スパゲッティ・ナポリタンの発祥・起源(完全版)

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 洋食屋の定番、「スパゲッティ・ナポリタン」が、日本特有のパスタ料理であることは良く知られているところです。
 というのも、イタリアにはこのような料理が存在しないからです。
 しかし、その発祥や元祖がはっきりしていないので、それを研究して談義することはB級グルメ好きにはなかなか人気のテーマのようです。
 というわけで、この「ナポリタン」の発祥について、日本におけるパスタ料理の歴史まで遡ってまとめてみました。

 なお、ナポリタンの歴史について調べているサイトは他にもいくつかありますが、情報量・深さは、おそらく当サイトが一番ではないかと思います
 今でこそウィキペディアの情報等も充実していますが、このページを作った当時(十年以上前)、専門的な視点での情報は皆無に等しく、横浜ニューグランドの戦前のメニューにナポリタンが載っていたとか、エスコフィエの料理書や大正時代の料理書にはスパゲティナポリタンが記載されているといった情報を発信したのはこのサイトが初出です。
 
 全部読むとなるとかなりの労力を要するため、あまりマニアな知識を求めていない方は簡易版をどうぞ。

 ⇒ナポリタンの発祥・簡易版

●発祥説として有名な“横浜ホテルニューグランド”

 ナポリタンの発祥として定説とされているのが、横浜ホテルニューグランドの第二代総料理長・入江茂忠氏が考案したという説で、現在でもナポリタンはニューグランドの名物料理として提供されています。
 
ニューグランド第四代総料理長・高橋清一氏の著書『横浜流 -すべてはここから始まった-』(東京新聞出版局)によると、第二次大戦後、ニューグランドの総料理長に就任した入江氏は、アメリカの進駐軍がスパゲッティにトマトケチャップと塩コショウをかけて簡単に食べているのを見て、もっときちんとした料理にして提供しようと考えて作り出したメニューが、「スパゲッティ・ナポリタン」だったと説明しています。

 これが、ナポリタンの発祥として一番広まっている説です。

 なお、考案者の入江氏は、ニューグランドの初代総料理長サリー・ワイル氏の下で腕を磨き、戦後GHQによってホテルが接収された際、一時ニューグランドを離れましたが、1952年にホテルの接収が解除されるとニューグランドに復職し、第二代総料理長に就任しました。

 しかし、これで決定とならないのが、ナポリタン談義の深いところ。

 最近では、第二次大戦終了直後の1946年(昭和二十一年)に横浜で開業したレストラン”センターグリル”で、開業の頃よりナポリタンを提供していた、という説があります。1946年となれば、入江氏がニューグランドに復帰するより前の話です。
 ですが、実はそもそも戦前のニューグランドの1934年(昭和九年)1月27日のア・ラ・カルトメニューには、すでに"Spaghetti Napolitaine"があったのです。※1
 また、同年の12月に、戦前・戦後に活躍したコメディアン・古川ロッパ氏が、日本橋の三越食堂でスパゲッティのナポリタンを食べたと『古川ロッパ昭和日記』の中に書かれてもいます。
 ただ、センターグリル開業時は、ナポリタンではなく「イタリアン」という名前で提供され、後で改名したもの、という話もあり、戦前のニューグランドの"Napolitaine"はフランス語であり、三越の「ナポリタン」が具体的にどのような料理であったかは全くわからなかったりと、現在イメージするナポリタンと同じかどうか判断するには十分な材料とは言えません。

 しかしながら、そもそも日本のナポリタンのスペル"Napolitan"は、フランスにもイタリアにも英語にも存在しない和声造語なので、「ナポリタン」という言葉そのものが、何を読んでそうなったのか、何からそうした綴りが生まれたのか、それ自体はっきりしていません。

 これらの疑問を解決するには、そもそも日本における洋食とパスタの歴史まで踏まえて考えなければわからないので、そこまで遡って紐解いていくことにします。

●日本の西洋料理のはじまり

 まず、日本に純粋なイタリア料理としてのパスタ料理が普及したのは、実はかなり最近、それもここ数十年のことなのです。
 日本における西洋料理の原点を辿ると、
日本は、江戸時代に長らく鎖国していたので、西洋文化の流入はほとんどせず、唯一貿易が認められていた長崎において、わずかに影響を受けていたに過ぎませんでした。
 本格的に西洋文化が日本に入ってくるのは、1853年(嘉永六年)の黒船の来航を契機に、その翌年、横浜・神戸・函館の三港を開港し、開国してからのことです。

 開国とともに日本にやってきた西洋人は、半分以上がイギリス人で、次にフランス人が多く、あとはアメリカ人、ドイツ人と続き、イタリア人はごく少数でした。
 そのため、その頃日本に入って来た洋食は、イギリス系かフランス系の料理が中心でした。特に、日本の王室や海軍はイギリスをお手本に、日本陸軍はフランスお手本に(後にドイツに変更)学んだので、この両国から大きく影響を受けました。

 当時(十九世紀)のイタリアというのは、「イタリアというのは地理的な名称に過ぎない」というメッテルニヒ(1773〜1859)の言葉に象徴されるように、まだ現在のような形では統一されておらず、1861年にようやくイタリア王国が成立したものの、まだまだイギリスやフランスのように海外植民地の開拓に手を拡げられるような強い国ではなかったからでしょう。

 日本で最初のイタリア料理店は、1884年(明治七年)に、イタリア人のピエトロ・ミリオーレ氏が新潟で開いた“イタリア軒”といわれていますが、当時、それが日本全体に広まるほどの影響力はなく、このミリオーレ氏にしても、イタリアから来たというより、フランスのサーカス団に従属していたコックであり、巡業中に事故に遭って止むを得ず新潟に留まったという稀なケースで、開国した頃の日本には、イタリアの文化はあまり入って来なかったのです。

 ことに食文化において、明治〜大正にかけての日本では、「西洋料理」といえば基本的にフランス料理でした。
 というのも、そもそもヨーロッパでは、イギリスやアメリカを含めて上流階級の社交会やパーティでの正餐はフランス料理だったからです。
 そのため、築地や横浜の外国人居留地に外人たちが開いたホテルのメインレストランはフランス料理で、明治政府も、西欧列国と対等な付き合いをするために、公式行事や接待における正餐をフランス式と定めたほどでした。

 こうした背景から、明治期に生まれた西洋料理店というのは、そうした社会的ニーズによって生まれたものが多く、日本初の西洋料理店といわれている長崎の“良林亭”をはじめ、“精養軒”、“富士見軒”、“東洋軒”、“中央亭”といった、明治期に名声を得ていた洋食屋のほとんどが、政財界の有力者をパトロンや顧客として盛業したフランス料理店でした。

 中でも精養軒は、1871年(明治四年)に開業した、現存する日本最古のレストランで、初代料理長は、カール・ヘス(通称チャリヘス)という、スイス出身のフランス料理人で、本格的な西洋料理店でした。
 そのため、海外と接することの多い海軍では、士官に西洋式の作法を身に付けることを義務付け、精養軒で食事することを奨励し、精養軒でどれだけ食事をしたか、領収書の数をチェックされたほどだったそうです。

 日本における洋食のはじまりは、こうした、開国とともに日本やってきた外国人たちが作った料理が原点です。

 そこで出されていた料理は、基本的にはフランス料理をベースとしながらも、イギリスやアメリカといった、それぞれのコックの出身国の食文化の影響や、当時の日本の食材事情、嗜好に合わせてアレンジされることもあり、そうした雑多な西洋料理が明治期における洋食でした。
 日本洋食界の黎明期のコックは、居留地の外国人ホテルか、外国人館(公使館や私邸)、外国船で料理を学んだと言われ、中でも外国人居住数が圧倒的に多かった横浜居留地の外国人ホテルが、日本における洋食のメッカとなりました。

●日本のパスタ料理史

 では、そうした時代の日本にパスタ料理はあったのかというと、明治時代の日本の料理書にマカロニやスパゲッティの記述があるので、存在はしていたようです。
 しかしそれは、イタリア料理としてよりも、当時の日本の西洋料理のスタンダードであった、フランス料理の中でのパスタ料理だったようです。

 今も昔も、フランス料理では、ガルニ(付け合わせ)にパスタやリゾットを添えることは珍しいことではありません。野菜料理の一品として出されることもあり、日本の最初のパスタはそうしたフランス料理の一部として存在していたのでした。

 フランス料理にパスタがあるのは、フランス料理がイタリア料理の影響を受けて発達したという背景も関わっていますが、フランスの郷土料理にも「ヌイユ」(英語でいうところのヌードル)という独自のパスタがあり、もともとフランスにも麺類を食べる習慣があるのです。

 十九世紀から二十世紀はじめにかけてフランス料理界の帝王として一世を風靡した、オーギュスト・エスコフィエ(1845〜1937)という料理人は、それまでのフランス料理を体系化し、約5,000ものレシピにまとめた、"Le Guide Culinaire"という料理書を1902年に刊行し、これは古典フランス料理の集大成として現代でも読まれている有名な料理書ですが、そこでパスタは野菜料理のひとつとして扱われ、マカロニを入れたグラタンや、肉や魚料理の付け合せにスパゲッティやマカロニを添える、といったレシピがいくつも掲載されています。

 こうした料理は、まさに今の日本で「洋食」と呼ばれている料理の原点で、日本でのパスタのはじまりは、こうしたフランス料理の中でのパスタ料理だったのです。
 今日の洋食でも、料理の付け合わせにスパゲッティが添えられるのをよく目にしますが、これは昔のフランス料理のスタイルに由来しているのです。

 純粋なイタリア料理が日本で認知されるようになるのは、イタリア海軍のコックだったアントニオ・カンチエミ氏が、1950年に西麻布で開業したイタリア料理店“アントニオ”が評判になったり、1960年に川添浩史・梶子夫妻が、イタリア大使館のコック・佐藤益夫氏を料理長にして六本木に開いた“キャンティ”が話題になってからだといわれています。

 それでも、日本では長らく「パスタ料理」というと、古典フレンチを起源にする洋食系か、戦後の進駐軍やアメリカンスタイルのチェーンレストラン(いわゆるファミレス)の展開と共に広まったアメリカ系のパスタ料理が主流で、純粋なイタリアのパスタ料理が日本に広まるのは、1990年代に、いわゆる「イタメシ」ブームが訪れてから以降です。

