俺は、君のためにこそ死ににいく
 

 第二次世界大戦の知覧特攻隊を題材に、石原慎太郎氏総指揮のもと作られた、2007年の映画。

 泣いた。
 観ていて、何度も声をあげて泣きました……

 この作品を、愛国主義者の石原慎太郎氏の映画だからといって避けている人がいたら、心配無用だと断言します。

 制作が発表された際は、「戦争賛美だ」「特攻を正当化しようとしてる」「君=天皇のことか」といって批判をあびたらしいですが、その指摘は全く的外れです。

 正直なところ、僕自身も石原氏のことはあまり好きでないし、はじめは観ようか迷いました。
 けれど、いざ観てみたら、この映画にあったのは、ひたすら特攻の悲しさだけでした。
 これを観たら、「二度と戦争なんてしてはいけない」としか思えません。

 ただ、はっきりいって娯楽性は低い。
 派手な空中戦とかもない。
 むしろ「ドラマ」的には微妙な展開がしばしば。

 なので、映画としての評価はあまり高くなく、あまり話題にもならず、興業的には成功しなかった作品だそうですが……

 それでいい。
 戦争を語るのに、ハラハラ感や感動なんていらない。
 
僕にしてみれば、この娯楽性の低さこそが、この映画のおすすめポイントだと思っています。

 ただ、戦争や国家体制について強い思想を持っている人からしたら、物足りなさを感じるかも知れない。
 石原氏の作品だけに、思想的背景まで深読みして観てしまうかもしれない。

 でも、この映画については、石原氏の思想的なポリシーはあまり感じられません。
 石原氏っぽいところがあるとしたら、やたらと「靖国神社で会おう」と隊員が口にする場面くらいです。
 ここは完全に石原氏の思想ですね。戦争で亡くなられた英霊が靖国神社にいる、と言いたいのでしょう。

 けれど、この映画でそんなところは重要ではない。
 この映画のベースは、多くの特攻隊員を見届けた「鳥濱トメさん」の視点を軸に、鳥濱トメさんが感じた戦争だからです。
 鳥濱トメさんは、ただの「食堂のおばちゃん」です。
 この映画は、あくまでその「食堂のおばちゃん」にとっての「知覧特攻隊」なのだから…

 また、「君」というタイトルから、「君=天皇」の隠語と思う人がいるかも知れませんが、この映画は全くそれにあてはまりません。

 もっとも、石原氏なら、戦争の話で「君=天皇」となることは百も承知でしょう。
 ただ石原氏は、この映画ではその意味で使用したのではなく、むしろ逆です。
 「表向きは天皇という名目のもとに、本当は愛する人のために死ににいった若者」という意味で使ったのだと思う。

 そもそも石原氏は「天皇」にそのものに対しては昔から批判的です。
 おそらく石原氏は、「君=天皇」の暗喩となっていることをあえて逆手にとり、「君と言いながらも実は、愛する人のことをみな思っていた」という二重の暗喩で使ったのだと思う。

 また、映画評で低評価をしているコメントを見ていると、「話が綺麗すぎる」「そんな美しい話ばかりじゃない」「特攻を美化している」といった突っ込みをしている人がいるが、そこは突っ込む部分じゃないと思う。
 何故なら、鳥濱トメさんが、少なくとも食堂で見てきた限りにおいては、みな気持ちの良い若者ばかり
だったに違いないからです。
 この映画は、そんな鳥濱トメさんから見て「美しい若者」たちが、目的もなく死にに行くのを見続けてきた、言いようのない「悲しさ」を描いた映画です。

 それに、この映画で特攻行為は一切美化されていません。
 最初に、十分に訓練もされてない招集兵では、特攻以前に撃墜される、特攻に何の意味があるんですが、と上官が司令部に詰め寄るシーンがあります。
 特攻兵たちも、志願という形をとってはいるが、実質的には拒否できない「命令」だという描写がなされます。
 また、特攻が天候不良で延期になったり、特攻に失敗して特攻兵が帰還すると、トメさんは大喜びします。
 本人が狂信的に志願していったとか、周りが「華々しく散ってきて」と言ったり、特攻は立派だと口にするような瞬間は一切ありません。

 つまり、この映画では、特攻行為自体については明らかに否定的に描かれています。

 また、この作品に低評価をする人の意見には、主人公がはっきりしないとか、深く掘り下げられたキャラクターがいないから感情移入できない、同じような話が淡々と進んでつまらない、という指摘をちらほら見かけます。

 しかし、あえて言いたい。
 実話の戦争映画に、そんな感情移入する主人公がそもそも必要か?

