小澤征爾×サイトウキネンのブラームス

 日本のオケによるブラームスの交響曲1番と言えば、小澤征爾×サイトウキネンが素晴らしいと僕は思っています。

 「サイトウ・キネン・オーケストラ」は、普通のオーケストラではなく、毎年夏に桐朋学園のOBが集まって構成される特別編成のオーケストラですが、クラシックファンならその名前を知らない人はいないであろうオーケストラです。

 桐朋学園は、東京芸大と並ぶ日本の音大の双璧の一つです。
 サイトウキネンのサイトウとは、桐朋学園の創立メンバーであり、日本の「指揮」のメソッドを確立した斎藤秀雄先生のこと。
 このオーケストラは、斎藤門下の一人である
世界のマエストロ・小澤征爾氏と、同じく斎藤門下の大指揮者・秋山和慶氏の二人を発起人として結成されました。

 臨時編成のオケなのでメンバーは時によって違いますが、ヴァイオリンにはベルフィルでコンマスを務めた安永徹氏や、世界的ソリストである諏訪内晶子氏、ヴィオラには今井信子氏、フルートには工藤重典氏、オーボエに宮本文昭氏と、とんでもないメンバーが参加する化け物オケです。

 もちろん、超人を集めたら必ずしも名演になるかといったらそうでもないのがオーケストラではあります。
 しかしそれを、短期間で見事にまとめあげられるのが小澤征爾氏のすごいところだと思います。

 かつて小澤征爾氏は、指揮者としての自分の特技について、「どんなにオーケストラでもアンサンブルを統率する自信がある」と、何かの本に書いていたので、まさに本領発揮というところでしょうか。

 確かに小澤氏の指揮は、ハタで見ていてもわかりやすい。
 アンサンブルが揃っていれば良い演奏とは限りませんが、小澤氏の振り方には、なるほど斎藤メソッドの片鱗をところどころに感じます。
 そうした斎藤メソッドの振り方を「表現力に乏しい」と批判する人もいますが、斎藤メソッドによるオーケストラのコントロール技術と、芸術的表現を融合し、高いレベルで昇華させられるのが小澤氏なのでしょう。

 話をブラームスに戻すと、小澤×サイトウキネンでのブラ1の録音はいくつもありますが、いずれも好演が多いです。(全部聴いたわけではありませんが、1990年前後の録音の話です)

 特長は、とにかくエネルギッシュで情熱的!
 演奏全体としては雑で粗削りな部分も見受けられ、それを理由に低評価をする人も少なくありませんが、僕的には、その粗削りさも魅力の一つだと思っています。

 そもそも、日本人のブラームスは、全般的にぬる過ぎる!
 ブラ1にしても、優美で甘っちょろいブラームスの何と多いことか。
 僕はあれは本当のブラームスだと思いません。

 ブラームスは、古典を愛し、楽曲も古典っぽい曲作りを好んだため、古い作曲家と思われがちですが、1833年〜1897年と、二十世紀直前まで生きていた人です。
 なので、トスカニーニやニキシュ、フルトヴェングラーといった大指揮者が若い頃にはまだ生きてたわけですが、そうした指揮者の演奏するブラームスは、どれも骨っぽい演奏ばかりです。
 そこには時代背景や録音環境の問題もあると思いますが、少なくともナヨナヨした表現ではなかったことは確かです。

 ブラームズの全ての部分がそうだと言っているわけではありません。
 ブラームスの一番なら、一楽章は重々しく演奏すべきだし、二楽章はどこまでも豊かに、甘美なまでに演奏すべきだと思います。
 ですが、
第四楽章で、序盤のゆるやかな部分が終わり、アレグロ・ノン・トロッポになって第一主題が快活に歌われる(いわゆる歓喜の歌のパクリオマージュ部分)ところなんかは、フルトヴェングラーら昔のタイプの指揮者は、テンポはまさに「速く・しかし慌ただしくない程度」の速さで、旋律の歌い方ははっきりとしたアーティキュレーションで、それこそベートーヴェンの第九のように朗々と歌い、展開部では交響曲五番のようにリズミカルに奏します。

 ですが、日本のオケでは、そうした部分までも、アレグロというよりはむしろモデラート気味に、ゆったりとしたテンポで、ダラーっと、しまりのないレガートで演奏することがめちゃくちゃ多い。
 僕はこれが、ものすごく気持ち悪く感じるのです。

 もちろん旧世代の指揮者でも、クレンペラーのように遅めのテンポで演奏する指揮者もいますが、テンポが遅くとも、クレンペラーのブラームスは全然ナヨナヨしておらず、むしろ堂々としています。(何をやってもテンポが遅めなのはクレンペラーの特徴です)

 だいいち、ブラームスが憧れ、目標とした作曲家はベートーヴェンです。
 ベートーヴェンをナヨナヨした音楽と思う人はいないでしょう。
 その時点で、答えは明確だと思うんですよね。

