、1964年に開催された東京オリンピックでは選手食堂の料理長を務めた四人のなか一人でもあり、日本の料理史の中でも名高いシェフです。
 
戦後GHQによってホテルが接収された際、一時ニューグランドを離れていましたが、1952年にホテルの接収が解除されるとニューグランドに復職し、第二代総料理長に就任しました。

 ……しかし!
 これで決定とならないのが、ナポリタン談義の深いところ。

 最近では、第二次大戦終了直後の1946年(昭和二十一年)に横浜で開業したレストラン「センターグリル」では、開業の頃よりナポリタンを提供していた、という話もあります。
 なお、センターグリルの創業者である石橋豊吉氏もサリー・ワイル氏の弟子で、ワイル氏が経営していたホテルのコックでした。
 センターグリルの二代目主人の石橋秀樹さんによると、センターグリル―のナポリタンは、入江氏からアドバイスを受けてメニューにしたと、yahoo!ライフマガジンのインタビューで答えています。

 ですが、ここで生じる問題は、入江氏はニューグランドの総料理長に就任したのは1952年、センターグリルの開業は1946年。
 時系列的におかしなことになってしまうのです。

 そしてこの謎を解くカギは、ニューグランドにありました。
 
そもそも戦前のニューグランドの1934年(昭和九年)1月27日のア・ラ・カルトメニューには、すでに"Spaghetti Napolitaine"があったのです。※1

●フランス料理のナポリタン

 戦前の料理書や、日本の洋食の原点となった古いフランスの料理書などを調べるとわかりますが、西洋料理の世界では、そもそもトマトソースをからめたスパゲッティのことをナポリ風、"Spaghetti à la napolitaine"と呼んでいました。
 
トマト味をつけると「ナポリ風」と呼ぶのは、ナポリがトマトの名産地だからです。

 つまりこれこそが、日本のナポリタンの原点なのです。

 フランス料理界の帝王と呼ばれたオーギュスト・エスコフィエ(1845〜1937)が書いた料理書、"Le Guide Culinaire"(1902年刊)や、プロスペール・モンタニェ(1864〜1968)が書いた料理書、"Larousse gastronomique"(ラルース・料理百科事典)などには、そうしたナポリタンのレシピがあり、作り方はどれも茹でたパスタにトマトソースを和えたものになっています。

 日本でも、1920年(大正九年)に発行された『仏蘭西料理献立書・調理法解説』(鈴本敏雄著)には、"Spaghetti à la  Napolitaine"がちゃんと書かれていて、こちらの作り方は、スパゲッティにトマトを和えたものとなっています。

 wikipediaのナポリタンの説明では、冒頭に「戦後アメリカから入ってきたヌードルが土着化して定着した料理」とし、ヨーロッパのパスタ料理とは関係ないと断定されていますが、それは根本的に間違ってます。(2017年5月現在の記載内容)

 何故なら、日本には明治〜大正期にはもう、フランス料理をベースとするスパゲッティ・ナポリタンという料理が存在し、それが時代とともに変化して現在にナポリタンになっていったことは明かなのに、戦後に入ってきた進駐軍のアメリカ料理だけを別物と切り取ってナポリタンのはじまりとするのはおかしな話でしょう。
 これは、日本の西洋料理の基本知識を完全に欠いているからこのような記載が生まれるのです。

 もちろん、料理の成り立ちの一部にはアメリカ進駐軍が食べていたものから派生した部分はあると思います。
 ただ、戦前・戦後のアメリカの料理書を見ても、トマトケチャップのスパゲッティ料理を「ナポリタン」と呼ぶレシピは存在せず、むしろトマトソースと和えたスパゲッティを「ナポリタン」としているものはあります。

 これらが意味するのは、アメリカの影響があったにしろ、「ナポリタン」という名前で定着したのには、共通の原点としてフランス料理のナポリタンにあることは、ほぼ間違いないと思います。

 何故フランス料理?
 と思う人もいると思いますが、日本の洋食のはじまりは、明治期に入ってきたフランス料理がベースです。

 開国によって日本にやってきた外国人は、長崎や横浜、神戸の居留地に住み、そこには多くの外国人ホテルが建てられましたが、そうしたホテルのレストランは、経営者がイギリス人やアメリカ人だったとしても、その多くがフランス式でした。何故なら、当時の欧米の正餐のスタンダードはフランス料理だったからです。