●ア・ラ・カルトのはじまり

 また、少し余談ではありますが、明治・大正期の日本の洋食は、十八世紀から十九世紀初期のフランスの食事形式の影響を強く受け、単品料理というのは基本的になく、コース(当時は定食と呼ばれた)や宴会料理が中心でした。
 
意外に思われるかも知れませんが、レストランで料理を単品、つまりア・ラ・カルトで注文するのが当たり前になるのは、フランスでも十九世紀以降のことで、日本では昭和になってからなのです。

 そもそも、今のようなレストランという形態は、フランスにおいても十八世紀末にフランス革命が起こって王政が崩壊し、宮廷や貴族お抱えの料理人が職を失い、生活のために大衆向けの営業を街場ではじめてから発達したもので、一般人が気軽にランチやディナーを取るような、現代では当たり前の外食スタイルは、歴史としてはそれほど古くないのです。

 日本の文明開化の時に流入した西洋料理は、時代的にはまだ封建時代のヨーロッパの宮廷料理の流れを汲んでいて、コース(定食)料理や宴会料理ばかりでした。というのも、当時の日本においても、西洋料理などというものは上流階級の人間かお金持ちでなければ食べられず、それも社交の場としてや、宴会料理としての需要が多かったことが理由として大きいでしょう。

 明治〜大正時代の日本はまだ、現在では想像もつかないくらいの格差社会です。そこに、高価で、しかも当時の感覚としては珍奇な西洋料理を口にする人種というのは、一部の富裕層のみであり、一般大衆にとっては関わりのない世界の話でした。当時の飲食店の全てが高級店だったわけでは当然ありませんが、「洋食」となると、調理技術が特殊だったことはもちろん、何より西洋料理に使う食材自体が高価だったので、高級品にならざらるを得なかったのです。現在では大衆的になっている老舗洋食屋でも、かつては高級料理店だった店がほとんどです。

 ただ、明治時代はともかく、大正時代になると、もっと洋食が大衆化していたのでは?と思う人もいるかもしれません。
 しかし、よく「大正ロマン」という言葉を引き合いに出して、大正時代の日本は華やかで豊かな時代だったと想像している人がいますが、大正時代は、第一次世界大戦の渦中であり、深刻な食糧不足により、史上最大級の打ち壊しが発生した時代です。
 「一億総中流」時代を経た現在の日本からは想像もつかないかも知れませんが、大正時代というのは、まだ前時代的な不平等な社会でした。
 華やかだったのは、軍需産業で富を得た一部の資本階級に過ぎません。大正八年の三井物産の夏のボーナスは月給の四十か月分だったという、これもある意味現在では考えられない羽振りを見せる一方、プロレタリア文学が生まれ、『女工哀史』に代表されるよう、悲惨な労働者が生まれた時代です。

 洋食がある程度大衆化するのは、1923年(大正十二年)の関東大震災以降のことで、1924年に、東京の神田に「簡易洋食」ののれんを掲げた“須田町食堂”(現在の株式会社聚楽)などがその嚆矢です。
 安価に洋食を提供するために、紙のように薄い豚肉で作ったカツレツや、じゃがいもと内臓肉を使ったコロッケなどを出して、大いに人気を集めました。
 しかしそれでも、あくまでそれは「東京」という、日本最大の都市での話であり、日本という国全体で見れば、ほとんどの地方が依然として、白飯に干物とたくあんがあれば十分ごちそうと言えるような、昔ながらの暮らしのままでした。

 また、都市部においても、ホテルや街の高級レストランで、気軽に一品料理を注文して食べるようなア・ラ・カルトのメニューが一般的になるのは、1927年(昭和二年)に横浜ホテルニューグランドが開業してからのことです。
 初代総料理長としてフランスから招かれたサリー・ワイル氏が、一品メニューを中心にカジュアルに食事を楽しむ、グリル・ルームを開設して大ヒットしたことで、日本にア・ラ・カルトスタイルが広まりました。

 もちろん、それ以前の日本にア・ラ・カルトが全く存在しなかったわけではなく、「洋食一品売」とか「御好一品」と書かれたメニューもありましたが、一品だけ注文しても定食と同じ値段を取られる店もあったほど、レストランで単品料理を注文するというのは一般的ではなく、そうした食べ方は大衆食堂のやり方で、格の高いレストランの食べ方ではないと思われていました。
 実際には、ニューグランドが開業する以前に、帝国ホテルが大正末にグリル・ルームを開設していたのですが、それもほとんど話題になりませんでした。
 そうした風潮の中、いわゆるレストランで、一品メニューがずらりと並んだメニューを本格的に導入したのは、サリー・ワイルが初めてでした。

 ワイルのグリル・ルームが評判になったのは、単にそれまで日本にあった洋食を単品にしたのではなく、これまで日本で知られていなかった世界各国の料理を揃えた画期的なメニューで、お客様の要望に合わせて即興でも料理を作り、服装にドレスコードを設定せず、客席で煙草を吸っても良い、というように、現在では当たり前のカジュアルで気楽に色々な食事を楽しめるレストラン空間だったからです。
 つまり、ワイルのグリル・ルームは、日本における近代レストランのはじまり、とも言えるかも知れません。

 ニューグランドのア・ラ・カルトが評判になったので、他のホテルやレストランでも競うようにしてア・ラ・カルトメニューを出すようになり、帝国ホテルもコックを海外研修に出し、メニューの刷新を図ります。
 街のレストランでも、ワイル氏の下で料理を学んだ飯田進三郎氏が、早くも1928年に大阪のレストラン「アラスカ」でア・ラ・カルトメニューを出して評判になり、その後アラスカは銀座にも支店を出しています。

 1934年には、東京の数寄屋橋にニューグランドが支店「東京ニューグランド」を開業し、横浜と変わらないア・ラ・カルトを提供するなどして(この店はホテルではなくレストラン営業のみ)、ア・ラ・カルトスタイルは瞬く間に全国で認知され、日本全国に広まっていきました。

●フランス料理のナポリタン

 このように、日本のパスタ料理史にはフランス料理が深く関わっているわけですが、そうした時代の日本で提供されていたフランス料理のパスタがどういうもので、それがどうナポリタンに結びつくかについて説明します。

 かつてのフランス料理でのパスタは、よく付け合わせに用いられました。先のエスコフィエの料理書にも色々なパスタ料理が掲載されていますが、中でも付け合わせ料理の項に、"Garniture à la Napolitaine"(ナポリ風ガルニ)という料理があり、その作り方は、茹でたスパゲッティにチーズとトマトピューレとバターを和えると書かれています。

 このガルニチュール・ア・ラ・ナポリテーヌは、主に肉料理に添える付け合わせで、例えば、同書にかれている「コート・ド・ヴォー・ナポリテーヌ」(仔牛背肉のカツレツ・ナポリ風)という料理は、仔牛のカツレツに、トマトで赤い色づけをしたスパゲッティ「ナポリテーヌ」を添えたものですが、これはもう、見た目そのまま、日本の洋食の定番的な盛り付けを彷彿させます。

 また、エスコフィエと同世代の料理人、プロスペール・モンタニェが書いた"Larousse gastronomique"(ラルース・料理百科事典)には、"Spaghetti à la napolitaine"のレシピがあり、そこには、茹でたスパゲッティにトマトソースとチーズを合えるように書かれています。
 さらに、T.グランゴワールとL.ソールニエが書いた"Le repertoire de la cuisine"(1912年刊)という料理書にも、野菜料理のSpaghettiの項に"Napolitaine"があり、作り方は茹でたパスタにトマトのみじん切りとトマトソースを和えるとあります。

 この、トマト味をつけたフランス料理のスパゲッティが、日本でも大正時代には知られていたことは明らかで、1920年(大正九年)に発行された『仏蘭西料理献立書・調理法解説』(鈴本敏雄著)には、野菜料理の項・麺類のところに、"Spaghetti à la Napolitaine"という料理がはっきり書かれてあり、作り方は、茹でたスパゲティに、トマトとチーズを加えて、ハムを加えたブイヨンで煮込む、とあります。
 もちろん、付け合わせ料理の項にも"à la Napolitaine"とあり、そこにはスパゲッティにパルメザンチーズとトマトソースを和える、と書かれています。

 このことから、大正時代の日本のコックはすでに、トマト味をつけたスパゲッティを"Napolitaine"という名前で認識していたことがわかります。

 つまり、ナポリタンのようにトマト味で赤い色をつけたスパゲッティは、戦後に入江氏が開発するよりもっと以前、さらにニューグランドが開業するより前から、日本に存在していたわけです。

 ちなみに、この『仏蘭西料理献立書・調理法解説』の筆者である鈴本敏雄氏は、先の精養軒の全盛期を築いた名料理人で、同書は、“料理人が書いた”料理書としては日本で最初のものと言われ、当時の西洋料理人必携の書だったそうです。
 
戦前にニューグランドで修行し、戦後に“ホテルオークラ”の初代総料理長になった小野正吉氏は、『ホテル料理長列伝』(岩崎信也/柴田書店)の中で、修業時代にはこの本を愛読していて、「これが一番大事な先生だと思ってた」と述べているほどで、マイナーな料理書ではありません。

 ただ、先に述べたように、日本で西洋料理をカルトで提供するようになることは昭和に入ってからなので、大正時代のパスタ料理"Napolitaine"は、あくまで付け合わせ料理やコース・宴会料理の一部であり、単品料理として存在していかどうかは、はっきりしていません。

●フレンチのトマトソース

 ここで、ナポリタンの特徴である赤い色の味付け、つまり「トマトケチャップ」あるいは「トマトソース」の、日本における歴史について考えてみましょう。日本の西洋料理がフランス料理にはじまったとはいえ、パスタ料理のソースなら、イタリア料理のソースが関係していると、誰でも思うところです。

 イタリア料理のトマトソースは、「サルサ・ポモドーロ」と言って、基本的にトマトとオイルとバジルをあわせただけのシンプルなものです。それにガーリックとオレガノを加えると「マリナーラ」、パンチェッタを加えると「アマトリチャーナ」、唐辛子を加えると「アラビアータ」というように、バリエーションを展開させます。
 それに対して、フランス料理での「ソース・トマト」は、オニオンやセロリ、ガーリックなどの香味野菜をソテーし、それにトマトを加え、コショウとローリエで香り付けするのが基本的な作り方で、場合によってはルー(バターと小麦粉を合わせたもの)で濃度を付けることもあります。

