量子力学のゆらぎと人間

 僕は大学で物理を専攻していたわけでもなんでもないので、学問としてのちゃんとした知識があるわけでは到底ありませんが、物理が好きだったので、量子力学というものを知った時は、なかなか衝撃的でした。

 高校レベルまでの物理は、古典力学です。いわゆる、ニュートン力学ですね。
 ニュートン力学では、あらゆる物理現象には原因があって、それが物理法則に基づいて必ず一定の結果へと帰結する、という考え方が基本で、僕もそれが不偏の大前提だと思っていました。

 アインシュタインの特殊相対性理論にしても、光が慣性系に依らず常に一定であるという「光速度不変の原理」は、慣性系を基本原理とするニュートン力学の相対性原理からすると衝撃的でしたが、それでも、一つの原理に基づいて常に一定の解が得られる、という基本構造に変わりはありません。

 しかし、量子力学では、一つの作用が必ずしも同じ結果にはならないという、「ゆらぎ」があるという
 それは、原子を構成する電子の運動は一定ではなく、確率的にしかその位置を特定できないからです。

 この考えは、それまでの物理学の観点からすると、違和感ありまくりです。

 たとえるなら、1と1を足したら2になるのは絶対的な原理のはずなのに、それが時によって2になったり3になったりしたのでは、おかしなことになります。
 アインシュタインも、「神はサイコロをふらない」という有名な言葉にあるように、常に一定の解にならない確率論的な量子力学には懐疑的だったそうです。

 この「サイコロ」というのは僕も曲者に感じていて、僕自身、数学の中で「確率」については、すごく曖昧な感じがして、そもそも好きではありませんでした。

 何故なら、通常の物理現象は、同一条件下であれば、常に同じ解になり、それは、自然界で現実に発生することとスムーズに合致します。もし、異なる解になったとしたら、そこには必ず何らかの別の原因が介在していると考えます。

 しかし、「確率」」で扱うものは、例えばサイコロをふったら六分の一の確率で一が出る、というものです。
 ただ、一が連続することもあれば、十回ふっても一度も出てない目が発生することがあるので、
実施回数を増やすことでその誤差は小さくなり、何百回・何千回とサイコロを振り、そうしてより精度の高い確率結果を求めていくのが統計学でもあります。

 でも、現実世界に生きている側からすれば、確率はどこまでいっても「確率」です。
 サイコロの目にしても、分子レベルで同一条件でふられたなら、常に出る目は同じになります。
 時によってばらつくのは、あくまで現実世界での結果論であり、もし、全く同じ高さから同じ角度・同じエネルギーでサイコロを投じたならば、同じ目が出るはずで、アインシュタインも、不規則な結果をもたらす物理現象というのは、あくまで人間の知恵がその原理・法則を発見出来ていないだけ、と考えていたように、物理の本質解明において「確率」という要素は僕も不純なように感じていました。

 もちろん、そうした複雑な現実世界だからこそ、確率によって物事を判断することの必要性が生まれ、たとば確かに複雑なデータを分析をする時に多変量解析なんかをすると良いデータが取れたりするので、実社会における実用性という点では有用性があり、確率や統計を否定しているわけではありません。
 ただ、1に2を足したら3になる、というような、明快な論理展開にはならないことが、あまり好きにはなれませんでした。

 しかしそこに量子力学は、古典力学とは根本的に考え方が違い、その確率的な「ゆらぎ」を前提としています。
 
確率嫌いの僕としては、最初は微妙なように感じましたが、その理論を知ると、不思議なことにすんなりと受け入れられました。

 もし、世の中が全て古典力学で説明がつくとするならば、行き着くところ「決定論」になってしまいます。
 
例えば、人間も所詮は原子という固有の粒子の集合体であり、その思考も、物理的に突き詰めると電気信号でしかないとします。
 そうなると、全ての現象・反応は、物理法則に基づいて全ての変化の道筋は決まっており、それを突き詰めると、宇宙が誕生した時から終わりまで、全ては物理法則通りに必然的にしか変化せず、そこに判断や偶然といった余地は一切介在し得ないことになります。