 そうした外国人ホテルで下働きしていた日本人コック達が本物の西洋料理を覚え、やがて日本のホテルや街のレストランで料理長となり、日本の洋食界を作っていったのです。
 こうした背景により、日本の洋食はベースとしてフランス料理の影響が大きかったのです。
 アメリカ料理にしても、そもそもアメリカは移民の国なのでイギリスやイタリアなど各国の料理が混在していますが、料理の教科書としてはやはりフランス料理がベースになっているのです。

●ケチャップ・ナポリタン

 ですが、現在一般的に認識されているナポリタンというと、トマトソースではなく、ケチャップで和えたスパゲッティでしょう。

 トマトソースで和えたお上品なナポリタンは、ナポリタンにしてナポリタンにあらず、あの大衆的なトマトケチャップをこってりと和えてこその「ナポリタン」だ、トマトソースのナポリタンとは成り立ちが別だ! と思う人もいるようです。

 これについての説明は、戦前のニューグランドでワイル氏の補佐を務めいてた荒田勇作氏が著した、『荒田西洋料理』(1964年刊)が参考になると思います。
 同書に掲載されている"Spaghetti à la napolitaine"の説明では、

「旧来はトマトの赤色を付けただけで、アントレや野菜のコースにも出たが、現在のア・ラ・カルトの場合には、薄切りのシャンピニヨン、芝海老、ペパロニかサラミ・ソーセージなどを混ぜ合わせているところもある。要はトマト味の調理法と思えばよい。(中略)トマトケチャップなどでからげるのも悪くないが、これは家庭向きの素人が行う方法で、専門家は別の方法で作られる方がよい」

と書かれています。

 なお、同書は料理名を仏語と英語と日本語の3ヶ国で表記していて、英語表記では"Spaghetti napolitan"、日本語は「スパゲッティのトマト和えナポーリ風」としています。

 ただ、この英語表記の"napolitan"は和製英語で、ナポリ風の正しい英語表記は"neapolitan"です。
 こうしたところからでも、フランス料理が日本的洋食へと変化していったことが見てとれます。

 つまり、本来はトマトソースを用いていたナポリタンを、簡易に作るためにトマトケチャップで代用されるようになったのが、現在のスパゲッティ・ナポリタンだと言えそうです。

 トマトソースナポリタンからケチャップナポリタンへの変遷については、この荒田氏の記述でほとんど説明がつきます。

 ただ、今でこそ大衆的な調味料のトマトケチャップですが、元々はそうではなかったようです。
 日本にトマトケチャップがもたらされたのは明治時代後半ですが、当時はかなりの高級調味料で、家庭で簡単に使えるようなものではなかったようです。

 それが日本で大衆化したのは、第二次世界大戦後にアメリカ進駐軍が、日本に大量にトマトケチャップを持ち込んでからのこと。

 センターグリルの石橋秀樹氏も、ニューグランドの入江氏のアドバイスでナポリタンをメニューに入れたが、当時トマトは高かったのでトマトケチャップで代用した、とyahoo!ライフマガジンのインタビューで話されています。

 こうして、元々はトマトソースで作られていたナポリタンは、戦後にアメリカ軍が持ってきた大量のトマトケチャップで代用されるようになり、結果としてトマトケチャップのナポリタンのほうが市民権を得るようになってしまったのです。

●ニューグランド発祥説の謎

 それでは、何故「ニューグランド発祥」という説が生まれたのかに謎が残ります。

 これについては、日本のレストラン史の中で、ア・ラ・カルトスタイルがどのように確立したがその背景としてあると思います。

 明治・大正期の日本の洋食は、十八世紀から十九世紀初期のフランスの食事形式の影響を強く受け、単品料理というのは基本的になく、コース(当時は定食と呼ばれた)や宴会料理が中心でした。

 意外に思われるかも知れませんが、レストランで料理を単品で注文するのが当たり前になるのは、フランスでも十九世紀以降のことで、日本では昭和になってからなのです。

 そもそも、今のようなレストランという形態は、十八世紀末にフランス革命が起こって王政が崩壊し、宮廷や貴族お抱えの料理人が職を失い、生活のために大衆向けの営業を街場ではじめてから発達したものです。(ちなみにレストラン"Restaurant"はフランス語)

 日本の文明開化の時に流入した西洋料理は、宮廷料理の流れを汲んでいて、コース(定食)料理や宴会料理ばかりでした。
 というのも、当時の日本でも、西洋料理は上流階級の人間かお金持ちでなければ食べられず、それも社交の場としてや、宴会料理としての需要が多かったからです。