 このように、イタリア式とフランス式では、トマトソースといっても味わいも風味も異なりますが、昔の日本の西洋料理は、フレンチをベースに発展したものだったので、トマトソースの作り方も、ほとんど全てフランス式の調理法をとっていました。

 昔と言ってもそんな大昔ではなく、日本では1990年代にパスタ・ブームが到来する前までは、日本で「トマトソース」と言えば、どこでもこのフランス式のトマトソースが圧倒的に主流だったのではないでしょうか。
 家庭用の料理本でも、ちょっと前ごろまでは、「トマトソースの作り方」といえば、野菜を炒めてトマトを合わせ、ローリエを入れて煮込む、というような、フランス式の作り方で書いてあったのを記憶している人も多いことと思います。
 今日でも、イタリアンの料理本でなく、家庭向けの汎用的な料理本なら、そうしたフレンチ式で書かれているものも少なくないと思います。

 こうしたことからも、日本の洋食界がいかにフランス料理の影響を強く受けていたかがわかります。

●トマトケチャップの歴史

 とはいえ、現在の「ナポリタン」の味付けは、圧倒的に「トマトケチャップ」なので、フランス料理だとかトマトソースではなく、もっと大衆的な“スパゲッティのトマトケチャップ炒め”が別にあったんじゃないか?と思う人も多いことでしょう。
 トマトソースで作ったナポリタンとトマトケチャップで作ったナポリタンでは、味がかなり違うため、起源が別なように感じるのは当然のことです。

 これについては、トマトケチャップが日本にどのように普及し、使われたかによって、ある程度推定することが出来ると思います。

 もともと「ケチャップ」というものは、必ずしもトマトをベースに作られた調味料ではなく、むしろトマト以外の様々な食材を使って作られたものが主流で、現在のようなトマトベースのケチャップを世界で最初に開発したのは、1876年(明治九年)、アメリカのハインツ社です。※3

 トマトを使ったケチャップ自体は十八世紀後半にも作られていたようですが、味は現在のものとは全く違い、あまり人気は無くマイナーな存在だったようです。
 そこに、今日馴染みのあるような、甘酸っぱいトマトケチャップを作ったのがハインツ社であり、それ以降はアメリカを中心にハインツスタイルのトマトベースのケチャップに人気が集中し、現代に至るまで、このハインツスタイルのトマトケチャップが世界のケチャップの主流になっています。

 このように、トマトケチャップは近年アメリカで開花したものなので、伝統的なイタリア料理にはトマトケチャップのパスタ料理は存在しません。(現在でもほとんど使われないようです) 

 このトマトケチャップが日本に最初に輸入されたのがいつかは正確にわかりませんが、開発された時期から考えて、早くても明治中期頃でしょう。
 そして、1903年(明治三十六年)には、横浜の清水與助氏が日本で最初のケチャップを製造販売し、1908年(明治四十一年)には、カゴメ創業者の蟹江一太郎氏がトマトケチャップの製造販売を開始しています。
 
このことから、明治の末期にはトマトケチャップが日本に存在していたことは確かです。

 では、そのトマトケチャップが、当時の街の洋食屋ですぐに使われるようになっていたのでしょうか…?

●トマトケチャップは高級品

 「西洋料理といえばフランス料理」であったとはいえ、日本にそれを持ち込んだ西洋料理のコックというのは、船乗りのコックや上海流れのコック、フランス人からイギリス人、スイス人、アメリカ人、中国人など、その経歴もレベルも国籍も一様ではないので、日本的なアレンジ以前に、かなり雑多な西洋料理が入っていたのが実態でした。

 中には、いい加減な経歴の外人コックが、適当な作り方で、それらしい名前で洋食を作っていた可能性も大いにあります。
 また、明治初期の西洋料理店は上流階級向けの店が主流でしたが、大正〜昭和にかけて、特に関東大震災以降、大衆向けの洋食店が急増したので、そうした街の洋食屋では、調理法がグレードダウンされたり、正式なフランス料理のレシピではなく、簡略化された手法も用いられたことでしょう。

 そこで、フランス料理で使われるパスタのトマトソース和えを、見た目だけ真似て、簡単にトマトケチャップで代用して作るということが、どこかの店で行われて、それが日本式のナポリタンになったという可能性は、十分に考えられます。

 しかし、戦前のトマト・ケチャップは、今のような廉価な大衆向け調味料ではなかったようです。
 今でこそ「ケチャップ」というと、お手軽でジャンクフード的な印象がありますが、輸送コストが現在とは比べ物にならないほど高かった当時は、ケチャップに限らず輸入食材自体が高級品であり、明治時代から輸入食材を販売していた竃セ治屋の記録によると、1908年(明治四十一年)のトマトケチャップの値段は、一本三十五銭だったそうです。

 その頃の物価は、鯛焼が一個一銭、もり蕎麦が三銭、コーヒーが一杯五銭だったので、今の貨幣価値に換算すると、ケチャップ一本がニ〜三千円くらいするような感覚ではないでしょうか。
 もちろんこれは感覚的な換算ですが、鯛焼きが三十五個買える・蕎麦が十杯以上食べられるだけの値段に相当するとなると、間違いなく超高級調味料です。大衆店や家庭で、およそ「手軽」に使えるようなシロモノではないでしょう。

 国産品にしても、そもそもトマト自体が日本では長らく食品としての人気がなく、ほとんど栽培されていなかったので、トマトケチャップの主材料であるトマトそのものが、安価に入手できる野菜ではありませんでした。もともと日本には、トマトのように真っ赤な色の食材は存在しなかったので、その血のような色が当時の日本人には抵抗があり、西洋野菜の中でも特に売れず、なかなか本格的に生産されるようにならなかったようです。
 そのため、明治末頃に国産のトマトケチャップが製造されるようになったといっても、当初は高級な調味料のひとつでした。

 それが、大正のはじめ頃にトマトが大豊作になってトマトの価格が値崩れしたあたりから、原料のトマトが価格的に手に入りやすくなっていったようです。
 ただ、1908年(明治四十一年)からトマトケチャップの販売を開始しているカゴメの記録によると、そうはいっても販売当初のトマトケチャップは全く売れず、最初は主に保存食として海軍などに利用されていたようで、そこから、大正時代にアメリカから技術者を招くなどしてトマトケチャップ製造の試行錯誤を行い、品質改良に伴って、少しずつ売れるようになっていき、本格的に売れるようになったのは昭和に入ってからだそうです。
 その頃には値段も随分下がっていて、家庭用の料理本や婦人雑誌でも材料にトマトケチャップが登場するようになっていたようです。

 とはいえ、当時の日本の所得・文化水準において、料理本や婦人雑誌を購入したり、家庭で洋食を作るような主婦というのは、上流階級か富裕層の話なので、現代の感覚で婦人雑誌にレシピが掲載されているのとはわけが違います。
 昔の日本人の食卓といえば、ひとつのちゃぶ台を囲んで、雑穀飯に一汁・一菜が日本の一般的な大衆の食卓の風景であり、一般家庭の食卓にパスタが並ぶのは、昭和も中期、高度成長期を迎えてからのことです。
 
日本でトマトが大掛かりに栽培されて大衆化するのは、第二次世界大戦後に、アメリカの進駐軍が日本で西洋野菜の栽培を推進してからであり、トマトケチャップも、進駐軍が軍用食として、また配給品として大量に日本に持ち込んでからのことです。

 こうした背景から、明治〜大正時代頃までの洋食店で、パスタをトマトケチャップで味付けをして出すということは、少なくとも今のB級グルメ的な感覚で出せるようなものでなかったことがわかります。

 現在の感覚では、「高級店で使われるトマトソースの代用品として、大衆店ではトマトケチャップが使われた」と想像がされがちですが、少なくとも昭和に入るまでは、トマトケチャップを大衆洋食店で使われていた可能性が低く、トマトケチャップ・ナポリタンが大衆料理店から生まれて広まったとは考えにくいと思います。(もちろん、作られた可能性はゼロではありませんが)

●日本海軍のナポリタン

 ナポリタンの発祥のルートとして、日本海軍食の可能性があげられることがあります。
 先にも述べたように、日本海軍では、トマトケチャップが海軍の御用達品となっていました。
 戦前の海軍食は西洋料理がメインだったので、長持ちし、簡易に味付けできるトマト・ケチャップは、軍用食材としてちょうど良かったのでしょう。

 しかし、戦前の日本海軍で、スパゲッティにトマトケチャップが作われていたかどうかに関しては、明確な資料が残っていません。
 わかっていることとして、1932年(昭和七年)に作られた『海軍研究調理献立集』には「マカロニナポリタン」という士官向けの料理が掲載されていますが、この料理のレシピは、マカロニにトマトソースとチーズをかけてオーブンで焼くという、どちらかというとグラタンに近い料理で、少なくともパスタをトマトケチャップで和えた料理ではありませんでした。(この料理はエスコフィエのレシピに近いものがあります)

 だから、海軍料理のナポリタンは、現在のナポリタンの直系の先祖ではなく、少なくとも昭和初期には、それにあたる料理は存在しなかったようです。

 もちろん、これだけの理由で海軍説がないと言い切れるわけではありませんし、レシピ化されていなくても、海軍の兵隊たちが、船の上で茹でたパスタにケチャップをかけて適当に食べていた可能性は考えられますが、今のところ、それを証明する資料は発見されていません。

●"Napolitaine"=ナポリタン?