 その変化の条件やプロセスがあまりにも複雑過ぎるだけで、物理的真理としては、この世の何もかも、全ては物理現象のプロセスとして決まっている、と思ってしまったら、人間の努力もなにも、無意味のように感じてしまいます。

 しかし、量子力学では、原子核の周りを運動している電子には、素粒子でありながら波動の性質をもち、その軌道は一定の軌道を円運動するようなものではないため、その電子の状態によってに作用の結果が変わるというのです。
 
電子の状態は決まっておらず、例えるならば、電子が今は右にいる、今は左にいる、ではなく、右と左の両方の状態の性質を持ち、「観測した時点」ではじめて、その右なのか左なのかが確定します。
 その時々によって異なるその瞬間だけを取り出せば結果は決まりますが、
それは結果論であり、それを事前に特定しようとしても、確率的にしか特定できないのです。

 これは、すごい発見です。

 ただ、ひとつの物質が右と左に同時に存在するなんてのは古典物理学の観点からするとおかしな話で、アインシュタインにしても、そうした電子の状態については、人間の科学で解明されていないだけで、必ず状態の法則が隠されていると考えたようです。
 また、「観測」という要素も、現時点の科学技術上での観測方法の限界によるもので、有名な二重スリット実験でも、観測方法自体が電子に影響の動きに干渉してしまっているため、確定した答えは出ておらず、観測問題は依然として研究者の間でも意見の分かれる未解決の物理上の問題です。

 僕は、こうした変化する「状態」を認めることは、世の中の変化の可能性を認めることであり、人間の可能性の証明でもあるように感じたのです。
 観測問題について、人間の意識の波動といったスピリチュアル的な存在を肯定しているわけではなく、電子レベルまで突き詰めても分析不能なレベルでゆらいでいるように見える、という事実自体が、人間の可能性を信じるに十分だと思ったのです。
 
飛躍しすぎかも知れませんが、科学というものは、ともすると、理論的に解明すればするほど、納得性は高くとも味気ないものになりがちなところ、量子力学のように、「状態」によって様々な結果の違いを生まれるということが、もしかすると人間の思考や感情の本質がそこにあるのかも知れない…と思ったわけです。

 確かに、異なる状態が同時に存在するというのは物理的には矛盾した感じがしますが、そうした状態の存在とは、まさに「人間の心」そのものではないでしょうか。

 「今日のお昼、和食にしようか、中華にしようか、迷うなあ…」

 この状態の結果を決定づけるのは、何でしょうか??

 人間の心には、いくつもの異なる状態が同時に存在し、外部から観測される、すなわち何か・誰かからの働きかけによって、はじめて一つの行動、すなわち状態の結果になるわけですから、人間の心自体が、量子的な存在です。
 これも、厳格に突き詰めたら、その日の身体的な状態、細胞の動き、血液の状態、外気温、前に食事してからの消化状態etc...と、必ず有機的・物理的な構造と反応の結果なのかも知れませんが、それを完全に突き詰めることなんて現実的に不可能だと思うわけです。

 だから、もしこの世の中が、決定論で全て決まっていたとしても、あまりにも複雑すぎて予測は不可能なので、ただ可能性を信じればよい、ということなのです。
 たとえば気になる映画を観るとして、映画だから当然結末は決まっているわけですが、結末が決まっていたら面白くないわけではありません。わからない結末、予測不能なストーリーだからこそ面白いのです。
 もちろん映画も簡単にオチが予測できたらつまらなくなってしまいますが、人間の人生は絶対に予測不可能、しかもそれは解析不能なレベルで何が起こるか分らないのです。
 だから、面白い展開・結末を期待しない理由はないのです。

 もっとも、こんなことを同じように考えた人はゴマンといるようで、量子力学から人間の感情や精神世界に結びつけて考察した研究や本が沢山出ていました。

 科学と精神世界とのリンクは、古くはギリシア哲学の時代から考えられてきた営みですが、今の時代でもなお解明しきれず奥深いのが面白いです。

 

 


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