部活動のあり方

 中高生の部活がどうあるべきかが最近よく話題になります。
 生徒視点というより、どちらかというと「働き方改革」にからみ、部活動の顧問教師が休めない・長時間拘束される、といった側面が大きいように思います。

 結論からいうと、外部のコーチを雇って委託する仕組みにすればいいのに……と思います。
 自分もかつて学校の先生を目指して、中学・高校の教員免許も取得したくらいなので学校教員の仕事の内情も多少は知っていますが、部活の顧問を引き受ける限り、どう考えても長時間労働や休日出勤につながるのは避けられません。

 活動実態の少ない部活だったり、指導などで関わる必要のないクラブばかりならどうにでもなりますが、結局問題になっているのは、インターハイを目指すような体育会のクラブや、コンクールで上位を目指す吹奏楽部の顧問のことで、こればっかりは、ちょっとした工夫程度ではどうにもなりません。

「今の時代、プロを目指すような生徒はクラブチームや社会人チームに入るから、本気の部活自体が不要」という人もいますが、それはまた極論でしょう。
 確かに、今はそうしてプロの道に進む人も少なくないし、テニスやフィギュアスケート、音楽でもピアノやヴァイオリンのような世界では、部活動とは関係なく、幼少から英才教育を受けているような人がほとんどです。
 でも、そうした人のほとんどが、経済的にかなり豊かな家庭に生まれています。
 一方、普通の公立高校の野球部からプロ野球選手になったり、中学校の吹奏楽部ではじめてトランペットを吹いてそこから音大に進んでプロになった、というような人も多くいます。
 なので、そうした人を生み出す土壌をなくしてしまうのはもったいないと思います。

 ただ、そもそも学校の本分は学業なのに、部活動になぜそこまで気合を入れるのか?
 学校はスポーツや音楽のプロの養成所ではないよね?
 
と思う人もいるでしょう。

 その疑問は正しいと思います。

 これは、そもそも中高の学校がなぜ部活動に力を入れるのか、しかも教育の一環として教員が顧問としてかかわるようになったのか、それを歴史から紐解く必要があります。

 学校が特に部活動に熱心になったのは、1980年代以降です。
 そう、この時代は、非行や校内暴力が社会問題になった時期です。

 もっとも、何故この時代に非行や校内暴力が盛んになったかというと、当時の日本は急激な高度成長期でバブルへと向かっていく頃。
 良い意味で社会生活・文化レベルが上がり、1960年頃は大学どころか高校への進学率すら57%程度だったのが、1970年の後半から90%を超え、1980年には100%近い子供が高校に進学するのが当たり前になりました。

 それまでは、学校に行きたくない人は進学しなかったし、勉強もしなかった。
 中学を卒業したら社会に出て、自分で稼ぐのは何ら珍しいことではなく、そうなると煙草も酒も当たり前だった。(法律はともかく)
 高校になんて行かせる気もない、本人も行く気のない家庭では、学校の勉強も成績も適当でよく、中学生の頃から親の仕事を手伝ったり、新聞配達でバイトするのはよくあることだった。(新聞配達のアルバイトは中学生でも認められています)

 それが、高度成長と共に、日本全体に中流意識が蔓延すると、義務はないのにとりあえず高校に行かせるようになる。
 すると、中学時代から、いや、小学生時代からも勉強や成績を意識するようになる。

 また、もともと学校の先生なんてのは、勉強を教えるためだけにいるわけだから、生徒指導なんて本来は二の次で、本来は勉強に興味のない生徒は放っておいてよかった。

 それがいつしか、やる気があるのかないのかわからない生徒まで、面倒をみなければならなくなった。
 しかし、生徒に本人にしてみたって、本音で勉強なんてやりたいのかそうかもわからない。
 とりあえず世の中がそうだから、親がそういうから勉強をしないといけない。
 成績が悪いと良くないらしい。高校にもいかないといけないらしい。

 これが、「社会のレール」と「画一化教育」のはじまりです。

 まあ、そんな状態なら、色々なことが起きるのは必然です。
 校内暴力は高校より中学のほうが激しく問題になったと言われていますが、それは、本来高校に進学して勉強するようなタイプではないのに、勉強しない、高校に行こうとしないと落ちこぼれのようなレッテルを貼られるようになってしまったからでしょう。

 そうした時代背景にあって、生徒指導の手法として用いられたのが、部活動です。
 また人生の道なんて決めきれないのに、エネルギーだけはありあまっている思春期の生徒たちに、そのエネルギーの発散場所を用意したというわけです。

 なんで部活動かというと、1960〜70年代に部活動に熱を入れているところは少数で、それだけに、気合を入れてやっているところは生徒の統率のとれたところが多かったからです。

 というわけで、部活動で高い成績を上げている学校のやり方ベンチマークとして、生徒指導の手法の一部として部活動を積極的に取り入れたわけですね。

 何やかんやいって、スポーツでも、音楽でも、本気でやれば体力も精神力も使うし、そして何より楽しいですからね。
 スポーツに、音楽に、汗と情熱を費やし、面白さを覚える。そこで自分の居場所、「自我」の確立場所を見つける。
 中には、勉強はしたくないけど、本気でスポーツや音楽のその道でプロになろうと思って、そこに本気になる生徒も出てくる。
 しかし、そこでもし問題をおこそうならば、クラブ活動が停止になる。
 強豪校の中には、成績チェックもされて、赤点をとるとクラブへの参加を停止になるところもあったり。
 大会に出られなかったら嫌だから、問題を起こさないようにするし、勉強も最低限やろうとする。
 そんなんだから、親も、部活動に熱心な学校、大会で高い成績を上げている学校に、自分の子供を入れようとする。
 すると学校側も、人気を高めるために、部活動により力を入れるようになる。

 これが日本で部活動が盛んになった歴史です。
 学校教育において、部活動は生徒たちの統制を取るために必要な活動だったのです。

 しかし、今はもう、時代が変わりました。

 昔は、勉強するか就職するかの二択以外の選択肢なんて見えなかったので、そこにあてはまらない、心の定まらない思春期の若者の気持ちをつかむのは部活で十分だった。

 でも、情報化社会の現在では、そんな単純にはいきません。
 だから、学校教育における部活動の有用性は、昔に比べると間違いなく下がっていると思います。

 しかし、思春期の若者の心が不安定なのは、今も昔も一緒です。
 そこに部活動という存在がある程度機能するだろうことも、今も昔も変わらぬ事実だと思うんです。

 ただ、それを背負うのが学校の教員で良いかどうかは疑問で、そこが問題なんじゃないか?
 と思うのです。

 学校の先生は、野球にしろ、バスケにしろ、音楽にしろ、その専門の指導者でもなければ、組織運営のマネジメントのプロでもない。
 昔なら、とりあえずその顧問の先生に従うしかなく、その顧問がヘボかったら不運だと思うしなかったですが、今の情報化社会では、指導力のない顧問なんて、生徒から簡単に見透かされてしまいます。

 つまり、部活動の役割が終わったのではなく、部活動の指導者を学校教員が兼任する時代が終わった、ということです。

 だから、いっそそれを専門にしているコーチやマネージャーを雇うのを当たり前にしたほうがいい。
 もちろん、ただ「教える人」ではなく、生徒の安全管理義務も負った上で契約する形で。そうしないと、先生が休めませんから。
 国がそういう資格制度を作ったって良いくらいではなかろうか?

 ただでさえ教員不足(社会の先生は余ってるらしいが…笑)と言われる今日では、そういう仕組みにしないと、部活動の問題は解決しないと思います。 


 

 


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