 ところで、「ナポリタン」という名前はどこから来たのでしょうか。
 フランス料理では、調理法やスタイル一つひとつに定義を付け、それに応じて「○○風」という名前をつけるのが慣習となっていて、トマトソースを使った料理には、「ア・ラ・プロヴァンサル」(プロヴァンス風)と名付けられることが多くあります。
 というのも、南仏のプロヴァンスはトマトの産地であり、その郷土料理にはトマトを使ったものが多いからです。

 しかし、パスタは元来イタリア料理なので、パスタを添えた料理には、やはりイタリアの地名がよく使われます。だから、肉料理などにスパゲッティやマカロニが添えられる場合は、「ア・ラ・ミラネーゼ」(ミラノ風)、「ア・ラ・ヴェニシエンヌ」(ヴェニス風)といったように、イタリアの地名があてられることが多く、そこで、イタリアではトマトの生産とともにトマトソースのメッカと言えば南イタリアのナポリなので、トマト味をつけたパスタを添える場合は、「ナポリ風」、つまりフランス語で「ナポリテーヌ」と呼ぶわけです。

 フランス料理では、肉や魚料理に、スパゲッティのトマト和えを添えたら「ナポリテーヌ」、春野菜を添えれば「プランタニエ風」などと呼び方を変え、こうすることで、メニューを見れば調理法から付け合わせまで料理の内容がわかるようにするのが慣習になっていました。
 これは、オート・キュイジーヌと呼ばれる、フランスの宮廷料理を起源とする一つの形式です。(ちなみにチョロギを添えると「ジャポネーズ」(日本風)と呼ばれます)

 しかし、「ナポリタン」という読み方については、果たして何語がなまって生まれた言葉がなのか、実はよくわからないのです。
 仮に「ナポリテーヌはフランス語だからナポリタンとは違う」、としたとしても、では「ナポリタン」は何語なのか?、となると「英語」と思われがちですが、「ナポリ風」を英語表記すると"Neapolitan"で、これを、単純にローマ字読みしたら「ネアポリタン」です。英語で
発音すると「ニートゥン」といった感じになるので、耳で聞いた感じでは「ナポリタン」とはかなり違います。
 英語の"Neapolitan"をローマ字読みした「ネアポリタン」なら、早口にして耳で聞くと、「ナポリタン」っぽく聞こえなくもないです。
 しかし一方、フランス語の"Napolitaine"も、耳で聞くと、「ポリテ」といった感じで、頭にアクセントがあるので、こちらも「ナポリタン」と聞こえなくもない。いずれにせよ、どちらが「ナポリタン」の語源と断定するかは、微妙なところです。

 なお、戦前のレストランでは、街の洋食屋から一流ホテルのメニューまで、フランス語と英語がごちゃまぜになった表記のメニューが珍しくありませんでした。(ニューグランドのメニューはまさにそれでした)
 これは、当時の日本が、イギリスを手本に西洋文化を吸収しようとしていたことや、開国時の日本にいた外国人はイギリス人が圧倒的に多かったという背景も関係しているでしょう。

 また、当時の世界の列強の筆頭格が英米で、公用語が英語になりつつあり、日本でも「蘭学塾」を開いていた福沢諭吉は「英学塾」に改称し(後の慶応義塾)、明治政府でも英語を公用語にするかどうかが議論されたほどでした。
 洋食界においてもイギリスの影響は顕著で、今でも日本の洋食の定番である「ビーフ・シチュー」が、明治期でも定番として存在したことから、それが伺えます。「シチュー」という料理の呼称は英語で、フランスでは牛肉の煮込み料理のことをビーフ・シチューとは言いません。

 現在でも、古い洋食屋の中には、「仏蘭西料理」と看板を掲げながら「ビーフ・スチュー」とメニューに書いてある店がありますが(人形町”芳味亭”など)、そもそも、明治〜大正にかけて、日本の洋食はフランス料理をベースに発展したはずなのに、当時から「チキン」(フランスならプーレとかボライユと言う)だとか「ビーフ」(フランスならブフという)、英語表記が多く見られることから、いかに英語が強かったかがわかります。

 日本の洋食がイギリスの影響を強く受けていたことについては、辻調理師専門学校創立者の辻静雄も、著書『フランス料理の学び方』の中で、日本にフランス料理が入ってきた初期の時代について、「どちらかといえばイギリス風の料理が多かったようです。なぜかというと、そのころイギリスの国力がフランスよりも強かったからです」と書いています。

 西洋料理を英語読みする傾向は、現在でも根強くあります。
 例えば、グラタンやパスタは、それぞれフランスやイタリア由来の料理ですが、実際にレストランのメニューとしては、「チキンのグラタン」とか、「ミート・スパゲッティ」と書かれたりするのは、現在の日本でも珍しくないことです。
 フランスで修行したコックが開いたフランス料理店でさえ、「本日のランチ」といって店頭に黒板なんかでメニューを書くときは、「若鳥のチキンのソテー」とか、日英仏語が入り乱れた書き方をしているのは、今日でもよく見かけることです。
 パスタのミートソースは、本場イタリアでは「ボロネーゼ」と言うことは今日ではずいぶん知られていると思いますが、それでも「ミートソースのスパゲッティ」とメニューに書く店は少なくありません。

 特にニューグランドについては、様々な国の顧客が多かったことと、ワイル氏の発案で、当時あまり知られていないアメリカ料理をメニューに加えていたことや(チキン・ア・ラ・キングなど)、フランス料理なのに敢えて英語表記することが斬新で洒落ていたから、あえて英語表記を利用していたそうです。

 こうしたことから、そもそも日本では、今日においてすら、料理名をフランス語や英語などをごちゃまぜにしてメニュー表記したりする国なので、「ナポリタン」という料理名は、そもそも元がフランス料理から来たのかアメリカやイギリスなど英語圏の料理から来たのかを厳密に区別することは不可能に近い、というか、あまり意味がなく、フランス料理の"Napolitaine"が「ナポリタン」と聴き取られていた可能性も、フランス料理の"Napolitaine"が英語で"Neapolitan"と書かれ、それを「ナポリタン」と聴き取られた可能性も、イギリスかアメリカに存在したかも知れない"Neapolitan"という料理が「ナポリタン」と聴き取られた可能性も、全部あり得るわけです。

 ちなみに、横浜ホテルニューグランドには、館内に1935年のアラカルトメニューの写真が展示されていて、そこには"Spaghetti Napolitaine"があり、その横にはカタカナで「スパゲチ ナポリテーイン」と書かれています。
 ローマ字表記ではフランス語ですが、読みは微妙にフランス語読みと英語読みの中間。これを何読みと言うべきかはわかりませんが、少なくとも、戦前のニューグランドにおいて、"Napolitaine"のことを、「ナポリテーヌ」と、正確な(?)フランス語読みすることにこだわっていなかったことは間違いなく、むしろ「ナポリタン」に近い読み方をされていたようです。

●フランス式「ナポリテーヌ」が「ナポリタン」

 ただ、それでも、フランス料理の"Napolitaine"と洋食の"Napolitan"を同一と結びつけるのは、飛躍しているように思われるかも知れません。

 そこで、戦前のニューグランド関係者の証言を文献から拾ってみると、ワイル氏の一番弟子と言われる、元“日活国際ホテル”総料理長の馬場久氏は、『西洋料理人列伝』(中村雄昂著/築地書館)の中で、ワイル氏がニューグランドで、仔牛のピカタの下に「スパゲッティ・ナポリタン」を敷いた「仔牛のピカタ・ナポリ風」という料理を出していた、と述べています。

 パリから招聘されたワイル氏は、当時ヨーロッパ料理界を席巻していたエスコフィエの影響を大きく受けていて、先の"Le Guide Culinaire"に書かれている料理をニューグランドで提供していたと言われていますが、この「仔牛のピカタ・ナポリ風」が、先のエスコフィエの「仔牛のカツレツ・ナポリ風」のアレンジである事は一目瞭然です。
 「ピカタ」は元々イタリア料理なのですが、ワイル氏はフランス料理だけでなく、ヨーロッパ全般の料理を得意としていて、イタリア料理やオーストリアの料理などもメニューに加えていて、特にピカタは当時の日本では知られていない料理だったので、ワイル氏のスペシャリテとなりました。

 このように、戦前のニューグランドで勤務し、フランス料理のコックである馬場久氏が、付け合せのナポリテーヌのことを「ナポリタン」と呼んでいることから、やはり戦前のニューグランドでは、フランス料理のナポリテーヌとナポリタンに、言葉上の違いはなかった可能性があります。

 また、ホテルオークラの初代総料理長・小野正吉氏のスペシャリテの一つにも、「仔牛のピカタ」という料理があり、この料理も、やはりピカタの下にスパゲッティのトマト和えを敷いていました。
 小野氏も、戦前ニューグランドで修行していたので、ワイル氏の料理を受け継いで自分の得意料理にしたのでしょう。
 
そしてこの小野氏は、和食の名料理人である辻嘉一氏との対談『食の味、人生の味・辻嘉一・小野正吉』(平田嵯樹子/柴田書店)の中で、

「その頃、ホテルの料理は定食がほとんどだったんだけど、ワイルさんは、ダイニングルームのほかに、グリルルームを作ったのね。そこで、ア・ラ・カルトを出していたんです。(中略)スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドーリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ。いま、われわれがちょっと、軽くスパゲッティ一皿なんて食べられるのは、ワイルさんのおかげなんです」

 と述べ、はっきり「ナポリタン」と言っています。
 このことからも、戦前のニューグランドでは「スパゲッティ・ナポリタン」が出されていて、1934年1月のカルトメニューに書かれていた"Spaghetti Napolitaine"こそが、おそらくその「ナポリタン」であったことが伺えるとともに、日本のレストランにおけるア・ラ・カルトメニューの嚆矢が横浜ホテルニューグランドとされるゆえんと、ナポリタンがニューグランドで初めて出された、という証言のひとつとなります。

 ただ、このナポリタンが、トマトソース・ナポリタンなのかトマトケチャップ・ナポリタンなのかはわかりません。しかし、少なくとも戦前のニューグランドで、フランス語で書かれた"Spaghetti Napolitaine"を、「スパゲッティ・ナポリタン」と呼んで提供されていたことは、もはや明らかではないでしょうか。

 それに、小野正吉氏は、ホテルオークラの総料理長を務め、フランス料理の専門書をいくつも手掛けた、誰もが認めるフランス料理の大家ですが、その人が「ナポリタン」と呼んでいるわけですから、日本人にとってはそれが一般的な読み方であった可能性は高いと思います。

 また、ニューグランドで確認できるメニューの日付より少し後、1934年12月に、戦前・戦後に活躍したコメディアン・古川ロッパ氏が、日本橋の三越食堂でナポリタンを食べたと『古川ロッパ昭和日記』の中で書いています。
 これも、はたしてトマトソース・ナポリタンなのか、トマトケチャップ・ナポリタンなのかはわかりませんし、実際のメニュー表記がどうだったかはわかりませんが、戦前の日本に「ナポリタン」という呼び方をされた料理があったことの証明の一つにはなるでしょう。

