クライバー親子の「運命」

 学生時代、カルロス・クライバー指揮・ウィーンフィルのベートベン交響曲第五番、俗にいう「運命」を初めて聞いた時、センセーショナルな衝撃を受けました。

 C.クライバー・ウィーンフィルのベー5の録音というと、当時名演として評判が高かったので、どんなベー5を聴かせてくれるのかと期待して聴いてみたら、期待を上回る演奏で感動したのを覚えています。

 つい最近、その録音の評価をネットで検索してみると、低い評価をしている人が結構いるのを目にして、意外に思いました。

 どんな演奏にも好き嫌いがあるのはよくあるとはいえ、低評価の人はだいたい、軽いだとか、深みがないとか、速いテンポでごまかしてるだけで中身がない、という評をする人が多いようですが、そういう評価をしている人って、ベー5のスコアをわかってないんじゃないか?と思います。

 何をもって「中身がない」と言うのか?
 クライバーの録音を聴いた時に衝撃を受けたのは、表面的な快活さとかではなく、楽曲解釈の凄さです。

 ベートーベンに限らず、古典派の曲を演奏するのって、スコア通りでは良い演奏、というか、まともな演奏にすらならないことがあるのが難しいのです。

 というのも、古典派時代までの記譜法では、強弱記号などをあまり詳細に書く習慣がなく、オーケストレーションも、当時の楽器の性能に合わせて書かれているため、それを現代の楽器で、しかも現代人が聴き慣れて曲のイメージになるよう演奏するとなると、様々な調整が必要なのです。

 もちろん、ウィーンフィルやベルリンフィルのような名門オケともなれば、指揮者が何もしなくともまともな演奏になる名手揃いではありますが、それでも、演奏者の裁量というか、特に指揮者が楽曲解釈で果たす役割は大きく、そこにフルトヴェングラーやメンゲルベルクといった十九世紀生まれの指揮者たちは、スコアをガンガン改変して演奏効果を高め、聴衆を大いに魅了したわけです。(もっとも、彼らは古典派の曲でなくとも改変していましたが)

 何が言いたいかというと、我々がCDなどで聴き馴染んでいるモーツアルトやベートーベンの演奏というのは、古典楽曲を演奏する際のセオリーを身に付けた演奏家が、ちゃんと良い音楽に聴こえるように、上手に演奏されてるわけです。

 トスカニーニは楽譜に忠実であることを重視したとか、それを模範としたカラヤンも楽譜に忠実だったと言ってる評論家が多いですが、演奏者としてアナリーゼをした経験者から言わせると、フルヴェンらに比べたらマシという話で、トスカニーニだって改変しまくりだし、カラヤンのベー5だって、旋律が木管だけでは弱いからスコアにないホルンを足すなど、演奏効果を上げるための改変をちゃっかりやっていて、そうした指揮者による手が入った上での「名演」なんです。

 しかし、クライバーは違いました。
 本当にスコアに忠実に従いながら、それでいて建築物のように美しく、かつドイツらしい武骨さと、古典派らしい端正なバランスを絶妙に生み出しているのです。

 この魅力は、リスナーオンリーで聴き比べをしてる人には気付かない感動かも知れません。

 ただ、これは実は、カルロス・クライバーというより、その父・エーリッヒ・クライバーのスタイルを継承したものなのです。

 エーリッヒ・クライバーは、戦前のドイツでフルトヴェングラーと並んで名を馳せた名指揮者で、C.クライバーは明らかにその父の影響を強く受け、父の音楽こそ目指すべき理想の音楽像そのものだったとも言われています。

 E.クライバーは、戦争の激化とナチズムの台頭によってアルゼンチンに亡命し、戦後は一時期東ドイツのベルリン国立歌劇場で復帰したものの、当時社会主義であった東ドイツの政府と合わずに辞任し、1956年には亡くなってしまったため、マイナーな存在になってしまいましたが、残された録音には多くの名演があります。

 中でも、名門アムステルダム・コンセルヘボウとの「運命」は名演の一つで、この演奏は、まさにC.クライバーがお手本としたに違いないと思える演奏です。

 親子で共通する特徴的な解釈の部分をあげると、三楽章の19小節目、「運命の動機」の変化形である第二主題がホルンによって力強くフォルテシモで奏されますが、27小節目にその主題が弦と木管に受け継がれた時、ほとんどの指揮者は、伴奏になったホルンを抑え、弦と木管の主題を浮き上がらせようとします。

 もちろんそうした強弱の変化についてスコアに記載されてはいませんが、旋律と伴奏のバランスを考えてそうするのは、まともな音楽教育を受けたプレイヤーであれば、誰もが普通だと考える、当然の計らいです。

 僕もそれまで、フルヴェン、トスカニーニ、カラヤン、クレンペラー、小澤征爾、etc...数々の大指揮者がそのように演奏しているCDを聴いて、それに違和感を感じたこともなければ、疑問を持ったことなんてありませんでしたが、クライバーの演奏は違いました。

 27小節目になって主題が弦と木管に移行しても、ホルンはそれまでと変わらない、力強い音で伴奏を高らかに吹き上げるという、セオリーとは真逆のコントラストで奏されるのです。

 これには本当に衝撃を受けました。

 はじめはむしろ、クライバーが楽譜をいじったのかと思いましたが、それはむしろ逆でした。
 良く考えたら、ベートーベンはスコアにホルンを抑えるような指示は何も書いていない。27小節目の木管と弦の主題はフォルテの記載がありますが、ホルンだけは、何も記載がないのです。

 これを、単に省略しただけとか、書き忘れと考えるのも、もちろん解釈の一つであり、むしろそう感じるほうが「普通」なところを、クライバーはセオリーにとらわれず、ホルンはフォルテシモのままという、スコアに忠実な演奏を、意図的に実行したに違いありません。

 むしろ、その他の指揮者たちのほうが、楽譜にはない演奏をしているわけです。
 もしかすると、ホルン奏者がアンサンブルのセオリー通りに、伴奏になったら音量を抑えているのを、指揮者がそのままにしているだけなのかもしれません。

 伴奏が音量を抑えるなんて、あまりにも当たり前すぎて、今までスコアを見ながらどれだけ演奏を追っていても気付きませんでしたが、いざ、ホルンがフォルテシモのまま伴奏を吹いているクライバーの演奏を聴くと、本来ベートーベンが求めていたのはこの音楽じゃないか?というほどに、見事にしっくりくる演奏だったのです。

 この部分をはじめとして、クライバー親子のベー5は、ベートーベンが意図した音をいかに忠実に表現するか、研究し尽くされたオリジナリティの高い演奏なのです。
 
これを「早いテンポでごまかして快活に見せただけ」などと評するのは、全くもって浅はかな感想です。

 演奏に好き嫌いがあるのは当然です。
 クライバーの演奏が合わない人がいても、それはそれでおかしくないことですが、的外れに過小評価しているのを見ると、ちったあスコアを見てから言えよ、と言いたくなります。

 

 


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