 さらに言うと、1920年代頃までは、外国人居留地にある外国人用のホテルのレストランでは"table d'hôte"(ターブルドート)と言って、お店には今の日本でいう所のメニューブックがなく、お客さんはテーブルにつくと、料理を注文することなく、お店があらかじめ決まった料理(コース)を一皿ずつ順番に出す、というスタイルが主流でした。

 現在からすると信じ難いかも知れませんが、これは日本が特別だったのではなく、もともとフランスでも当時はそうした形式が主流だったからです。

 ホテルや街の高級レストランで単品メニューが一般的になるのは昭和になってからのことで、その嚆矢が1927年(昭和二年)に開業した横浜ホテルニューグランドだったのです。

 開業時に総料理長としてフランスから招かれたサリー・ワイル氏は、通常のメインダイニングとは別に、単品のア・ラ・カルトメニューを中心にカジュアルに食事を楽しめる「グリル・ルーム」を設けました。
 これこそが、日本の現在のレストランスタイルの原点で、当時このスタイルは大ヒットし、瞬く間に大流行しました。

 もちろん、それ以前の日本に単品メニューが全く存在しなかったわけではなく、「洋食一品売」とか「御好一品」と書かれたメニューもありましたし、関東大震災以降に増えた街場の大衆食堂などでは、単品の洋食は存在していました。

 しかし、きちんとした西洋料理を出すレストランや、ホテルのレストランでは、一品だけ注文しても定食と同じ値段を取られる店もあったほどで、レストランで単品料理を注文するというのは一般的ではありませんでした。
 それに、当時の街場の大衆食堂の洋食というのは、カレーライスや豚カツ、コロッケなどを出す程度で、スパゲッティ料理は存在していなかったようです。

 そうした中、多彩な一品メニューがずらりと並んだ「ア・ラ・カルトメニュー」をレストランで本格的に導入したのがワイル氏で、そうしたカルトメニューの中に、スパゲッティ・ナポリタンがあったのでした。
 (当時の呼び方は、ナポリテーインだとか、ナポリテーヌだとか、色々あったようです)

 戦前ニューグランドで修行し、ホテルオークラの初代取締役総料理長となった小野正吉氏は、和食の名料理人である辻嘉一氏との対談『食の味、人生の味・辻嘉一・小野正吉』(平田嵯樹子/柴田書店)の中で、

「その頃、ホテルの料理は定食がほとんどだったんだけど、ワイルさんは、ダイニングルームのほかに、グリルルームを作ったのね。そこで、ア・ラ・カルトを出していたんです。(中略)スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドーリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ。いま、われわれがちょっと、軽くスパゲッティ一皿なんて食べられるのは、ワイルさんのおかげなんです」

と述べています。

 ア・ラ・カルトを全面に出したワイル氏のグリル・ルームは、当時革命的な大ヒットとなり、他のホテルやレストランでも競うようにしてア・ラ・カルトメニューを出すようになりましたが、こうした経緯が、ニューグランドでナポリタンが生まれたという説が出てくる背景として大きいでしょう。

 ちなみに、アラカルトが流行する前は、料理の付け合わせとしてナポリタンは出されていました。
 先のエスコフィエの料理書にも、付け合わせ料理の項に、"Garniture à la Napolitaine"(ナポリ風ガルニ)という、茹でたスパゲッティをトマトピューレとバターで和えた料理があります。(「ガルニ」とは付け合わせのこと)
 これは主に肉料理に添える付け合わせで、例えば、同書にかれている「コート・ド・ヴォー・ナポリテーヌ」(仔牛背肉のカツレツ・ナポリ風)という料理は、仔牛のカツレツに、トマトで赤い色づけをしたスパゲッティ「ナポリテーヌ」を添えたものですが、これはもう、見た目そのまま、日本の洋食の定番的な盛り付けを彷彿させます

 しかし、そうすると、戦後に第二代総料理長の入江氏が開発したという説とは食い違いが生じます。
 ニューグランドはニューグランドでも、入江氏ではなくワイル氏がオリジナルということになります。

 ここで考えることとしては、戦前にあったナポリタンが、どれだけ我々のイメージする「ナポリタン」と同じであったか?ということでしょう。

 何故なら、ワイル氏の時代にナポリタンが現在の形で確立していたのであれば、その頃からニューグランドにいた入江氏が戦後になって開発したという伝説が、わざわざ生まれたりしないと思うからです。