 空想物語なら、明確な主人公や、キャラクターの掘り下げは必要だろう。
 しかし、実際の戦争は、誰かひとりだけが特別な存在ではない。
 それに、ドラマ的な展開や、感情移入する間もなく、日常のようにあっけなく人が死んでいくのが本当の姿だと思う。

 また、語り手となっている「トメさん」にしてみても、知覧特攻隊の若者たちというのは、全国各地から知覧に集められ、そうして基地の指定食堂である鳥濱トメさんの食堂にやってきては、短い期間を通り過ぎていった若者たちです。
 知覧の特攻兵たちの知覧での滞在日数は、だいたい四〜五日くらいで、中には一日で出征された方もいるそうです。
 

 この映画は、色々な背景を持った若者の「群像劇」に近い作品です。
 一応は「鳥濱トメさん」の「
語り」としての体裁をとってはいますが、映像の大半は特攻隊員たちです。
 そうした隊員の中に、物語の軸となる明確な主人公は置かれていません。
 なので、
「娯楽作品」としてのストーリー性では、低い評価になるのは多少は仕方ありません。

 ですがこの映画は、知覧の「特攻隊」というものの事実をそのまま描くために、意図的にそうしたものだと思います。
 特定の隊員を主人公に据えたほうがドラマ構築はしやすいですが、それでは知覧の本当の姿が伝わらないので、あえてトメさんの視点を借りることで、当時の空気感を作り出そうとしたのではないかと思います。

 個人的には、戦争を描くのに、特定の人物を主人公にして、個の事象に過ぎない美談のようなものをクローズアップしたり、英雄譚のような内容に仕立てるほうが、よほど欺瞞に満ちて醜悪に感じます。

 それに、「感情移入」や「共感性」となれば、別の問題も出てきます。
 特攻隊が特攻していく姿を観ていると、つい成功を応援したい気にさせられます。
 しかし、特攻の成功=すなわち、アメリカの船で多数の死者が出る、ということです。

 そこには同情する余地はなく、どうでもよい話しになるのだろうか??

 アメリカ軍の兵士一人ひとりにも、当然家族や愛する人がいる。
 アメリカ軍の兵士たちと、特攻隊員で、個人的恨みがあったり、憎みあってるわけではない。
 なのに、なぜ殺し合い、どちらかが死ななければならないのか?
 命の重みに、ドラマ度合が関係あるのか??

 結局、戦争を描くのに、主人公に感情移入するとか、共感できるとか、そういう視点自体が何か間違っていると思う。

 僕は、この映画を観ていて、どうしていいかわからなくなりました。
 特攻隊員の犬死はあまりにも哀れだ。
 しかし、特攻の成功を願うことは、大勢の人を殺すことになる。
 だから、それを応援するのも何か間違ってる。

 どうしたらいいのか????

 肩入れしたくなる主人公がいないからこそ、この映画では、それを強く感じされました。

 漫画家の故・水木しげるさんが若い頃、リアルな戦記物を描こうとしても、「売れない」と出版社がOKしてくれず、有名になってからようやく描かせてもらえた、という話を読んだことがありますが、本当の戦争を描こうとしたら、娯楽性は下がるのは当然だと思う。

 実際、水木しげるさんの戦記物には、ドキドキ感やハラハラ感は一切ありません。
 ドラマチックな展開や、クライマックスのような瞬間は全く出てきません。
 正義も悪もわからず、とにかく全てに対して不快感しかなく、戦争への嫌悪感しか生まれない。
 戦う登場人物の行動に、何の目的も正当性も表現されず、ただ死なないために生きている。
 生きたいのに死んでいく、ただそれだけしかない陰惨な光景がひたすら続くだけ。
 そして、勇敢な戦いどころか、病気や飢えで多くの兵士が死んでいった実態が描かれています。

 でも、本当の戦争とはそういうものだと思う。

 特定を主人公に据えて、ドラマチックにストーリー構築すると、どうしても主人公への感情移入が重くなり、特定部分への思い入れが強くなります。
 そのほうが観る側の娯楽性は高まるでしょう。

