赤塚不二夫とタモリ

 アニメ「おそ松さん」がブレイクし、赤塚不二夫さんの名前が再び世に広く知られるようになりました。

 漫画家・赤塚不二夫さんの全盛期は、かなり昔、40〜50年前くらいではないでしょうか。
 僕も生まれてすらいませんでしたが、子供の頃によく遊びに行った祖母の家に「おそ松くん」の単行本があって、それを読んで笑い転げていたので、自分にとっては良く知っている漫画家の一人でした。

 赤塚さんを語る時に、必ずと言って良いほど出てくるのが、タモリさんでしょう。

 赤塚さんとタモリさんが師弟関係にあったことはよく知られていますが、赤塚さんは癌との闘病生活のために一線から退かれ、あまり名前が出てこなくなったからか、長らくその関係は「知る人ぞ知る」関係になっていました。

 そして、2008年に赤塚さんが亡くなられた時、タモリさんが弔辞を読まれ、それがニュースで報道されると、それがあまりに素晴らしい名文であったため忽ち話題になりました。
 
しかも、手に持っていたのが実はただの白紙であったことがさらに拍車をかけ、赤塚さんとタモリさんの関係が再び有名になりました。

 タモリさんは、元々芸人だったわけではなく、早稲田大学を中退して地元の福岡に帰ってから色々な仕事を転々としていました。
 
そしてある喫茶店で、ウィンナコーヒーにウィンナソーセージを入れて出すといった珍妙なことをする変人マスターとして、地元では知る人ぞ知る存在になっていたそうです。

 ジャズ好きだったタモリさんは、ある日、福岡でジャズピアニストの山下洋輔さんのライブを観に行った後、なんと楽屋に乱入しました。
 そこで得意の珍芸を披露したところ、その場にいたジャズミュージシャンに気に入られ、月一で東京に呼ばれて、歌舞伎町のバーで珍芸を披露するようになりました。
 そこに、
赤塚さんのヘッドスタッフだった長谷邦夫さんがその芸のことを知り、「すごく面白い奴がいる」と言って赤塚さんをそのバーに連れて行ったのが、二人の出会いだったそうです。

 その芸を気に入った赤塚さんは、ちょうど自分が出演予定だったテレビ番組に、タモリさんを無理矢理ゲスト出演させました。
 そして、その番組をたまたま観ていた黒柳徹子さんが興味を持ち、自分の番組に出演させ、そうして芸能界での知名度をさらに高めることになったのですから、赤塚さんとの出会いは、まさにタモリさんにとって人生を変える運命的なものになりました。

 ただ、当時のタモリさんは東京に住んでいなかったので、赤塚さんはタモリさんを自宅のマンションに居候させることにしました。
 ここから、二人の家族を超えた関係がはじまります。

 タモリさんは、テレビ番組に出演してからすぐ売れたわけではなかったそうです。
 ですが、赤塚さんは、タモリさんが売れるまでの間、何不自由のないほどのお小遣いを与え、家も車も何もかも自由に使わせていたそうです。

 タモリさんは、芸から生き方まで、特別な才能の持ち主ですが、それを開花させることが出来たのは、その存在をあるがままに受け入れ育てた、赤塚さんの大きな器があったからかも知れません。

 何故赤塚さんは、そこまでタモリさんに入れ込んだのでしょうか?
 そこには、タモリさんの素質を見抜いた赤塚さんの眼力や、タモリさん自身の魅力もあったと思いますが、
実は、赤塚さんが面倒を見た人は、タモリさんだけではありません。

 赤塚さんは、若い頃「トキワ荘」というアパートに住んでいました。
 「トキワ荘」は、漫画の神様と言われる手塚治虫をはじめ、藤子不二雄(A・F)、石ノ森章太郎といった日本の漫画史上屈指の大御所が、新人時代に住んでいたアパートで、「漫画家の聖地」とも言われるアパートです。
 そのトキワ荘が老朽化による解体が決まった時に、トキワ荘関係者がトキワ荘の思い出を語った『トキワ荘青春物語』という本が刊行されましたが、
そこに赤塚さんが寄せたエッセイのタイトルは「ボクの居候文化論」。
 そこで赤塚さんは、「売れてる人が売れてない人の面倒を見るのは当然のこと」と書いています。

 赤塚さん自身、漫画家を目指して田舎から上京しましたが、長らく不遇の時代を過ごしました。
 売れていなかった頃、仕事がないため、すでに人気漫画家となっていた石ノ森さんのアシスタントや身の回りの世話をするといった、居候同然の生活をしていました。
 
また、周りの仲間が売れていく中、自分が取り残されていくことで自信を失って何度も転職を考え、そうして挫折しそうになるたびに周りのトキワ荘の仲間に支えられたそうです。

