官僚たちの夏

 1975年に発表された城山三郎氏の有名な小説の、2009年のドラマ化です。
 佐藤浩市さん、堺雅人さん、高橋克実さんといった、実力派俳優を多数布陣したドラマで、個人的にはなかなか見ごたえのあるドラマでしたが、視聴率は9.05%と不振に終わったそうですね。

 ですが、さもありなん。
 元々がドラマチックな内容ではない上、舞台となっている官僚と政治の組織構造が複雑すぎです。
 自分は元の小説を読んで知っていたので、当時の官僚の昇進ルールや、出てくる大臣らの権力構造、登場人物のバックボーンなどを察することが出来ましたが、映像作品だと詳しい背景説明がなされないので、官僚や政治のことに詳しくない人には、一体彼らがどういう役割で、何を目指し、何にひっかかっているのかがわからづらいため、面白さを感じてもらえなかったのではないかと。

 そもそも、元の小説自体が、何かを成し遂げる物語というより、官僚の内幕をテーマに、仕事への責任感や出生競争、権力闘争など、それらに潜む人間の内面や人間模様を精密に描き、それを楽しむような内容だけに、ドラマとしての盛り上がりを作りづらかったのだと思います。

 というか、それもあってか、ドラマのストーリーは原作の小説と全く違い、キャラクターの性格付けやイメージも、かなり原作とは変えていました。
 背景設定が史実に基づく小説なので、大まかな枠組み自体は同じですが、もはや、城山氏の小説を原案とした、オリジナルドラマでしたね。
 そのへんも、原作を知っている人からは賛否両論だったようです。

 僕個人としては、原作との違いはともかく、なかなか楽しめる内容でした。
 
それはやはり、現実にあった日本の高度成長期の苦悩や戦いであることと、結局それって、「組織で仕事をする」という上では、今も昔も変わらない、同じ苦悩や戦いとして、リンクすることが多いからでしょうね。

 「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、まさに、高度成長期の経済と政治のかけひきの舞台裏は興味深い。
 敗戦後の焼け野原から、日本の産業界を保護しながら育てつつ、いざ世界競争の時代へと進む中、政管主導で産業を統制しながら育てていくのか、企業個々の判断に任せて自力で競争させていくのかは、微妙なさじ加減です。
 実際に通産省がどれだけ機能していたのかはわかりませんが、本気で国益のことを考えていたのか、自己の出世・保身のためだったのか、その真意は人によりけりにせよ、大変な激論になったのは事実だったろうと思います。

 原作の小説での風越は、個の企業任せにしていたら自分の利益の事しか考えないから官僚が統制を取らなければならない、という考えを行動原理として動いていました。
 一方、ドラマでの風越信吾は、いかにもドラマの主人公らしくわかりやすくしたのか、原作のような経済的な考え方というよりも、「弱者救済」的な、ちょっと綺麗ごとっぽい主義者になっていました。

 史実では、風越のモデルである佐橋滋氏の考えた路線によって、日本のコンピューター業界は世界のトップレベルにまで発展しましたが、一方、それに反発した本田技研は、自らの力によって見事な発展を遂げ、むしろ佐橋氏の言われるままにやっていたら、今日のホンダはなかったと言われています。
 なので、何が正しいとかは一概には決められません。

 ただ、思うのは、こうした国と企業という関係は、企業内部の組織構造にも似たように感じます。
 例えばグループ経営をしている企業の場合、親会社がグループを統制して子会社を管理していったほうが良いのか、子会社の自主性に任せた方が良いのかは、悩ましいところではないでしょうか。

 子会社に権限移譲すると、子会社内で自主的に判断・行動出来るようになり、創造性が増して組織が活性化する、というと聞こえは良いですが、野放しになるリスクもあり、資金にも限りがあるため、目先の利益に捕らわれて物事を判断してしまう嫌いがあります。
 一方、親会社が子会社の統制を取れば、子会社が暴走するリスクを抑えられ、グループの資本と財源を活かした長期的・巨視的な視点での投資や判断を行うことが可能になりますが、子会社の意思決定に干渉し過ぎると、子会社の独自性が損なわれるばかりか、自主的な成長・発展意欲も損なわれ、自責の意識が弱まり、マネジメントへの甘えも生じます。

 こうしたことはグループ経営ではよくある話なのですが、それが「官僚たちの夏」で描かれている国と私企業との関係にも似ていて、組織というものは、役所だろうと民間企業だろうと陥ることは同じなのかなあ…と感じました。