 しかし、本来、命の重みに違いはありません。
 主人公だろうが、脇役だろうが、モブキャラだろうが、現実世界の中では人間一人ひとりの重さに違いなんてなく、同じ命です。
 キャラクターの掘り下げが浅いと、ドラマが軽く感じてしまうかもしれませんが、この映画はむしろ、特定の人物だけを深く掘り下げすぎないことで、命の重みが均等になるよう表現したのではないかと思います。

 完全に創作の漫画や小説ならともかく、第二次世界大戦を表現するのであれば、ここはものすごく重要な部分だと思う。

 とにかく、興業的には成功しなかった映画ですが、真摯な気持ちで、一人でも多くの人に観てほしい映画です。

(以下、ネタバレ)
 この映画の中で最も重要な軸は、特攻の目的が最初から最後まで明確でなく、とにかく「死んでくれ」という話になっていることです。
 この、「目的はよくわからないけど死なないといけない」という虚しい価値観が、この作品の根底にずっと流れている通奏低音です。

 いちおう、冒頭部分で、特攻隊の目的説明がされますが、この映画の中でそれは、ほとんど意味を持っていません。
 この設定に対して、歴史考証がお粗末だとか、軍部の考え方を最初にもってきたのは、それが石原氏の思想の表れだとか指摘している人が散見されますが、そうした指摘は的外れだと思います。
 おそらく石原氏にとって、この「目的説明」や「背景説明」には全く気合が入っていないだけだと思います。
 ストーリー構成
上、状況説明として挿れただけで、むしろ後になればなるほど、しょせんは「名目上」の目的に過ぎないような描写が何度となくされます。

 目的もよくわからないけれども特攻しなければならならい、という背景設定こそが、この映画のバックボーンだと思います。

 そして、この映画の中で、どうしようもない気持ちにさせられる場面が、開始30分ほどの場面で描かれます。
 それは、特攻前夜の宿舎のシーンです。

 愛する人へ、もう自分のことは忘れて新しい人と幸せになってくれとひたすら願った遺書を綴る隊員、異常な目つきで黙々と靴を磨いていたかと思うと、突然狂ったように外に飛び出してのたうち回る隊員、そして、「お母さん、お母さん」と叫ぶ隊員……

 もう、思わず声が出て、涙が止まりませんでした。
 映画を観ていて、嗚咽を漏らしたのは初めてです。

 この遺書の内容は、実在の遺書を用いられていますが、ここにこそ、この作品の題名である、「君」の意味がこめられていると思います。
 ここで、決して「天皇陛下」や「お国」などという言葉は全く強調されません。
 表現されるのは、家族や、愛する人への思いばかりです。

 ただ、遺書は、軍に検閲されるので、全ての本音が書かれてはいない、という指摘をする人もいます。僕は、知覧特攻隊の方々の遺書を集めた本を持っているので、全ての遺書に目を通しましたが、実際の遺書の中には、天皇陛下万歳、といった記述のある遺書も多く見られます。

 ですがそれでも、遺書から伝わってきたのは、家族や愛する人への想いばかりです。
 「お国のために」という表現をとりながらも、だから、誇りに思ってください、悲しまないでください、という、形を変えての家族への想いばかりでした。

 また、この作中では、何度も、何度も、特攻隊員の手紙が、検閲を逃れるために、鳥濱トメさんや女子学生の手によってポストに投函されます。
 これは、特攻隊員たちはみな、軍には言えない気持ち、つまり「表向きの大義名分」とは違った想いを秘めていたことをはっきりと物語っています。

 結局この映画が表現していることは、「特攻隊員たちは皆、愛する家族や恋人のことを想って特攻した」ということです。

 こうした感覚についてはしばしば、「現代人から観た特攻」と指摘する人がいるけれど、それは違うと思う。
 そう言える根拠
は、この映画の序盤にも出てくる、日本軍で最初の特攻隊員となった関大尉の発言が背景にあります。

 当時、関大尉は特攻を批判し、新聞記者のインタビューに対して、「自分は大日本帝国や天皇陛下のために特攻するのではない。愛する妻のために特攻するのだ」と答えています。

 決死と必死は違い、特攻は、100%死ぬことを前提として赴く「必死」の行為です。
 「ねばならない」目的があるわけでなく、自分ひとりが死んだくらいで戦争に勝ったり、家族や愛する人の命が保証されるわけでもないのに、「必死」を背負わされるなんて、一体どんな感情でいられるのでしょうか……? 