 しかし、ついに家賃も払えなくなり、漫画の道を諦めようと決心して、当時のトキワ荘のリーダー的存在だった寺田ヒロオさんに挨拶に行くと、寺田さんは、5万円もの現金を赤塚さんに渡し、「このお金を使い切るまで頑張れ」と言われたそうです。
 当時のその金額は、毎月の家賃を払いながら半年以上暮らしていける大金でした。

 そしてその三か月後、赤塚さんが発表したギャグ漫画「ナマちゃん」がヒットし、初めての連載をつかむのでした。
 また、その仕事も、石ノ森さんのところに来た依頼を回してもらっての掲載だったそうです。

 その数年後に、「おそ松くん」や「ひみつのアッコちゃん」でブレイクして一気に人気漫画家となるわけですが、赤塚さんは当時のことを振り返り、寺田さんをはじめ、トキワ荘の仲間たちがいなかったら、漫画家を挫折していたと回想しています。
 だから、赤塚さんにとって「居候文化」は、赤塚さん自身の人生そのものでもあり、自分が売れっ子になってからは、今度は自分の番とばかりに、色々な人の面倒を見るようになったのでした。

 その中の一人にタモリさんがいたのであり、はじめはタモリさんだけが特別だったわけではないようです。(結果的にタモリさんは特別な存在になったそうですが)

 僕がまだ高校生くらいの頃、たまたま芸能レポーターか誰かが書いた、赤塚さんの誕生日会の記事を読んだことがあったのですが、赤塚さんの誕生日会には、いつもものすごい人数が集まったそうです。
 赤塚さんは芸能界とのつながりが深かったので、多数の芸能人も参加する大イベントなのですが、何故か近所の魚屋のおやじさんとか、どこかの商店のマスターとかが「赤塚さんにお世話になったので」と言って、どういう経緯でどういうつながりなのか、よくわからない人まで集まっていて驚いた、というようなことが書かれていました。

 赤塚さんは、困っている人を見ると、特に深い仲とかでなくてもお金を支援したりいていたそうです。
 タモリさんの弔辞にも、赤塚さんが「全ての人を快く受け入れるために、騙されたことが数々あり、金銭的に大きな打撃を受けたこともあった」というくだりがあり、これはそれらのことを指しているのでしょう。

 赤塚さんが還暦を迎えた時の誕生パーティに至っては、テレビでも中継され、今でもyoutubeなどで観ることが出来ますが、タモリさんはもちろん、当時東京都知事だった青島幸男さんや、小説家の野坂昭如さん、そして俳優・女優・芸人、そして漫画仲間はもちろん、さらには町内会の人までと、幅広い友人・知人の約800人が集まった、それはそれは盛大な会となったそうです。
 赤塚さんが還暦というと1995年なので、もう全盛期はとっくに過ぎ、芸能界でそんなに力があったとは思えません。
 それでも、それだけの人が集まったのは、人徳のなせる業に他ならないでしょう。

 いくら自分自身が色々な人に助けられながらやってきたからといって、何故そこまでのことが出来るのでしょうか…?
 これは、誰にでも出来ることではないと思います。
 赤塚さんは、本当に器が大きい人だったのだと思います。

 ただ、一方で、奥さんのことなど考えずに、部屋に色々な人を住まわせるから、家庭生活は破綻してしまったそうです。

 タモリさんの弔辞は、「勧進帳」を土台にして、白紙の紙を読み上げるというギャグだったそうです。
 白紙だった理由について、ネットを検索すると、「前日に酒を飲んでいたので面倒くさくなって」といったタモリさんの発言が出てきますが、絶対にウソだと思います。

 弔辞の内容は、文字に起こして読めばわかる通り、非常に完成された文章です。
 どんなに話の上手な人であっても、話し言葉や、考えながら話すとなると、どうしても間投詞や接続詞が多くなったり、反復や重複、主語と述語や冒頭と末尾の不一致などが多少なりと発生します。
 しかし、あの弔辞には一切そうした部分がなく、書き言葉のレベルで一言一句きちんと構成され、しっかりまとめられた文章になっています。

 あれが、即興のわけがありません。
 間違いなく、事前に作成され、練習して暗記されたものです。

 弔辞なんて、事前に用意した原稿を読み上げても普通のことだし、おかしいとか思う人なんて誰もいないでしょう。むしろ、タモリさんほどの有名人が、何の準備もせずに、思い付きでお粗末な喋りになったのでは格好がつきません。

 それなのにわざわざ、作った文章を完璧に暗記し、あえて白紙の弔文をもって読み上げてるフリをするなどという手の込んだことを、何故したのでしょうか?

 そこには、タモリさんと赤塚さんの、想像をはるかに超える深いつながりがあってのことでしょう。

 それほどのことをしたタモリさんと、それほどのことをさせた赤塚さんの二人を、本当に尊敬しています。

 今さらではありますが、赤塚さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
 赤塚先生、面白い漫画をありがとうございました!

 
 

 


 →TOPへ