 ちなみに、かつて三越の食堂は、食品部門の100%子会社として「二幸」を設立する前は、精養軒と並び称せられたフランス料理店”東洋軒”が請け負っていた経緯があるので、やはりこのナポリタンもフランス料理のNapolitaineがベースであったのではないかと思います。
 古川ロッパの日記の記述でも、「三越の特別食堂てので、スパゲティを食ってみた、淡々たる味で、(ナポリタン)うまい。少し水気が切れない感じ」とあるので、「少し水気が切れない」というところから、ケチャップで炒めたというより、トマトソースで和えた料理のような印象を受けます。

 いずれにせよ、現在確認できるナポリタン(あるいはナポリテーヌ)の最古のメニューはニューグランドで、それも、入江氏が総料理長に就任するずっと前、戦前のメニューです。

 当時のナポリテーヌ・あるいはナポリタンに、トマトソースではなくトマトケチャップが使われていたかどうかは、今となってはわかりませんが、推論としては、戦前のニューグランドでワイル氏の補佐を務めいてた荒田勇作氏が著した、『荒田西洋料理』(1964年刊)が参考になると思います。

 同書には、先のワイル氏の得意料理であった"Piccata de veau spaghetti napolitaine"という料理が掲載されているほか、さらに単品料理としての"Spaghetti à la napolitaine"も掲載されています。
 なお、同書は料理名を仏語と英語と日本語の3ヶ国で表記していて、英語表記では"Spaghetti napolitan"、日本語は「スパゲッティのトマト和えナポーリ風」としています。

 そして同書で荒田氏は、"Spaghetti napolitan"の説明として、

「旧来はトマトの赤色を付けただけで、アントレや野菜のコースにも出たが、現在のア・ラ・カルトの場合には、薄切りのシャンピニヨン、芝海老、ペパロニかサラミ・ソーセージなどを混ぜ合わせているところもある。要はトマト味の調理法と思えばよい。(中略)トマトケチャップなどでからげるのも悪くないが、これは家庭向きの素人が行う方法で、専門家は別の方法で作られる方がよい」

と書いています。

 ちなみにこの荒田氏は、1895年(明治二十八年)に横浜で生まれ、横浜居留地の外国人ホテルでフランス人コックからフランス料理を学び、戦前のニューグランドではワイル氏を補佐する日本人料理長のトップとして腕を揮い、戦後は政財界御用達の高級フランス料理店で料理長を歴任し、日本洋食界の大御所として数多くの弟子を残した大シェフです。

 洋食のメッカ・横浜で外国人コックの下で修業し、大ホテルで西欧各国料理を作り、街場のレストランでも西洋料理を作り続けた荒田氏は、まさに日本の洋食の発展の歴史そのものというべき存在だけに、その言葉には重みがあります。

 また、この『荒田西洋料理』は全八巻からなり、当時の日本にある全ての西洋料理を網羅した決定版のようなもので、かつては西洋料理のコック必携の書とされた有名な料理書であり、そのレシピや定義は長らく日本洋食界のスタンダード的存在で、非常に大きな影響力を持つ料理書です。(何十版も重版されて出回ったので、今でも古書店に行くと簡単に手に入ります)

 このことから、「スパゲッティ・ナポリタン」という料理は、もともとトマトソースで味付けをしたスパゲッティのことで、それが後にトマトケチャップを使った料理に変化した、ということは、ほぼ間違いないでしょう。
 
ちなみに、先の荒田氏の『荒田西洋料理』には"napolitaine"という名前のついた料理がたくさん登場しますが、その英語表記は、"napolitan"だったり、"neapolitan"だったりしています。
 正しい英語の綴りは"neapolitan"なので、英語表記が"napolitan"になっているのは誤表記ですが、日本的なカタカナ表記した「ナポリタン」を英語表記に戻そうとしたら、ローマ字読みして"napo"と勘違いされ、元のフランス語綴りも"napo"なので、混同されて誤表記されたのだろうと思います。

 こうして、フランス料理の"Napolitaine"も、完全に日本の「napolitan」になったのです。

 とはいえ、フランス料理では"à la"がつくところ、日本の「スパゲッティ・ナポリタン」では、それが欠落しているので、やはりフランス料理のア・ラ・ナポリテーヌとナポリタンは違うのでは…?と思う人もいるかも知れません。
 しかし、フランス語の"à la"は「〜風の」を意味するだけなので、日本的にカタカナ表記する時にはたいてい省略されます。実際に、先に紹介した戦前のニューグランドのメニューでも、カタカナ表記はおろか、外国語表記でも"à la"は書かれていません。

 これは現代でもそんなもので、それもフランス料理だけの話ではなく、スパゲッティの例で言えば、日本でもすっかりお馴染みのパスタ「スパゲッティ・カルボナーラ」なども、本来のイタリア名は"Spaghetti alla carbonara"と書き、「スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ」と言います。
 この"alla"はフランスの"à la"と同じ意味なのですが、日本語でカルボナーラのことを呼んだり書いたりする時に、この「アッラ」を入れない人は多いでしょう。

 まあ、そもそも日本人のカタカナ表記や発音はあやしいので、これを厳密に論じること自体ナンセンスかもしれませんが…。

 詰まるところ、「スパゲッティ・ナポリタン」は、イタリア料理にはないとか、日本で生まれたというより、フランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」が、「スパゲッティ・ナポリタン」と聴き取られて「ナポリタン」になった、ということで、その作り方が、もともとトマトソースで作られていたのが、どこかの誰からかトマトケチャップで代用する人が発生し、戦後のトマトケチャップの普及とともに、広くトマトケチャップで代用されるのが定着した、というのが、シンプルな真相でしょう。

●なぜパスタを炒めるのか?

 ナポリタンの調理法の特徴として、あらかじめ茹でおきしたパスタをフライパンで炒めて出すのが主流です。しかし、本場イタリアではパスタは炒めないので、このことからも日本独特の料理とされる理由になっているようです。

 イタリア料理でパスタを調理する時は、アルミのフライパンを使いますが、あくまで茹であがったパスタとソースを和えるために使うのであり、炒めているわけではありません。
 それが、昔の洋食屋では、ナポリタンに限らずスパゲッティを炒めて出すことが多かったので、それは中華の麺料理の影響だとか、焼きうどんの応用だとか、色々なことが推測されています。

 しかし、これについては、洋食屋で働いていた人間からすると、パスタをフライパンで炒めるのは、純粋に西洋料理の調理法として特殊でもなんでもなく、中華や焼きうどんの影響があったわけではないように思います。

 というのも、最初に書いたように、長らく日本の洋食でのパスタ料理は、イタリアンではなくフレンチでした。しかも、付け合わせとして使われることが多くありました。
 それに、デュラム小麦の麺が当たり前でなかったし、戦後にアメリカ料理が広まった時も、アメリカのイタリアンはアルデンテをあまり重視しないので(現在でもアメリカはそんな気がします)、1990年以降のイタメシブームが来るまでは、日本のお客さんは本場イタリアのような「アルデンテ」を求めていませんでした。つまり、「茹でたて」の食感に、誰もこだわっていなかった、ということです。

 それがどういうことかと言うと、つまりは、ひと時代前までの洋食店では、パスタやリゾット、ピラフといった麺・米料理を、茹でたて・作りたてで出すことはほとんどなく、仕込みの時にまとめて作り置きし、注文が入ってから、フライパンで再加熱して出すので十分だった、ということです。昔はこのやり方を、「フライ返しで出す」なんて言ったりもして、ごく当たり前の手法でした。

 『荒田西洋料理』には、パスタは芯を残して固めに茹でるのが本式だと書かれているので、決して昔の日本のコックにアルデンテの知識がなかったわけではないようです。
 ですが、ピラフなども、まとめて作り置きしておいて、注文が入ったらフライパンであおって再加熱して提供し、リゾットの場合は水分を多めに入れて粘りのある状態で出せばよい、というように書かれています。

 何故そうした作り方をするかというと、そもそもリゾットやピラフなんかは注文を受けてから作ったのでは、20分以上かかってしまうからです。スパゲッティでも、タイマーのついたパスタボイラーなんて便利なものがなかった時代では、単品料理ならまだしも、付け合せのパスタまで注文が入ってから茹で始めたのでは大変な手間がかかります。

 だから、仕込みの時点で大量に茹でておいて、注文が入ればフライパンにバターをひいて、茹で置きしておいたパスタを入れて、炒めるようにフライパンであおって加熱するという手順で提供していたわけです。
 電子レンジなんて便利なものが昔はなかったので、フライパンで加熱するのが一番手っ取り早く、付け合わせのナポリテーヌなんかも、そうすることで、短時間で作って素早く添えられたわけです。

 ただ、常温か冷蔵された状態のパスタを熱々にするわけですから、フライパンでしっかり加熱しなければなりません。だから、実際には「炒めている」のと同じような調理法になります。だから、パスタを「炒める」というスタイルに結びつくわけです。

 ちなみに、この調理方法は出来栄えにムラが生じやすく、焼きそばみたいに焦がしてしまう作り方は下手な作り方で、ブイヨンやワインでフライパンに水気を持たせ、なめらかな食感に仕上げるのが上手な調理法です。

 こうした、作り置きしたパスタを再加熱して出すという手法は、決して日本独自の技術ではなく、実際には欧米でも行われている、営業を回すための基本テクニックなのです。
 元から西洋料理の技法として存在していた手法であり、ナポリタンを作るために日本で生まれた独自の調理法というわけではなく、中華とか焼きうどんとか、そうした影響も、そもそも関係ないと言えます。

 ただ、1900年以降のイタリアンブームの頃から「アルデンテ」の概念が日本にも広まり、「茹でたて」が当たり前になったことと、フランス式ではなく、本場イタリアの手法が日本に入って来たこと、さらに電子レンジやパスタボイラーといった調理機器の改良などによって、この再加熱の調理法は変化しました。

 本場のイタリアでも、トラットリア(大衆店)レベルでは茹で置き・作り置きしておいて、注文が入ったら再加熱して出すなんてことは珍しくありませんが、その方法は単にフライパンで炒めるのとはやや違います。
 イタリアでは、まず作り置き用のパスタを茹でる時、プレ・ボイル(またはハーフ・ボイル)といって、アルデンテよりもっと早く引き上げ、素早く広げて冷まし、オーダーが入ったら沸騰したお湯で1分ほど茹で戻す、という調理法が一般的です。このほうが食感が茹で立てに近いので、現在では日本の洋食店でもそのやり方が主流になっています。