 それは、特攻隊員だけのことではありません。
 大事な息子が、愛する人が、これから確実に死にに行くのを、止めることもできず、勇気づけ、むしろ感謝で見送らなければならない。

 映画の中でも、息子が特攻隊員となった知らせを受けてショックを受ける家族のシーンがあります。
 特攻隊員に選ばれるとは名誉なこと、などという様子は、微塵も見せません。

 でも、「非国民」認定されて特高に捕まらないために、人前では、息子が特攻隊に選ばれたことを喜ばなければなりません。

 こんなこと、まともな人間には耐えられない。
 こうしたことを、当たり前として受け入れないといけない状況、それが「戦争」であり「特攻」なのです。

 ここで表現されている最も大事なことは、特攻隊員も、家族も、決して「お国のため」などという妄信によって志願して特攻したか、家族もそれを応援したわけではない、ということ。
 そんなばかげたものを信じて特攻志願したのではなく、それしか選択肢を与えられず、最後の最後まで、家族や恋人といった愛する人を想いながら死に向かっていき、家族も、決して喜んで見送ったわけではなかったということ……

 こうした感覚を、戦争を知らない現代人的な感覚であり、「当時の軍人は愛国主義教育を徹底されていた」とか、「戦前の兵隊はみな大義に殉じていた」「時代考証が甘い」と思っている人がいたら、その考えこそ間違っています。

 何より特攻隊の話は、筋金入りの軍人ばかりの話しではありません。
 まだ十代の若い召集兵が沢山いたのです。
 特攻から生き残った人のインタビューで、当時のことを「顔で笑って心で泣いて」と語られていたのを読んだことがあります。
 当時、お国のために死んでいくのが務めであるという風潮だったからこそ、虚勢をはってでも表向きは大義を口にするが、心の中では悲しく思っていたようです。

 映画の中で、19歳の河合軍曹がトメさんに、「今度はホタルになって帰ってくるよ」というシーンがありますが、これは特攻により20歳で亡くなられた宮川少尉という実在の方の言葉で、実話です。お涙頂戴の創作ではありません。

 自分の、そして家族への名誉を重んじていた時代背景は確かにあり、彼らはその名誉を守ろることを意識していたことも事実ですが、決してそれが彼らの全てだったわけではなく、家族を想い、母を想い、兄弟を想い、恋人を想い、仲間を想い、彼らは「ただの人間」として戦争に向き合っていたのです。
 決して大日本帝国に洗脳された狂信者でもロボットでもないのです。

 遺書の多くに、勇敢に戦うことを褒めてくださいとか、国に役立てて満足しています、素晴らしい死に場所を見つけましたと書かれていますが、それらは完全に、家族を悲しませまいとして書かれていることは明白です。
 何故なら、それらの感謝の対象は、ほぼ全て家族に対してだからです。

 国に感謝しているのなら、「天皇陛下、素晴らしい死に場所を与えてくれてありがとうございます」となるはずです。
 しかし、そのような遺書はまずありません。
 
どれもこれも、あえて自分がこの特攻を誇りに思っているように書くことで、「自分が死ぬことを、どうか悲しまないでください」という想いがこめられているのです。

 そして、亡くなったのは特攻隊員だけではありません。
 基地で働く、女学生といった民間人まで、多くの人があっけなく死んでいきます。
 その描写も、おそろしくあっさりと、しかも、生々しく描かれます。
 振り返って涙するのも一瞬だけ。

 これを、表現が浅いとするのは軽率です。
 誰もが常に死と隣り合わせで、ひとりの死を悼んでじっと立ち止まっている暇もないほど、当たり前に人が死んでいくのが戦争だから……

 また、この映画の中に、「悲しく美しい」流れを乱すような展開があります。

 それは、田端少尉と、その奥さん(籍を入れていないが)とのラブシーン。
 これを観た瞬間は、清廉な流れの中に、いきなり汚物をぶちこまれたような違和感を感じたのですが、すぐに考えを改めました。
 もうこれが今生の別れ、という時に、暗がりの中、二人きりで愛する人を抱きしめたなら、そりゃどうしようもなく、お互いに全力で愛し合いたい気持ちになるはずだと思ったからです。
 性的なものって、感触的には品がないように感じてしまいますが、我が身に思えば、きっと、泣きながら、壊れるくらいに抱きしめ、髪の毛一本、肌の1ミリも残さずに、自分の記憶に焼き付けたいと思うに違いない、と思い直したからです。
 単に「映画の流れ」としてみれば、黙って抱き締め合うくらいがスマートだったでしょうけれど、あえて濃密な絡みを入れたことこそ、生々しい「人間」を感じました。