 おそらく、ワイル氏によるスパゲッティ・ナポリタンは、昔の料理書にあるような、パスタにトマトソースを合わせただけような、シンプルなものだったのではないでしょうか? それを入江氏が、現在のような料理の形に発展させた、ということなのではないか…? と思います。

 この推測の根拠となる一つの例として、開業して間もないニューグランドのワイル氏の元で働き、大阪の高級レストラン「アラスカ」の料理長となった飯田進三郎氏のスパゲッティ・ナポリタンが挙げられます。
 飯田氏のナポリタンは、トマトにミルクを加え、味付けは塩・こしょうだけと、非常にシンプルだったそうです。
 ただ、トマトもミルクも貴重で、そもそもパスタ自体が高級品だった戦前では、それだけでも十分に贅沢な料理だったようです。※2

 しかし、入江氏が戦後GHQの接収から解除されたニューグランドのメニューを新たに作り直そうとした時は、アメリカから西洋の食材が大量に送り込まれて来ていたので、それまでのシンプルなナポリタンに、ハムやマッシュルーム、ピーマンなどを加えて、新たにオリジナル・ナポリタンを開発したのではないでしょうか。

 そしてそれが、世の中のナポリタンのモデルとなり、横浜の洋食屋や軽食堂が真似し、ちょうどアメリカ進駐軍が大量に持ち込んだため手に入りやすいトマトケチャップをトマトソースの代わりに使って、それも「ナポリタン」という名前で広まっていったのではないかと思います。

 ワイル氏の元で料理を学んでいたセンターグリルの石橋豊吉氏が、入江氏からアドバイスを受けてナポリタンをメニューに入れつつも、トマトの代わりにケチャップを使ったというのが、まさに流れの例の一つと言えるでしょう。

 もしくは、ニューグランドでは戦前から、ワイル氏直伝のトマトを使ったナポリタンを提供していたが、戦争に進駐軍の接収が解除されて入江氏がニューグランドに復帰してみると、進駐軍相手に、いくら食料不足とはいえ、トマトケチャップと塩コショウで合えただけの「エセ」ナポリタンが出されているのを見て幻滅し、「本物のニューグランドのナポリタンはこんなじゃない」と思って、ワイル氏時代のトマトベースで作られた、ちゃんとした「ナポリタン」を復活させてメニュー化したことが、ナポリタンの開発者という伝説に変わったのかも知れません。

 ただ、そうであれば、入江氏は、あくまで「復刻者」であり、開発者ではなくなりますが……

 今でこそ、ケチャップではなくトマトソースを使ったナポリタンなんて、それこそニューグランドでしか見ないし、そもそもフランス料理のナポリタンにしても、今日のフランス料理店で見る事はほとんどないため、パスタをトマトソースで味付けしたナポリタンの存在自体にピンと来ない人もいることでしょう。

 しかし、戦前まで遡らなくとも、1976年(昭和五十一年)の『月刊専門料理』には、当時の帝国ホテル総料理長・村上信夫氏がトマトソースを使った料理のレシピを紹介している中に、"Spaghetti à la Napolitaine"があり、作り方は、茹でたパスタをバターで炒め、トマトソースで和え、チーズをかけるように書いています。

 このことからも、少し前までは、日本のホテルでトマトソースで作るナポリタンが特殊なことではなかったことがわかります。

●フレンチ式ナポリタンとケチャップナポリタンの融合

 料理の歴史や、トマトケチャップの日本への流入・普及の時期を考えると、トマトケチャップよりも先に、トマトソースを使ったフランス料理のスパゲッティ・ナポリタンが、現在のナポリタンの原点であったことは、ほぼ間違いないありません。

 ただそれが、本来ならトマトソースを使用して「ナポリ風」とするところを、戦後のトマトケチャップの普及とともに、見た目だけを真似てトマトケチャップで赤い色をつけた「ナポリ風モドキ」がナポリタンとして提供されるようになり、それがいつの間にか、ケチャップ・ナポリタンのほうが主流になっていった、ということです。

 仕込みに手間のかかかるトマトソースに比べてトマトケチャップの方が便利ですし、そうやって街の食堂などで提供されたケチャップ・ナポリタンと、大衆店とは言えないニューグランドのトマトソース・ナポリタンと、どちらの方が大衆への認知度が高まったかは、考えるまでもありません。

 そして、それを一番最初にメニューに載せた店となると、これまでセンターグリル説や、三越食堂説など、諸説が入り乱れていましたが、現時点(2022年)において、単品料理として提供していたことが確認できている最も古いものは、ニューグランドの1934年(昭和九年)1月27日のア・ラ・カルトメニューに載せられていた"Spaghetti Napolitaine"です。