 しかしそこに、優美なブラームスの流れを作った戦犯(?)の一人が、カラヤンだと思います。
 カラヤンは、そうした戦前派の旧世代ブラームスの演奏法を否定し、ブラームスは本来もっと優美な音楽だと主張しました。
 戦前派のゴリゴリしたブラームスの演奏を、むしろ間違った解釈だと言ったのです。

 そこあたりから、甘っちょろいブラームスの演奏が大手を振ってはびこるようになりました。
 その流れの影響を受けてか、日本のオケのブラームス演奏は、どの指揮者もどのオケも軟弱な演奏の多いこと……
 ブラームスという音楽はそういうもの、とばかりに。

 といって、僕としてはカラヤンの主張がおかしいとは思っていません。
 確かにカラヤンはブラームスの表現法に優美さを大きく取り入れましたが、だからといって、決して甘っちょろい演奏ではなく、十分過ぎるほどに彫りが深いからです。
 あくまで旧世代に対してそう言ったまでで、決して、ナヨナヨした演奏をしたわけではない。
 (もっとも、後期のカラヤンは、世間で「カラヤン・レガート」と称されるくらいゴツゴツしない音作りをしましたが、話が広がるのでここでは触れません)

 カラヤンをはじめとする戦後の指揮者達によって、ブラームスは新しい魅力を引き出されたと言えるでしょう。

 ですが、日本のオケのブラームスでそれをやられると、たいがい聴けたもんじゃない。
 
ただでさえ貧弱で、しかもカドのない日本言語からくるのっぺりとした音のタッチの日本のオケで、ブラームスを優美に弾かれたら、それはただのフヌケた演奏にしか聴こえないのです。

 しかし!
 そこに、サイトウキネンのブラームスだけは、日本のオケとは思えない骨のある音を聴かせてくれるのです。
 
ベートーヴェンやブラームスを日本のオケで聴きたいとは思ったことがなかったのですが、サイトウキネンのブラームスだけは違いました。

 熱っぽく、武骨で、これぞベートーヴェンを目指したブラームス、という感じが出ています。

 小澤氏自体は、必ずしも情熱的な表現をする指揮者ではないのですが、サイトウキネンとの組み合わせはすごく良いですね。
 ある意味、小澤氏らしからぬ感じもあり、魂のこもった演奏が多い。

 ライブ録音が多しい、レコーディングでも、その時に集まり、その都度メンバーも変わるので、一期一会的な感覚がそうさせてるのかも知れませんね。

 とはいえ、僕のようにブラームスの本質を骨っぽい音楽だと考える日本人は、もしかすると少数なのかも知れません。
 学生時代、このブラームス談義をオケ仲間にすると、ブラームスは優美な曲というイメージを持っている人の方が多かったように思います。
 そんな人にフルトヴェングラーのブラ1を聴かせたりすると、豪快で切り込むような弦の音に、「ブラームスらしくない」とよく言われました。

 もっとも、ブラームスを荒々しい音楽だと言ってるわけではありません。
 甘っちょろい演奏に対比してそういう言い方をしているだけで、ブラームス全般は、美しい部類の系統だとは思っています。
 ただ、ブラームスの親友だったヴァイオリンの名手・ヨーゼフ・ヨアヒムの録音を聴くと、やはり当時は、色々な意味で現代とは全く演奏法が違っていたことがわかります。
 ポルタメントの多用は当時の風潮でしょうけれど、ビブラートをあまりかけないのがすごく特徴的です。
 今日のオケで、ビブラートをかけないストリングセクションの演奏を聴く機会は皆無に近いですが、弦のサウンドはかなりすっきりします。(ピッチがシビアになるので別の意味では乱れやすくなりますが)

 僕は学生時代、ベルリンフィルのヴァイオリン奏者の公開レッスンを見学させてもらったことがありますが、その中でビブラートのかけかたの説明があり、モーツアルトのような古典曲では軽いビブラートで、ラフマニノフのようなロマン派の楽曲では豊かで幅のあるビブラートをかけるよう説明していました。

 ブラームスは年代的には後期ロマン派ですが、作曲の主義・スタイルは擬古典派です。
 
リストやワーグナーといった陶酔型のロマン的潮流に対して、あくまで古典回帰を主張したブラームスと、その主義の同調者であるヨアヒムの演奏スタイルは、注目に値します。

 おそらくブラームスの目指した音楽スタイルは、同世代の音楽家の多くがそうであった、耽美的なロマンティシズムには目を背け、古典時代のように緩急明確で、歌う所は歌うが、快活な所は快活に奏する、明快な音楽を目指していたのではないでしょうか。

 そのあたりの時代背景を含めて、腑に落ちる演奏は日本のオケではなかなか聴けませんが、小澤征爾氏×サイトウキネンのブラームスは、なかなか素晴らしいと思う次第です。
 

 


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