 また、田端少尉は、機体不良によって、特攻せずに何度も引き返してきます。
 映画の中では、田端少尉は逃げてきたのではなく、実際に整備不良だったというようになっています。
 ですが、田端少尉は、友人である中西少尉に対して「生きたい」という本音を別の場面で語ります。
 しかし田端少尉は結局、機体確認のための航空テストで墜落して死亡してしまいます。
 
この場面について、映画評の中には「あの展開に意味があるのか」「結局何だったのか」という指摘があります。

 ……ですが、この話は、知覧特攻隊に実在のモデルがあるのです。
 そして、その墜落の原因は今でもわかっていないのです。

 ただ、おそらくこの映画で伝えたかったメッセージは、決して臆して帰還したわけではなかった、ということと、だからといって、死ぬことを望んで特攻したわけではなかったということ、その2つではないかと思います。
 つまり、実在の隊員に対する、精一杯の弔いだと思うのです。
 だから、ここにドラマ性や、何だったのかといった意味を求めるべきではないのです。

 そして次に微妙とされる場面は、撃墜されて死んだように見えた中西隊長が生きていたことと、米軍に助けられて生きていた坂東少尉のことです。
 映画評で低評価をしている人の多くは、中西隊長と坂東少尉が生きていたことに突っ込んでいる人が少なくない。
 「興醒めだ」という指摘すらある。

 でも、僕は、この二人が生き残ったという設定のこそ、この映画が伝えたい最大のメッセージがあり、作品としての価値だと思っています。

 正直にいうと、これだけ悲壮感を演出して出撃し、実は生きてましたという展開は、瞬間的には「あれ?」っと僕も思っていまいました。
 でもすぐに、”その感覚こそおかしい”ということに気付きました。

 確かにこれが、漫画やSF作品などのフィクションのストーリーなら、あれだけの演出をしていておいて生きていたら興醒めだ、というのはわかる。

 けれど、特攻隊はドラマじゃない。
 戦死したと思っていた人が、実は生きていた。
 それは最高に素晴らしいことじゃないのか。

 むしろ「皆と一緒に死ぬべきだった」なんて感覚は、それこそが、戦時中の最低な軍部の感性であり、指令ではないのか?
 その感覚こそが、「全員玉砕した美談に傷がつく」と言って、無理矢理死にに行かせた「総員玉砕」の話と同じではないか。
 「仲間と一緒に死んだほうが綺麗だ」だなんて、最も忌むべき感性であり、それこが「特攻の美化」であり「賛美」だ。
 死んだほうが良かったなどと思ったとしたら、その感性こそが、「特攻隊」や「総員玉砕」を生み、死ぬことを美徳のようにほざく、狂った軍部を生み出すのです。

 シナリオ作りという観点なら、ここで全員死んだほうが「お涙頂戴ドラマ」としてはまとまりがいいことくらい、素人だってわかる。
 けれど、ここであえて生き残らせた。

 「生きたい」と主張した田端を何度も殴りつけた中西が生き残った。
 先に逝った仲間たちの魂を背負い、「自分もすぐに行く」と行った坂東が生き残った。
 この部分に、この作品に込められたメッセージがあると思う。

 戦時中は「軍神」と崇められた特攻隊員も、戦後は「犬死」扱いされ、生き残った特攻隊員の中には、死んだ仲間に対してずっと負い目を感じながら生きていた方もいるそうです。

 ですが、特攻隊員でありながら生き残られた、「木内直」さん(実在の方)という方は、両親や友人と涙の別れをしていながら生き残ったので、最初は「生きて帰るのが恥ずかしい」と思われていたそうですが、いざ実家に帰ると、ご両親は「よう帰れた!」と声を上げて喜ばれたそうです。

 当然でしょう……!