●結び

 ナポリタンに限らず、洋食の元祖は諸説あるものばかりです。
 和食でも、洋食でも、大衆料理のレベルにおいては、きちんと誰かに学んだとか修業したりしなくても、あり合わせの食材で適当に作ってみたら結構イケルので出してみたとか、どこかで提供されている料理を見た目だけ真似て出すなんてことは、古今東西行われていることです。

 それに、世の中の全てのレストランやコックが正統な知識を持っているわけではないので、適当に名前をつけた結果がナポリタンやイタリアンだった、ということも多くあると思います。

 色々書いてはみましたが、ぶっちゃけスパゲッティをトマトケチャップで炒めて出す料理なんてのは、まさにそうやって生まれ、広まった料理ってのが実態でしょう。だから、厳密にその元祖を限定するのは、ほとんど不可能ではないかと思います。

 はじまりは、フランス料理の"Napolitaine"だったとして、結局のところ古くからフランスに存在した料理なわけですから、そもそも、誰が元祖とか、どの店が発祥、という話ではないのかも知れません。

 オムライスやハヤシライスのように、明らかに日本独自の洋食となると、元祖はどこか? という話になると思いますが、ナポリタンやグラタン、ビーフシチューのように、もともとヨーロッパにある古典的な洋食となると、日本で誰が最初にメニューに載せたかを調べるなんて不可能に近いことだと思います。

 そこで「ナポリタン」という名の料理がメニューに載っているさらに古い情報が発見されたところで、「たまたま記録が残っていた最古の情報」に過ぎず、それで元祖が決まる話でもないと思います。

 そういう意味では、ニューグランドも、あくまで「現時点でのナポリタンの一番古い記録である」ということには過ぎないでしょう。

 そこに「ケチャップを使ったナポリタン」と限定して元祖となると、誰が最初にトマトソースをケチャップで代用したかなんて、今となってはわかりようがありません。

 いくら古いメニューを探して「ナポリタン」を見つけたとしても、それがトマトソースで作られていたのかケチャップで作られていたかは判断できないので、もはやこれは永遠の謎…というか、やはり「自然発生」としか、言いようがないでしょう。

 逆にいうと、“ナポリタンとはそういう料理”だと判明したことが、今回のナポリタン研究の結論、と言えるのかも知れません。

 それでも、あえて元祖…というか「先駆け」を決めるとなれば、はじめてNapolitaineを「ナポリタン」と呼んでア・ラ・カルトで「単品料理」として提供したニューグランドのサリー・ワイル氏であり、そしてそれを世にあるナポリタンの手本となる料理に完成させた入江茂忠氏の両名、やはり「横浜ホテルニューグランド」とするのが、とりあえず妥当ではないか…と思います。


 

 【脚注・出典】
  ※1  『横浜の食文化』(教育委員会・P79に掲載)
  ※2  『栴檀木橋〜しがない洋食屋でございます〜』(望月豊/朝日新聞社)
 【参考文献】
  『亜米利加式調理法』(Daughters of America編)
  『荒田西洋料理』(荒田勇作)
  『エスコフィエフランス料理』(オーギュスト・エスコフィエ)
  『月刊専門料理』(柴田書店)
  『食生活世相史』(加藤秀俊)
  『食の味・人生の味 辻嘉一/小野正吉』(柴田書店)
  『初代総料理長サリー・ワイル』(神山典士)
  『西洋料理人物語』(中村雄昂)
  『栴檀木橋 ―しがない洋食屋でございます。―』(望月豊)
  『日本司厨士協同会沿革史』(日本司厨士協同会)
  『百味往来』(全厨協西日本地区本部・川副保・編)
  『フランス料理総覧』(T・グランゴワール、L・ソールニエ)
  『仏蘭西料理・献立書・調理法解説』(鈴本敏雄)
  『古川ロッパ昭和日記』(古川ロッパ)
  『ホテルニューグランド50年史』(渇。浜ホテルニューグランド・白土秀次)
  『ホテル料理長列伝』(岩崎信也)
  『明治大正見聞録』(生方敏郎)
  『明治東京下層生活史』(中川清)
  『横浜外国人居留地ホテル史』(澤護)
  『横浜の食文化』(教育委員会)
  『横浜流 〜すべてはここから始まる〜』(高橋清一)
  『ラ・ルース・フランス料理百科事典』(P.モンタニェ)


 

〜おまけ ナポリタンの作り方〜

 


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