 また、付け合せのパスタとなれば、もはや電子レンジで温めて出すだけです。電子レンジが普及した現在では、わざわざフライパンで炒めるほうが手間なので、今となっては、そうした調理法は、昔ながらのコックしかやらなくなってしまいました。

 こうした背景が、今日ナポリタン談義をする際に、パスタをフライパンで炒めるという行為が「特殊」と思われる理由ではないかと思います。

 あと、パスタを炒めるようになった背景には、もう一つ全く別の背景もあると思います。
 というのも、昔のコックはちゃんと弟子に調理法の意味を教ないし、「目で盗む」のが慣習だったので、そうやって育ったコックや、特に料理修行をせずに脱サラで喫茶店を開こうとしている人なんかが、レストランでソースとパスタをフライパンで合わせているのを見て、「パスタは炒めるもの」と勘違いした可能性も多いにあります。それに、フライパンで温め直す作業と、フライパンで炒めるのと、その違い自体がそもそも微妙なものです。

 また、戦後は、1953年に成松孝安氏が開いたパスタの専門店「壁の穴」によって、野菜やウィンナーを炒めてパスタと合わせた「若者のアイドル」という料理が生み出されて有名になり、そうした炒めパスタが一昔前の食堂や喫茶店で流行したので、「スパゲッティ料理はフライパンで炒めて作るもの」という認識が広まったのかも知れません。
 この部分に関しては、確かに日本的な調理法と言え、それが日本式ナポリタンの発展に影響を与えた部分はあるかも知れません。

 話が広がってしまいましたが、このように、もともと純粋に西洋料理の調理法としてあった、パスタをフライパンであおってソースと合わせたり再加熱するという手法だったものが、営業上の理由や、自然的背景によって「炒める」という行為に転じ、それが結果的に本場イタリア式のパスタの調理法と完全にかけ離れ、それがひとり歩きして日本独自のナポリタンのための手法と思われるようになったのでしょう。

●ニューグランドのナポリタンの元祖は?

 ここまでの流れからすると、ナポリタンの元祖はニューグランドといいつつも、入江氏ではなくワイル氏ということになり、戦前にすでにあったということになります。
 しかし、戦前にあったナポリタンが、どれだけ我々のイメージする「ナポリタン」と同じであったかは定かはありません。

 ニューグランドでのワイル氏は、「コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます」と標榜し、顧客の要望に応じて即興でも料理を創作し、それをア・ラ・カルトで提供していました。そこに、付け合わせのスパゲッティのトマト和えが好きなお客さんがいて、それだけを一人前食べたいという要望で、即興で作ったのがはじまりかもしれません。

 それに対して入江氏は、接収解除された後のホテルの倉庫に大量に残されたスパゲッティの活用法を考えて、ハムやピーマン、マッシュルームをたっぷり加えた一品料理としてのナポリタンを完成させ、これを明確に「スパゲッティ・ナポリタン」と命名し、レギュラーメニューとして提供しました。

 そこから考えられることは、カルト料理として提供した元祖はワイル氏で、それをレギュラーメニューとしての完成者が入江氏、ということではないかと思います。

 何故そうなるかというと、そもそも入江氏が戦後にニューグランドに復帰したのは、接収解除された1952年(昭和二十七年)です。
 入江氏は戦前、荒田勇作氏の後を継いでワイル氏の補佐として料理長をしていたのですが、戦争の召集で一度ニューグランドから離れ、戦争が終わるとニューグランドは米軍に接収されたため復職出来ず、接収解除されるまで入江氏は箱根の強羅ホテルにいたのです。
 1952年にナポリタンを考案したとなると、ナポリタンの元祖というには遅すぎるように思います。だから、やはり小野氏の記憶に間違いはなく、元祖はワイル氏だと思うのです。

 ただ、ワイル氏の時代にナポリタンが現在の形で確立していたのであれば、その頃からニューグランドにいた入江氏が、わざわざ後から新メニューとして開発する必要はありません。
 また、ニューグランド以外のレストランでもナポリタンが単品料理として珍しくなかったのであれば、小野氏の「ワイルさんが最初に出した」なんて発言は出てこないだろうし、入江氏が復職してから開発したという伝説も生まれたりしないと思います。

 おそらく、ナポリタンをカルトで最初に出したのはニューグランドのワイル氏でしたが、そのワイル氏によるスパゲッティ・ナポリタンは、エスコフィエのレシピにあるような付け合せの延長レベルに過ぎなかったものだったのではないでしょうか。だからそれを入江氏が、完成された単品料理の域まで発展させた、ということなのではないか…?と思います。

 または、戦前のニューグランドでは、ワイル氏がトマトを使った正統派ナポリテーヌを「ナポリタン」として提供していたのに、入江氏がニューグランドに復帰してみると、進駐軍相手に、いくら食料不足とはいえ、トマトケチャップと塩コショウで合えただけの「エセ」ナポリタンが出されているのを見て幻滅し、「本物のニューグランドのナポリタンはこんなじゃない」と思って、ワイル氏時代のトマトベースで作られた、ちゃんとした「ナポリタン」を復活させ、もしかするとそこに新しい入江氏のアイディアを盛り込み、リニューアルしたナポリタンをメニューに載せたことが、ナポリタンの開発者という伝説に変わったのかも知れません。
 それであれば、入江氏は、あくまで「復刻者」であり、開発者ではなくなりますが…。

 このあたりはほとんど推測ですが、もともとのフランス料理のナポリタンは、トマトとチーズで合えただけの料理です。付け合わせやコースの中の一品ならともかく、単品料理として出すとなると、貧弱な感じがします。
 例えば、先のレストラン“アラスカ”の料理長となった飯田進三郎氏のスパゲッティ・ナポリタンは、トマトにミルクを加え、味付けは塩・こしょうだけと、非常にシンプルだったそうです。※3 飯田氏もニューグランドでカルト料理を身に付けたコックなので、ニューグランドのナポリタンは、これに近い料理だったのかも知れません。
 トマトもミルクも貴重で、そもそもパスタ自体が高級品だった戦前なら、それだけでも十分ぜいたくな料理だったと思います。
 だから、ワイル氏のナポリタンも、非常にシンプルな料理であったとしても、十分だったのかも知れません。しかし、アメリカから西洋食材が大量に送り込まれて来た戦後となれば、状況は変わっていたことでしょう。

 そこで考えられることは、入江氏が戦後GHQの接収から解除されたニューグランドのメニューを新たに作ろうとした時、ナポリタンについても改めて単品料理としてのレベル高める必要があり、そうして、高橋氏の『横浜流』に書かれたエピソード通り、入江氏がハムやマッシュルーム、ピーマンなどを加えて、新たにオリジナル・ナポリタンを開発したのではないでしょうか。そしてそれが、世の中のナポリタンのモデルとなり、横浜の洋食屋や軽食堂が真似し、ちょうどアメリカ進駐軍が大量に持ち込んだトマトケチャップでトマトソースの代わりに使って、「ナポリタン」という名前で広まっていったのではないかと思います。

●アメリカ進駐軍の「ケチャップ・スパ」

 フランス料理のナポリテーヌがナポリタンとして戦前から存在していたとしても、それはそれとして、「ナポリタン」が英語由来である可能性や、トマトケチャップのメッカがアメリカであることから、ニューグランドで生まれたナポリタンとは別ルートで進化していった、アメリカ式のナポリタンがあるのではないか?と思う人がいるかも知れません。

 特にニューグランドのナポリタンは、トマトソースを用いた柔らかい味のナポリタンなので、B級グルメファンの間では、あれは「ナポリタンにしてナポリタンに非ず」とされ、どうしてもあれが元祖とは考えにくい人もいるようです。
 
入江氏の元祖説だけをとって見ても、「進駐軍がスパゲッティにトマトケチャップをからめて食べているのをヒントに考案した」、となると、言いようによっては、「トマトソースのナポリタンはニューグランドが元祖だが、トマトケチャップのナポリタンは進駐軍が元祖」という言い方も出来てしまいます。
 それに、先ほど書いたように入江氏のニューグランド復帰は1952年であり、実際には接収中のホテルや進駐軍の食堂で働いていたコックが独立した店にもスパゲッティのトマトケチャップ炒めが存在することから考えて、1952年以降にはじめて開発され、それから広まったというのは不自然です。

 ちなみに、ナポリタンに限らず、アメリカ進駐軍の料理の日本の洋食界への影響は大きく、特に横浜では洋食の流派の一つとなっています。
 横浜で「老舗」と呼ばれる洋食店は、だいたい3つの流派にわかれていると言われ、一つがニューグランドをはじめとするホテル系(桜木町“センターグリル”、吉田町”コトブキ”、日の出町“すいれん”など)、もう一つが、日本郵船などの外国船コック系(伊勢佐木町“グリル桃山”、馬車道“グリル・エス”、山下町“かをり”など)、そしてもう一つが、米軍基地のコック系(野毛“洋食キムラ”、根岸“西洋料理たじま”など)、と言われています。

 終戦直後は、食料統制がされて飲食店が自由営業出来なくなり、西洋料理を扱って良いのは進駐軍の基地の中だけ、という時代がありました。ホテルも全てGHQに接収され、作る料理もフランス料理ではなく、アメリカ人向けの料理に切り替えさせられました。(実際にはヤミで色々行われていましたが…)

 そうした中で新しく日本に広まった代表的な料理が、ホットドッグやフレンチフライ、Tボーンステーキ、スペアリブ、クラムチャウダーなどで、洋食の味付けにトマトケチャップを多用するようになったのは、この時進駐軍がトマトケチャップを大量に日本に持ち込んでからです。
 米軍によって
接収されたホテルや米軍基地でコックを務めた人であれば、進駐軍の撤退した後に、米兵相手に作り慣れた「トマトケチャップ・スパ」を、自分の店でも作って出したであろうことは、想像に難くありません。
 また、その調理方法も、茹でたスパゲッティに具とトマトケチャップを合わせて炒めるだけと、非常に簡単であったことから、それがまたたく間に他の大衆食堂にも広まったことだろうことも推測されます。

