現代のノイジー・マイノリティに惑わされるな!

 大企業や役所のような大組織は、「ノイジー・マイノリティ」に惑わされないことが重要だと最近強く思います。

 ノイジー・マイノリティとは、「うるさい少数派」のことで、反対語は「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)です。(「ノイジー」ではなく「ラウド」=声が大きい、という言い方もあります)
 ちなみに、「サイレント・マジョリティ」というと、某アイドルグループの曲名でも有名ですが、あの歌の内容はおよそサイレント・マジョリティの本質と異なるので、この記事とは全く無関係です。

 この言葉は政治の世界で用いられていた言葉で、声が大きいだけの少数派に惑わされてはいけない、という意図で用いられます。
 支持数が重要な政治の世界では、声が大きいため目立って見える少数意見(ノイジー・マイノリティ)に惑わされて行動すると、声を上げていないだけの大多数(サイレント・マジョリティ)の支持を失ってしまうから注意が必要、ということです。

 しかし一方、マーケティングの世界では、「1件の重大な事故・災害の背後には、29件の軽微な事故・災害があり、その背景には300件の異常がある」という、有名な「ハインリッヒの法則」に代表されるように、特にクレーム分析において、少数意見に注目する傾向があります。
 また、CS(顧客満足度)調査の研究として有名な「グッドマンの法則」でも、「不満を持った顧客がそれを口にするのは1割程度で、9割は何もいわない」、とされ、また、良い口コミよりも悪い口コミのほうが倍の確率で広がりやすいので、ゆえにその「少数の不満の声」を重視すべき、とされます。

 確かに、飲食店などでも、料理の味やサービスが悪いからといって、いちいちそれを口にして言ってくるお客さんは少数で、多くは黙って店を出て「二度と行くか」と思うだけでしょう。
 だから、たとえ少数の意見であっても、それを貴重な情報として品質・サービス改善につなげようとするのは大事ですし、リスク回避という視点で、生産現場のヒヤリハットを参照することも正しいでしょう。
 そのため、マーケティングの世界では、「ノイジー・マイノリティ」という言葉を、本来的なサイレント・マジョリティの反対語というより、「氷山の一角」として、物言わぬ多数派の意見が表出化された「代表者」のように扱うことがあります。
 つまり、本来的な「惑わされてはいけない」意見ではなく、ノイジーに感じる少数意見こそ、サイレントなマジョリテが表面化したものととらえ、むしろ「重要視すべき意見」として扱われたりします。

 しかし、現代においては、「ノイジー・マイノリティ」の聞こえ方自体が、過去とは全く違うので、こうした受け止め方はよくないように思います。
 その理由は、インターネット、特にSNSの普及が大きいことは言うまでもありません。

 にもかかわらず、特に大企業や役所のような大組織ほど、「ノイジー・マイノリティ」に惑わされ、むしろインターネットによってそうした声が表面化しやすくなったせいで、余計に惑わされているように思います。
 それこそ「クレーム」において、ごく少数の先鋭的な意見が、さも大多数を代弁するかのように扱われて騒ぎになり、それによってCMが中止に追い込まれたり
と、大企業が右往左往させられている現象が散見されます。

 しかし、顧客の生の声を拾いにくかった時代はともかく、今日においてはもう、本来の用法に立ち返るべきだと思います。
 ネットによって、マイノリティの声がかつてないほど「ノイジー」になっている今は、そのノイジーな声を大多数の存在に結びつけるのではなく、本当の「サイレント・マジョリティ」はどうなのか? 自分たちの「ターゲット」の意思はどうのか? を、正しく分析し、掴もうとすることが重要だと思います。

 そのために必要なことは、

 @自分の「軸」を具体的に持つこと
 A「軸」に対する世間の声を能動的かつに拾っていくこと
 B決めたらぶれないこと

 だと思います。

 ノイジー・マイノリティに惑わされない組織といえば、やはり個性の強い個人事業や、オーナー企業でしょう。
 事業主自身に「やりたいこと」がはっきりしているから、周りが何と言おうと「俺はこれがしたいんだ」といって我が道を突き進めるからです。
 これが@の「軸」にあたります。

 ただ、その場合は当然リスクもつきまといます。個人事業ならその事業主の自己責任ですが、大組織の場合はそう簡単にはいきません。だからマーケティングやデータといった、納得性のある根拠が必要になるのですが、そこが逆に落とし穴になり、目につく「ノイジー」なものに惑わされやすく、目には見えない「サイレント」なものが見失われがちになってしまうのです。

 だからこそ必要なのが、自分たちのやろうとしていることを能動的に世に投げかけ、自ら反応を取りに行くことだと思います。それも表面的でなく、その意図や意味といった内面的なものまでを「具体的」に発信し、こちらからより「具体的なノイズ」を発生させることが大事なのです。
 これがAです。

 今の時代に最も重要なのは、この部分だと思います。
 SNSの時代になってノイズが聞こえやすくなったからこそ、それを逆に利用するのです。

 しかし、旧来型の大組織では、えてしてなおざりにされていることだと思います。
 なぜなら、大組織においては、複雑な決定プロセスを経てモノが送り出されるからだと思います。
 というのも、「組織」で決定されたこととなると、そもそも自分たちの意思の所在がはっきりせず、意思表示そのものが難しくなります。
 批判や反発を受けた時も、意思の所在も責任の所在もはっきりしないので、軸そのものが見えなくなりがちです。

