宇宙の果てについて考えると気が遠くなります。
宇宙の果て
でも、果てしもない大宇宙のことを考えた時の、無限のごとく広がっていくような感覚は、日々の現実の煩わしさがちっぽけなことのように思わせられ、それが何とも言えない安らぎのような感覚をもたらし、不思議なまでに魅力的でもあります。僕は子供の頃から星を観るのが好きで、将来は天文物理学者になりたいと思っていました。
小学校一年生の時、夏休みの宿題にあった理科の自由研究で、宇宙の果てについて調べました。
家にあった宇宙の本を読んで、ハッブルの法則というものを知り、宇宙が広がっていることもそこで知りました。その時自分なりに出した結論は、宇宙が広がっているということは、広がる先に前の状態・空間が存在するということであり、それはすなわち広がりの先端の先には果てがあるということになり、つまりは宇宙そのものは有限であるということ。しかしその端の部分では、次元と空間がねじれて循環構造のようになっているため、決して果てに辿り着くことは出来ない、つまり、「宇宙は有限であるが無限である」というもので、それを発表したところ、クラスのみんなも先生もポカーンとなってしまったのを、今でもよく覚えています。
中学の頃までは数学が得意で、高校でも物理が得意だったのですが、僕は高校で勉強をあまりにもサボり過ぎたため、結局その道に進むことは出来ませんでしたが、今でも宇宙の話は大好きです。
宇宙の広さは、本当に、想像を絶するものですね。
我々の地球のある太陽系は、天の川銀河の中にあるわけですが、この天の川銀河だけでも直径は10万光年ほどあるそうで、もはやそれだけでも果てしなく感じるほどの広さです。
でも、そんな天の川銀河も、大宇宙全体から見れば、ごくごく矮小な存在であり、天の川銀河自体も、局部銀河群と名付けられた、50個ほどの銀河で構成される銀河群の一つに過ぎず、そんな銀河群や銀河団もまた、超銀河団を構成する一部であり、その超銀河団も、ラニアケア超銀河団とか、シャプレー超銀河団とか、数多く存在しているわけで、もう途方もない話ですが、何がすごいって、それを現在の地球の科学で観測されていることがすごいと思います。子供の頃、そうした宇宙の本の写真を見ていて、いつも綺麗だなあと思っていました。
写真にすると、銀河は渦巻きだったりしますが、銀河団なんかは、そこに集まっているそれぞれの一つの銀河が、まるで一つの星のようです。
現在の科学でそれが銀河の集まりだとわかりましたが、まだそれがわかっていない頃は、ただの星の集まりだと思われていたかも知れません。
でも、その星のような一つひとつが、実は巨大な星の集まりである銀河だなんて、なんとも壮大な話ではないでしょうか。
銀河団エイベル銀河団の写真を見ると、そこにある星のような一つひとつが、我々の住む地球のある太陽系よりもずっと大きな「銀河」であり、それがこんなにも、それも広大な距離を伴って点在して銀河団を構成し、しかもこうした銀河団も、数多くある銀河団の一つに過ぎず、それらがさらに集まった超銀河団があり、しかもその超銀河団もまたいくつも存在する…
ぎょしゃ座の銀河群、MACS0717なんて、もはやどないなっとんねん??
というレベル。これだけ銀河だらけの、この画像ひとコマですら宇宙のたった一部って、想像つきますか??
どんだけ宇宙広いねん。これだけ宇宙が広ければ、流石にどこかに生命がいて、中には文明を築いている星くらいありそうですが、逆にこれだけ広いからこそ、お互いに遭遇する可能性なんて奇跡ですら有り得ないレベルに感じます。
でも、お互いに接触できないだけで、きっと、確かに、そこに生命がいて、我々と同じように考えたり、人生があり、地球とは全く違うドラマと歴史があるんだろうなあ、と思うと、不思議な感覚になります。
ロマン溢れる話ですね。
宇宙の膨張についてもいまだに様々な仮説がなされていることですが、やはり広がるからには、広がるための領域が存在すると考えられ、その領域とは何ぞや?というのが常につきまといます。
それに、宇宙がビッグバンによって始まったとするならば、最初の状態がエネルギーの総量であり、膨張によってその密度は下がるわけで、宇宙は膨張と共にどんどん冷却されるとも考えられているのですが、そもそもこの無限の如く広大な宇宙空間の存在が、始まりはただ一点の塊に凝縮されていた…なんてのも、その状態を想像すると、とんでもない話ですね。ですが、この宇宙の膨張自体は、観測上おそらく間違いないのでしょうけれど、観測出来ていないだけで、もしかするとその果ての向こうにも、全く別の宇宙が存在するのかも知れません。
もはや、全くわかりません。
ですが、不思議に感じるのは、宇宙の果て…と呼んでよいかどうかわからないけれど、その宇宙の広がりの端の部分は、どのような状態にせよ、そこに存在しているということです。
現実的に人間がそこに辿り着く日は永遠に来ないかも知れませんが、その端の部分は、決して空想上の産物ではなく、何らかの形で、今もそこに存在しているということです。幽霊やUFOの話なら、実在するかどうか自体も定かではありませんが、宇宙の端は、現実に存在し、その場所にさえ行ければ確実に確認出来るわけですから、何とも歯がゆく感じます。
もしかすると、宇宙というのは物理的な存在ですが、こうした宇宙含め、全ての物質が存在出来るための空間そのものは、宇宙の広がりとは関係なく、「この世」そのものとして、無条件に存在するのかも知れません。
それは、空間的なものかも知れないし、もしかしたら、空間というよりは、広がるまでは何も存在しない「無」であり、しかしそれは壁ではなく、人間の手でもそこに触れたら広げることが出来るようなものかも知れません。宇宙が誕生する前は、その「無」の状態から始まり、その「無」の状態には時間も空間も、そうした概念そのものがない状態だったという説があり、そこに宇宙が誕生した時は、今のような物理概念とは異なり、11次元もある状態から今の3次元へと変化していったという説もあります。
しかし、本当に「無」であれば、そこから宇宙が発生した動機がよくわからないので、もうどうにも想像しようがありません。
しかし、一つの塊から、様々な元素が誕生していったというのも、謎ですね。
11次元から現在の3次元になったという説自体もそうですが、物理法則のないところから、物理法則自体が生まれ、作られていった、という考え方は、非常に興味深いです。もしかしたら、今もなお、変化しているのかも知れません。人間の尺度では感知できないだけで…。
そうなると、今我々が感じている物理や時間感覚自体も、不変のものではなく、変わりうるものなのかも知れませんね。考えたところで、日々の暮らしには何の影響もないわけですが、宇宙の話には尽きないロマンがあります。