 そこで、「なんで生きて帰ってきた!? この恥さらしが!」なんて言う親、いるわけがありません。

 この映画の中でも、戦後、中西隊長が死んだ仲間の実家を訪ねた時、その親は自分の息子が帰ってきたと思い、泣きながら抱きつくシーンがあります。

 特攻隊に行ったのだから、死んでこないといけないなんて思う親はいません。
 何かの間違いでも、奇跡でもいいから、生きて帰ってきて欲しいと、誰もが心から願っているはずです。
 終戦直後、特攻から生き残った兵隊が、「特攻崩れ」「お前らのせいで戦争に負けた」となじらたり、狂信的な集団として蔑まれることもあったそうです。
 なんと悲しい話でしょうか……

 鳥濱トメさんは、戦後、色々な人から特攻の話を聞きたいと言われたが、ずっと拒否されていたそうです。
 その理由は、戦時中はあれほど特攻を賛美しておきながら、戦後になると、手のひらを返したように悪く言われたからだそうです。

 もちろん鳥濱トメさんは、特攻を肯定しているわけではありません。
 トメさんが言いたかったことは、映画の中のトメさんが言うように、「生きていていいんだよ」「死んだ仲間も、きっと自分たちの分まで生きてほしいと思っているよ」というメッセージだと思うのです。むしろ、それでこそ、彼らは特攻したことに意味があると。
 それが、この映画の伝えたかったメッセージだと思います。
 だから、最後に中西の前にホタルになってやってきた仲間たちの霊は、みな笑顔だったのです。

 特攻は決して、死ぬことが目的なんかじゃない。
 その後に生きる残る人々の幸せのために特攻したのだと。

 それはつまり、そのメッセージは、現在に生きる我々にもかけられていると思うのです。

 坂東少尉が「無人島でひとり生きているらしい」というのも、蛇足のようなエピソードに思われた人もいるかも知れませんが、「生き残ったことが恥ずかしい」と思っている隊員がいたことを踏まえた、ある種の「ファンタジー」ではないか……? と思うのです。

 特攻隊で死んだと思っていた隊員も、名乗り上げることができずにいるだけで、実はどこかでひっそり生きているかも知れない……
 
そんな願いを表現したのが、坂東少尉なのではないかと思うのです。
 実際、特攻に行って帰ってこなかった家族や恋人のことを、実はどこかで生き続けているんではないかと、ずっと希望を持ち続けていた方もいらっしゃるそうです。

 ただ、どうしたって、こじつけ感は生じます。
 そもそも特攻でなければならなかったのか。
 特攻の話を感動ドラマのようにすること自体、特攻にロマンチシズムを生み、当時の軍部の責任を曖昧にしてしまうと。

 ……それらの答えは、ただ一つ。
 戦争なんてしなければいいのです。
 それが、この映画から導かれる答えなのです。

 ただ、石原氏としては、そこまで明確に反戦を意識した映画として作ったつもりはないかも知れません。
 けれど、特攻で散っていった人たちの想い、そして、現在生きている我々含む、生き残った人たちは、戦争で死んでいった人の分まで幸せな世の中の作ることこそが、彼らの想いにこたえ、彼らの特攻に意味を持たせること。
 それは、石原氏の考えとは関係なく、今を生きている我々が意識しなければならないことだと思います。

 特攻は、決して正当化される行為ではないし、むしろあってはならない、非人間的行為である。
 ただ、特攻した隊員たちは、決して歪んだ思想などで、望んで特攻してしったのではなく、それしか選択肢が許されない中で、愛する人の幸せを願って特攻したのだと……

 だから、その想いに答えるためにも、今生きる我々は、幸せに生きないといけない。

 僕がこの映画を「観るべき」と思っているのは、こうした部分です。
 
感動ドラマにするのは簡単なのを、あえてドラマ性を崩して、むしろ観るものに正しい理解を求めるように「特攻隊のこと」を表現した作品だと思っています。

 この映画でマイナスポイントをあげるとするなら、特攻隊員役のチョイスでしょうね。
 演技力の問題じゃなく、全員丸坊主で服装も同じで、主要キャストは体系も似てるから、区別がつきにくい……

 映画として見栄えが重要なのはわかるけれど、もっと幅広く個性的な顔立ちの俳優を起用して、キャラクターの区別がわかりやすくなるようにしたほうが、より良かったでしょうね。
 演技自体は、特筆して良かったとは言いませんが、素朴な若者を表現する意味では、あれくらい無骨な演技のほうが、雰囲気にはあっていたと思います。
 

 


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