 好きな異性に告白するなら、その人のことがどうして好きなのか、どれほど好きなのかは自分自身がよくわかっているし、自分の気持ちを何とかして知ってもらいたい、ふられたら絶対に理由を知りたい、となるでしょう。
 けれど、自分の意思と関係なくお見合いした相手だったら、自分のことを知ってもらおうとか、断られた理由を積極的に知ろうと思わないし、「その気がないならなんでお見合いしたの?」と聞かれても、答えようがありません。

 自分一人で考え、自分で決めたことなら、何でも説明できます。
 けれど、集団意思で決定したこととなると、「何でこれにしたの?」と聞かれても、「はて、
なんでだっけ?」ということにもなるし、それが誰の決定だったかを突き止めたとしても、「いや、俺だって、あの流れだとそう言うしかなかった」などと、他人事のような話にもなりかねず、ウヤムヤになりがちです。

 そもそも、集団で何かを決めようとすると、全会一致の幻想やアビリーンのパラドックスによって、本質とは外れた、誰も望まない結論に陥っていることがよくあり、軸そのものが見失われていることも多々あるのです。

 三人で「今日の夜、せっかくだから美味しいものを食べに行こう!」という話になって、一人は洋食が食べたい、もう一人は中華が食べたい、もう一人は和食が食べたい、と意見が分かれた時、結果的に折衷案としてファミレスに決定するようなものです。
 ファミレスという選択が必ずしも悪いわけではありませんが、もし本来の動機が「上質なディナー」であった場合、本質を欠いた結論といえるでしょう。本質から外れているのに、波風を立てたくないから、あとくされなく、全員にとって金銭的ダメージの少ない結論にもっていく……といったような流れに持ち込んだ経験のある人は少なくないでしょう。
 
 いずれにしろ、こうして誰の意思も入っていない決定がもたらす結果は、たいがいグダグダです。
 「誰だよ、ファミレスに決めたの」「そんなこといっても、あの流れじゃしゃーねーじゃん」「……だよな」
 という、よくある展開です。

 この大組織病を回避する簡単な方法は、権限委譲と信賞必罰です。
 集団で決めようとするからブレるんであって、完全に権限委譲し、一人に決めさせれば良いのです。
 ただ、一人に任せるのはリスクもあるでしょう。
 だからこそ、成功すれば必ず見返りを、
失敗したら必ず責任を、という信賞必罰を明確にすることです。
 そうすることで、安易な行動を抑制できます。個人事業やベンチャーへの融資と同じ発想です。
 しょせん集団決定なんてのは、体の良い責任逃れの手段に成り下がっていることが往々にしてあるので、そうした意思決定のプロセス自体を変えてしまえば良いのです。

 とはいえ、外資や、社内ベンチャー制度のない組織でそうした体制を取るのは、大きな案件では難しいかも知れません。
 となれば、たとえ集団決定であっても、一人の意思と同じくらい徹底した矛盾のない形に、コンセプトを細部まで作り込むことが最も重要になると思います。
 曖昧な部分や、矛盾や整合性のとれない部分があるから、ことが起きるごとに都合の良い解釈や取捨選択がされ、軸がぶれるのです。

 また、批判や反発を受けてはじめて理由を説明すると、どうしても言い訳っぽく受け止められがちです。
 だからこそ、最初から全ての意図を説明できる状態しておいた上で、積極的かつ「能動的」に情報発信していくのです。
 批判や反発を受けてはじめて説明するのではなく、普段から意思表示をしておくことで、事前理解を得たり、誤解を避けたり、身を守ることにつながると思います。
 また、自分から世間の声を引き出すことで、「ノイズ」を自分たちに有利な方向に利用するのです。

 これがしっかりできていることではじめて、Bが実現できると思います。

 何事も、はじめる前は誰だって軸をぶれさせようとは思わないでしょう。
 しかし、やってみて、思わぬ反発や予想外の批判を浴びせられると、どれだけぶれまいと思っていても揺らぐことはあるし、それこそ大組織の場合、自分ひとり判断ではなく、集団意思によって変更を求められる結果になりがちです。

 個人事業やオーナー系の店では、オーナーの思いあこだわりが店頭に掲げられたり、対面で口頭で語られるものです。
 もっとも、店主の蘊蓄や能書きばかりの店が良いかというとそうとは限りませんが、いずれにしても、伝えないことには伝わらないことは沢山あります。
 
言葉で語らずともモノで語る、というのも格好良いかも知れませんが、それって実は「傲慢」というか、昭和の男児的発想だと思います。

 男女関係になぞらえればわかるでしょう。
 愛情表現は、やはり言葉や形で示さなければ、伝わらなかったり、不安になるものです。
 しかし、えてして男は、それをさぼりがちです。
 むしろ、いちいち口にしない方が男らしくカッコイイくらいに思っていたり。

 でも、今はあまりにも情報に溢れすぎた時代です。
 情報の少なかった時代は、少ない言葉や、たった一つのことが、十にも百にも重みを持ったかも知れません。
 しかし今では、毎日、毎時間、毎分、毎秒ごとに情報が流れ込んでくるので、たえず情報を伝え、現在地を伝え合わなければ、正しく物事が伝わらない時代だと思います。

 ノイジー・マイノリティに惑わされないために大事なことは、自分たちの軸を明確に持ち、常時自ら発信していくこと。
 騒がれてから慌てて対応するような、後手に回らないことが大事だと思います。
 むしろ、こちらから能動的にノイズを引き出すことで、ノイズ同士をぶつけて中和させたり、自分たちに有利なノイズを拡大させたりと、情報戦に展開していくことです。

 そうすることで、ただの「ノイズ」なのか、大事なのターゲットの声なのかの見極めもつくようになると思います。

 


 

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