 そういう視点で考えれば、アメリカの影響による、スパゲッティのトマトケチャップ炒めから進化したナポリタンがあるという考えも十分考えられる話です。

 しかし、アメリカの進駐軍のトマトケチャップ・スパを、フランス料理のナポリタンと完全に切り離して元祖とするには大きな疑問があります。
 何故なら、当のアメリカに「ナポリタン」という料理が存在しないからです。

 これは想像ですが、おそらく実態としては、進駐軍内どころか、アメリカではおそらく戦前でも、パスタにケチャップをかけて食べる、という食べ方は存在していたと思います。トマトケチャップ発祥の国ですから、それをパスタにかけて食べる、という行為だけで見れば、レストランのメニューになっていたかどうかはともかく、家庭レベルも含めて、絶対どこかの誰かがやっていたでしょう。そこだけで元祖を考えるならば、アメリカが元祖であることは間違いないと思います。

 しかしこれは、日本で言えば「ご飯に鰹節と醤油をかけて食べる」ようなもので、これを料理としての元祖と呼べるかどうかは微妙なところです。
 このレベルでナポリタンの起源を論じるなら、ほとんど議論なんて必要なく、トマトケチャップ発祥の国、アメリカに決まってます。もっと言えば、日本でも、トマトケチャップをスパゲッティと和えて食べた人が戦前に一人も存在しなかったとは思えません。

 でも、これでは起源として面白くないし、何より、食べ方はともかく、それを「ナポリタン」と呼んでいたかどうかは別なので、トマトケチャップ・スパゲッティを初めて作られた場所がアメリカであることはおそらく間違いなくても、現在の日本の「ナポリタン」の誕生の経緯となれば、やはり「メニュー化されたか否か」(レストランのメニュー・あるいは料理書)という点に、ナポリタンの発祥を探る醍醐味があると思います。

 念のため、1939年(昭和十四年)に横浜で発行された、『亜米利加式調理法』(Daughters of America編)を調べると、残念ながらナポリタンはありませんでした。
 なので、アメリカでスパゲッティにトマトケチャップをかけるという食べ方が昔からあったとしても、やはりそれが日本で「ナポリタン」と呼ばれるようになったかの説明はつかないので、やはりフランス料理のナポリタンとの関係なくして、アメリカ系コックや進駐軍からストレートに「ナポリタン」となった、とするのは不自然だと思います。

 一番考えやすい流れとしては、ホテルやレストランが進駐軍によって接収・統制されたことで、日本の西洋料理界がアメリカのトマトケチャップ文化に触れ、特に終戦直後は食材に乏しかったため、トマトソースをトマトケチャップで代用することになった。そこで、本来トマトソースのナポリテーヌ(ナポリタン)も、トマトケチャップで代用して作られるようになり、それがそのまま「ナポリタン」として定着していった、と考えるのが自然でしょう。

 つまり、それまでのフレンチ式ナポリテーヌがアメリカ進駐軍の持ち込んだトマトケチャップに出会ったことで“変化・融合した”ということだと思います。

 それらを踏まえて、見た目・料理名などいくつかの要素を考慮した上で「元祖」と言うべき存在を決めるなら、戦前ニューグランドで「ナポリタン」がカルト料理で提供されていたのは事実なので、やはりそこを「先」とすべきでしょう。

 そして、最初はフランス式にトマトソースを用いられていていたのが、後にトマトケチャップに代用されるようになっていった経緯については、アメリカ進駐軍の影響に加え、先に引用した、当時のニューグランドにいた荒田勇作氏の料理書からの引用で、ほぼ説明がつくと思います。
 従って、戦前から存在したフランス料理のナポリテーヌを起源として、戦後に進駐軍が「影響を与えた」と見るべきだと思います。

 今でこそ、ケチャップではなくトマトソースを使ったナポリタンなんて、それこそニューグランドでしか見ないし、そもそもフランス料理のナポリテーヌにしたって、最近ではフランス料理の付け合せとして見る事はほとんどないため、パスタをトマトソースで味付けしたナポリテーヌ(ナポリタン)の存在自体にピンと来ない人もいることでしょう。

 しかし、戦前まで遡らなくとも、1976年(昭和五十一年)の『月刊専門料理』には、当時の帝国ホテル総料理長・村上信夫氏がトマトソースを使った料理のレシピを紹介している中に、"Spaghetti a la Napolitaine"があり、作り方は、茹でたパスタをバターで炒め、トマトソースで和え、チーズをかけるように書いています。
 これはエスコフィエそのままの古典的な作り方ですが、このことからも、ついひと時代前までは、ナポリタンをトマトソースで作ること自体が、特殊なことではなかったことがわかります。

 それが、1990年頃から始まったイタメシブームによって、日本のパスタ料理界は本場イタリア式に染まり、たらこスパのような和風スパゲッティやナポリタンは洋食の一種として生き残り、イタリア式パスタと日本式パスタの間をつないでいたフランス式パスタは、ミッシング・リングのように失われ、そのことが余計にナポリタンの独自性を引き立ててしまったのでしょう。

●フレンチ式ナポリタンとケチャップナポリタンの融合

 料理の歴史や、トマトケチャップの日本への流入・普及の時期を考えると、トマトケチャップより先に、トマトソースを使ったスパゲッティ料理が大正時代の日本にはもう存在し、それを「ナポリタン」として提供したことは間違いありません。
 そしてそれを、現時点(2022年現在)において、単品料理として提供していたことが確認できる最も古い記録は、戦前の横浜ホテルニューグランド、ということになります。

 もともと、日本にやってきた外国人コックたちが、料理の付け合わせとして作っていたナポリタンを、カルトの一品料理として提供し、完成させたのがワイル氏であり入江氏だったのでしょう。
 
ニューグランド式のナポリタンがナポリタンらしくないのではなく、むしろそれが本来のナポリタンだったということです。

 それまで、ナポリテーヌとかナポリテーインとかナポリタンとか呼ばれた、赤色に色付けしたスパゲッティ料理が、入江氏によって「スパゲッティ・ナポリタン」として確立し、それが世のナポリタンのモデルになったのだと思います。

 ただそれが、本来ならトマトソースを使用して「ナポリ風」とするところを、戦後のトマトケチャップの普及とともに、見た目だけを真似てトマトケチャップで赤い色をつけた「ナポリ風モドキ」がナポリタンとして提供されるようになり、それがいつの間にか、ケチャップ・ナポリタンのほうが主流になっていった、ということです。
 つまり、古典フランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」を進化させた入江式「スパゲッティ・ナポリタン」に、トマトケチャップをスパゲッティにかけて食べるというアメリカ式の名も無き料理が融合して、現在の日本独自のナポリタンになった、ということでしょう。

 それが結果的に、ニューグランドの本式のトマトソースナポリタンよりも、トマトケチャップによる簡易版のナポリタンのほうが大衆への認知度が高まり、「ナポリタン」といえばトマトケチャップを使ってジャンクに作りあげたB級グルメとしてのイメージが強くなったのだと思います。
 ケチャップのほうが多用されるようになったのは、仕込みや味付けに手間がかるトマトソースに比べ、味付けされたトマトケチャップの方が便利だからでしょう。
 それに、ニューグランドは大衆向けのホテルではないので、ニューグランドのナポリタンと街場の食堂で提供されたナポリタンの、どちらの方が大衆への認知度が高まったかは、考えるまでもありません。

 さらに、調理法についても、本来は温め直すことが目的でスパゲッティをフライパンで炒めるわけですが、トマトケチャップを使うとなると、別の意味を持ちはじめます。
 トマトケチャップには砂糖が入っているので、ガンガンに炒めることで糖分がカラメル化して別の風味が生まれるという特徴があります。
 だから、ナポリタンは、トマトケチャップを使われるようになってから、さらに新しい進化をはじめることになり、昔のフレンチのナポリテーヌからは遠く離れ、トマトケチャップが枯れる寸前まで炒めて水分を飛ばし、オイリーにネットリ仕上がった、現代の我々の良く知るナポリタンの道を歩んでいくことになったのでしょう。

●スパゲッティ・イタリアンの謎

 あと、世間で未解決の謎のひとつに、スパゲッティのトマトケチャップ炒めを「イタリアン」という名前で出されている店があり、これとナポリタンとの関係についても議論があるようです。

 昔の洋食屋のメニューにはよく、「イタリアン」というスパゲッティがあり、主にそれはナポリタンのようにトマトケチャップを和えて炒めたスタイルと、ソースやケチャップは使わず、ハムと野菜などを炒めて塩胡椒だけで味付けした白いスパゲッティの、だいたい2通りのスパゲッティがあったと思います。
 特に西日本では、スパゲッティのトマトケチャップ炒めは、ナポリタンというより「イタリアン」と呼ぶことが多いそうです。(ちゃんとした統計があるのかどうか知りませんが)

 このスパゲッティ・イタリアンも、ナポリタンや他の洋食同様、起源はフランスの古典料理だと思います。
 古典フランス料理におけるパスタ料理の「イタリアン」を調べると、エスコフィエの料理書では、スパゲッティを塩胡椒だけで味付けし、パルメザンチーズをふってバターを和えた料理を"Spaghetti à l'Italienne"(スパゲッティ・ア・リタリエンヌ)と言います。(a l'italienneとは、à la italienneのこと。フランス語の文法では、à laのlaは、母音の前ではl'になります)
 これが、トマトやケチャップなどを使用しないタイプの「スパゲッティ・イタリアン」の起源になったのだと思います。

 ただ、ややこしいのは、エスコフィエの料理書には"Sauce Italienne"(ソース・イタリエンヌ)というものもあり、これは刻んだマッシュルームに白ワインとトマトピュレとドミグラスソースを混ぜ、スパイスで風味付けしたものです。
 このソースは鈴本氏の『仏蘭西料理献立書・調理法解説』にも書かれており、そこではソース・エスパニョール(煮詰める前のドミグラスソース)にトマトピューレを加え、白ワイン・刻んだマッシュルーム・エシャロットを入れ、スパイスで風味付けするとあります。

 このソースはトマトソースに似ているので、おそらく、この「イタリアン」ソースをスパゲッティに加えた「スパゲッティ・イタリアン」が、先のスパゲッティ・ア・リタリエンヌ」とは別に生まれたのではないか…?と思います。