 ドラマの話に戻すと、ドラマでの人物設定の改変は、いくつかが少し残念に思いました。 
 まず何より、そうした主人公である風越の原作との違いです。
 原作では、ガサツで昔気質な、豪放磊落な親分的人物で、部下からも「おやじさん」と呼ばれている人物なのに、ドラマでは、中途半端に常識人っぽくスマートなイメージになり、おやじさんというより「アニキ」的人物になっています。
 今の時代にはそぐわないと思われての調整なのでしょうけど、「官僚たちの夏」を原作に選ぶなら、その風越のモデルとなった「佐橋滋」という独特の人物像こそ、この小説の見どころのようなものなので、そこは変えないで欲しかったなあ……と思います。

 それに、風越のモデルの佐橋氏は、性格は「雑」でも、経済知識に関しては相当な勉強家であり論客です。
 佐橋氏の官僚主導による国内産業保護の考え方は、おそらくアレクサンダー・ハミルトンやフリードリヒ・リストの影響ではないかと思うのですが、原作の小説では、そうした自由貿易に反対する理由について、風越が明確な論理を持っている姿がきちんと描かれ、だからこそ通産省内での求心力も高いことが説明されていましたが、ドラマでの風越氏は、もはや「弱者救済」を大義名分にした、ただの感情論者のようです。

 なので、国際化や自由競争を主張する玉木・片山らライバルとの口論でも、融通の利かないただの頑固者ように見えてしまい、まして現代を知る視聴者にとっては、自由貿易や国際化社会が歴史的必然であるのを知っているだけに、主人公である風越のほうが、不勉強で社会動向に疎い、ただ綺麗ごとを言うだけの感情的な存在にすら見えてしまいます。

 結果的に風越が時代遅れであったことは事実であっても、未来がわかっていない当時にあっては、互いにきちんとした理論のぶつかりあいのように描いて欲しかったなあ……と思います。

 その風越の右腕となる鮎川も、原作ではただ有能であるだけでなく、粗野な風越の嗜め役・ブレーキ役ともなる、知性と理性と行動力の総てを持ち合わせた「十年に一人出るか出ないか」という傑物として描かれているのに、ドラマではむしろ風越以上に直情的な性格にされ、理知的な側面があまり表現されなかったのも残念です。
 風越にない物を持っているからこそ重用され、周囲からの信任も篤く、それ故にその早すぎる死があまりにもショックであり、惜しまれたというのに、それがドラマでは全く伝わって来ませんでした。

 そのせいで、風越サイド全体が、ただの感情的な集団のようになってしまっていたように思います。

 対抗勢力の玉木・片山もかなり違いましたね。
 
片山は、ドラマでは単に風越らとは主義が違う程度の扱いになっていましたが、原作ではもっと端的に新人種のように描かれ、まるで未来の世界からでもやってきたかのような「別世界の住人」的に描かれていました。
 
だからこそ、古風な風越一派とのコントラストが面白く、片山の無機質なまでの先進性は、読者としては現在を知るが故に、敢然たる真理のように見えながらも、しかし、だからこそ風越の古臭さが、まさに作品中でも比喩されたドンキホーテのように哀しくも愛らしく思えてくる……という絶妙な効果を生んでいたと思います。
 それがドラマでは、片山も風越と同じくらい感情的な人物に成り下がっていたのが残念でした。

 風越と同期の玉木にしても、最初は風越とは仲の良い「友」のように扱い、それが主義の違いによって袂を分けた……という展開になっていたのも、しっくりきませんでした。
 ドラマ的にはそのほうが盛り上がると思ったのかも知れませんが、ストーリー的に辻褄が合わないように思います。
 「官僚たちの夏」のストーリーの大きな軸の一つに、「次官」の席次争いがあり、同期から次官は一人しか出ないのが不文律(結果としては例外的に両方なりましたが)という説明をなされています。
 それで、風越VS玉木、鮎川VS牧野、庭野VS片山という構図が出来ているのに、風越と玉木だけは仲良しで、玉木が特許庁に飛ばされることが決まると、お互いに「何故俺が…!?」「何故あいつが…!?」みたいな顔をし、風越が玉木を励ましにくという展開には、違和感ありまくりです。

 そもそも一つしかない次席のポストを争っているライバルであり、負けた方は外に飛ばされる「風越VS玉木」の関係であることは最初からわかっていたことなのに、玉木が外れたことを聞いて風越が驚き、そこから心ならずも対立したかのように描かれるのは、不自然に感じます。
 そのへん、原作では風越と玉木は、次官の席を争うライバルとして、始終敵対していました。

 やっぱり、この小説をドラマにするのは難しかったのかも知れませんね。
 もっとも、出演している俳優陣が名優揃いなので、ドラマとしての見ごたえはあり、単なる日本の高度成長期における官僚や
企業たちの群像劇として見れば面白いと思います。
 ただ、「官僚たちの夏」の原作名をそのまま使用したり、「官僚」を主題にしたからには、もう少し原作の空気感を出したり、官僚組織の内幕を緻密に表現してほしかったなあ、と思います。

 

 


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