 また、先の『亜米利加式調理法』(Daughters of America編)には、"Italian Spaghetti"という料理があり、これは、ベーコンかハムとタマネギを炒めてトマトソースを煮込み、そこに茹でたスパゲッティを和えて、タバスコをふって出し、お好みでチーズをかけてオーブンで焼いても良い、とあります。これだと、完全に赤色の「スパゲッティ・イタイリアン」です。
 さらに、大正時代にフランスやイギリスで六年間修業し、戦後は内閣総理大臣官邸の料理長を長年務めた、料理界でも博識で知られる佐藤良造氏が著した『世界の料理あれこれ』(全日本司厨士協会発行)には、スパゲッティの代表的な料理として、「スパゲッティ・イタリヤン」("Spaghetti a l'italienne")を紹介し、作り方は、細切りにした肉類と茸を炒め、スパゲッティとトマトソースを合わせ、チーズをたっぷりふりかける、とあります。

 これらのことから、戦前の日本には、イタリアンと呼ばれるスパゲッティ料理には、トマト風味のものと、トマト味をつけないものの、両方が存在していたことがわかります。
 そして、トマト味をつけたイタリアンは、おそらくナポリタン同様、戦後にトマトケチャップに代用されることもあっただろうと思います。
 それに、もし『亜米利加式調理法』に書かれているように、アメリカではトマト味にしたスパゲッティを「イタリアン」と呼ぶスタイルがあったのであれば、
戦後、進駐軍によって日本の洋食がアメリカ化した際には、アメリカの影響で、スパゲッティのトマトソース和えを「イタリアン」と呼ばれた可能性もあります。そこに米軍が持ち込んだトマトケチャップが活用され、トマトケチャップの「イタリアン」を生み出したのかも知れません。

 なお、GHQ接収時のニューグランドで料理長を務め、アメリカ人相手に料理を作っていた平野勇吉氏が横浜・元町で開業した“洋食の美松”では、トマトケチャップで味つけしたスパゲッティを「イタリアン」として出し、現在でもイタリアンの名前で提供されています。

 また、ニューグランドのワイル氏の弟子である石橋豊吉氏が横浜桜木町に開業した“センターグリル”は、「米国風料理」を看板にし、やはりトマトケチャップを使ったスパゲッティを「イタリアン」として出されていました(後にナポリタンに改名)。
 特にこの店は1946年の開業で、開業時からトマトケチャップを使用していたとのことなので、「ケチャップを使ったナポリタンをメニューにした開祖」、という説もあります。
 看板の「米国風」という点から、ケチャップを使用したのはアメリカの影響である可能性が高いですが、もともと石橋氏自身が、横浜居留地の外国人ホテル「センターホテル」で西洋料理を身に付け、ワイルがそのホテルを買収したことで弟子になったので、料理としての元ネタは、やはりフランス料理だった可能性も十分に考えられます。(ちなみに、現在のセンターグリルでスパゲッティ・イタリアンを注文するとミートソースのスパゲッティが出てきます)

 なお、洋食の美松の平野勇吉氏はフランス料理の名店・中央亭出身なので、やはりフランス料理のパスタがベースであり、ナポリテーヌやイタリエンヌが原型だったと言えるでしょう。

 これらのトマトケチャップ・スパが次第に「ナポリタン」の名前に集約され、特に東日本で他の名前がほとんど消えていったのは、ア・ラ・カルトの元祖であるニューグランドの入江氏のナポリタンが有名になったことや、洋食界のスタンダードとして広く普及した荒田勇作氏の『荒田西洋料理』において、「ナポリタンとは赤色のスパゲッティである」と定義づけたことの影響などが大きかったのだろうと思います。

●正統(?)ナポリタンを味わえる店

 ちなみに、この洋食の美松とセンターグリルは現在でも営業されています。(2022年現在:「美松」は閉店したっぽいです)
 洋食の美松のコックは現在二代目になっていますが、ここのナポリタンは(メニュー表記はイタリアンですが)、濃厚なケチャップテイストで、しかもB級グルメ的に超オイリーというハイレベル(?)なナポリタンなので、ナポリタン好きならば必食ではないかと思います。
 センターグリルも、その味は期待を裏切らないハイレベル(?)なナポリタンで、この二軒は、ニューグランドと米軍食の融合系ナポリタンを確かに受け継いでいるレストランと言えるのではないかと思います。

●結び

 ナポリタンに限らず、洋食の元祖は諸説あるものばかりです。
 和食でも、洋食でも、大衆料理のレベルにおいては、きちんと誰かに学んだとか修業したりしなくても、あり合わせの食材で適当に作ってみたら結構イケルので出してみたとか、どこかで提供されている料理を見た目だけ真似て出すなんてことは、古今東西行われていることです。

 それに、世の中の全てのレストランやコックが正統な知識を持っているわけではないので、適当に名前をつけた結果がナポリタンやイタリアンだった、ということも多くあると思います。
 色々書いてはみましたが、ぶっちゃけスパゲッティをトマトケチャップで炒めて出す料理なんてのは、まさにそうやって生まれ、広まった料理ってのが実態でしょう。だから、厳密にその元祖を限定するのは、ほとんど不可能ではないかと思います。

 はじまりは、フランス料理で定番の付け合せのNapolitaineだったとして、結局のところ、起源となったそのナポリテーヌが日本オリジナルではなく、古くからフランスに存在した料理なわけですから、そもそも、誰が元祖とか、どの店が発祥、という話ではないのかも知れません。

 オムライスやハヤシライスのように、明らかに日本独自の洋食となると、元祖はどこか?、という話になると思いますが、ナポリタンやグラタン、ビーフシチューのように、もともとヨーロッパにある古典的な洋食となると、日本で誰が最初にメニューに載せたかを調べるなんて不可能だと思います。

 ただ、ナポリタンの場合は、現在一般的なものが日本独自のスタイルなので、日本生まれの洋食だと思い、「元祖はどこだ!?」という発想になるのは仕方ないことです。

 しかし、調べてみると、もともと古典的な西洋料理が、時代と共に変化していったことがわかったので、そうなるともはや、明確な起源をはっきりさせようというのは、無理があることだと思います。
 まあ、こんなページを作っている本人がそう書いてしまうと、本末転倒ですが(笑)

 もともとナポリタン自体は、「パスタをトマトで色付けした古典的なフランス料理」として、かなり昔から知られていて、それが後に、安くなって手に入りやすくなったトマトケチャップで代用されたのであり、それをどこの誰が最初にやってから広まったという話ではなく、見た目上の類似性から自然発生した…というべきで、元祖なんて本来は存在しないと思います。

 たまたま文献上、横浜ホテルニューグランドでメニュー化されていたのが一番古いことがわかりましたが、それが元祖かどうかとなると別の話です。
 そもそも西洋の料理書に書かれているスタンダードな料理なので、もしかするとニューグランド以前に、帝国ホテルや、横浜居留地の外国人ホテルで出されてた可能性だってあります。
 それも付け合せとなれば、大正時代の日本の料理書に書かれている時点で、どこかのレストランのメニューに存在していた可能性は高いでしょう。

 そこでもし、明治時代の帝国ホテルのメニューに「ナポリタン」の記載が発見されたとしても、じゃあ帝国ホテルが元祖になるか? というと、ただ「さらに古い記録が発見された」と言うべきであり、元祖かどうかはわかりません。
 それに、その「ナポリタン」がどういったレシピだったのか、ましてやトマトケチャップで作られていたかは、もっとわかりません。1930年(昭和五年)に誕生した、三越の元祖お子様ランチにも、赤い色のスパゲッティが添えられていたそうですが、これも当時のコックが何と呼んでいたか、トマトソースを使っていたのかケチャップだったのかも、今となってはわかりません。
 そういう意味では、ニューグランドもあくまで「現時点でのナポリタンの一番古い記録である」ことに過ぎないわけです。

 そこに、「ケチャップを使ったナポリタン」と限定して元祖となると、誰が最初にトマトソースをケチャップで代用したかなんて、今となってはわかりようがありませんし、もはやこれは永遠の謎…というか、やはり「自然発生」としか、言いようがないでしょう。

 逆にいうと、「ナポリタンとはそういう料理」だと判明したことが、今回のナポリタン研究の結論、と言えるのかも知れません。

 それでも、あえて元祖…というか「先駆け」を決めるとなれば、はじめてNapolitaineを「ナポリタン」と呼んでア・ラ・カルトで「単品料理」として提供したニューグランドのサリー・ワイル氏であり、そしてそれを世にあるナポリタンの手本となる料理に完成させた入江茂忠氏の両名、やはり「横浜ホテルニューグランド」とするのが、とりあえず妥当ではないか…と思います。

 【脚注・出典】
  ※1  『横浜の食文化』(教育委員会・P79に掲載)
  ※2  本来ケチャップはイギリスの調味料で、フランス料理でも使われていたが、これはトマトケチャップとは異なる。
  ※3  『栴檀木橋〜しがない洋食屋でございます〜』(望月豊/朝日新聞社)
 【参考文献】
  『亜米利加式調理法』(Daughters of America編)
  『荒田西洋料理』(荒田勇作)
  『エスコフィエフランス料理』(オーギュスト・エスコフィエ)
  『月刊専門料理』(柴田書店)
  『食生活世相史』(加藤秀俊)
  『食の味・人生の味 辻嘉一/小野正吉』(柴田書店)
  『初代総料理長サリー・ワイル』(神山典士)
  『西洋料理人物語』(中村雄昂)
  『栴檀木橋 ―しがない洋食屋でございます。―』(望月豊)
  『日本司厨士協同会沿革史』(日本司厨士協同会)
  『百味往来』(全厨協西日本地区本部・川副保・編)
  『フランス料理総覧』(T・グランゴワール、L・ソールニエ)
  『仏蘭西料理・献立書・調理法解説』(鈴本敏雄)
  『古川ロッパ昭和日記』(古川ロッパ)
  『ホテルニューグランド50年史』(渇。浜ホテルニューグランド・白土秀次)
  『ホテル料理長列伝』(岩崎信也)
  『明治大正見聞録』(生方敏郎)
  『明治東京下層生活史』(中川清)
  『横浜外国人居留地ホテル史』(澤護)
  『横浜の食文化』(教育委員会)
  『横浜流 〜すべてはここから始まる〜』(高橋清一)
  『ラ・ルース・フランス料理百科事典』(P.モンタニェ)


 

〜おまけ ナポリタンの作り方〜

 


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