期待してたのに残念過ぎた「天気の子」

 「君の名は」が面白かったので、それなりに期待して観ました。
 しかし結果、相当残念な内容で、それもあまりの痛々しさに、最初は途中で観るのをやめてしまったほど……

 ですが、色々なレビュアーの感想を読み、色々な角度から、監督の思想、作品内のディティールなどを総合して、

 「天気の子はDQNファンタジー」

 という結論に至りました。

 観ていて最初は、モテない男の幼稚な妄想漫画くらいに感じました。
 ただ、そうした要素は前作の「君の名は」も同じ。

 浅すぎる人間関係、ご都合主義過ぎる展開、雑すぎるギミックなど。

 とはいえ、「君の名は」の時は、ストーリーの幼稚さは割り切って、単純に作品全体が醸し出す世界観と映像美を楽しむものだと思って見れました。

 しかし「天気の子」では、そういうつもりで見ていても、ストーリーの雑さに磨きがかかり過ぎていて、何よりも主人公二人がクズ過ぎて、それがあまりにも引っ掛かってしまい、映像美と世界観を楽しむレベルに到達できなかったのです。

 とはいえ、これだけ人気があるからには理由があるはずだと思い、何とか楽しめる方法はないものかと、映画内では言及されていなかった原作の小説にある人物設定の背景などを補完したあらためて考えると、「天気の子」は、ストーリーにある意味一貫して構築された筋があることがわかりました。

 それが何かを簡単に言うと、
 「モラルの低い底辺層のファンタジー」
 です。

(以下、ネタばれあり)

 ネットでよくみかける低評価ポイントは、行動原理が謎すぎるといったストーリーへの違和感や、実写を利用したリアルな映像と非現実すぎるご都合主義の展開とのギャップによる違和感などがよく指摘されていましたが、個人的には「新海誠だから」という理由でまあそこは許せます。

 最後に東京を救うことより愛する人を選ぶという選択も、良し悪しはおいといて、作品のオチとしてはわかる部分ではある。

 しかし、一番の違和感はそこではなく、

 "純朴で真面目そうな高校男子と、無垢で清廉な少女の純愛ドラマのようなビジュアル・設定"

 になっていることです。

 「新海誠」の作品において、ビジュアルと人物設定が醸し出す世界感は最重要な要素なのに、純朴清廉なキャラ設定とDQN行動とのギャップがどうしてもかみあわないのです。

 そこで、主人公の二人を、自己中で頭の悪いDQN高校生と、おバカでビッチなヤンキー女子中学生、と考えると、ストーリー全てにすんなりと合点がいく。
 もっとも、合点がいったところで共感できるかどうかは別問題ですが笑

 具体的に説明してみましょう。
 まず、主人公の森嶋帆高。
 こいつのことを、純朴で真面目な少年だと思い込んで観てはいけません。
 父親に殴られて家出をした高校一年生という設定ですが、これをDVな親から逃げ出した、憐れな少年だと思ってしまうと世界観を見誤ります。

 まずこの物語は、帆高が高校一年生の6月という舞台背景からして、持っている所持金やスマホなどは、全て親から与えられているということが前提としてあります。
 それも、離島から東京まで家出して、ネカフェ暮らしができるほど十分な小遣を貰っており、わずか数日の間にスマホでネットビジネスを立ち上げられる知識があったことから、実家ではかなり充実したネット環境を与えられていたことも推察されます。

 つまり、それだけ何不自由なく育てられながらも、親が手をあげなければならないほど、帆高は反抗的で言うことを聞かないDQN高校生、ということなのです。

 そしてヒロインの天野陽菜。
 この女子中学生を、清純無垢で、親の早世によって不幸な境遇に追い込まれた可哀想な少女、と思ってしまうと世界観を見誤ります。
 そうではなく、未成年で保護者を失った不幸な境遇にありながら、親族から周囲の友人・知人まで、誰一人手を差し伸べて助けてあげようと思ってもらえないほど、あらゆる人間関係と険悪な状態にあり、極めつけは、ファーストフード店で真面目に働くなんてバカバカしくて、もっと楽に大金を稼ぎたいと、風俗の仕事に手を出そうとするクソビッチなのです。
 血を分けた弟が小学生にして何股をかけるスケこましなことからも、そうした陽菜の人間性を推し量れる伏線にもなっています。

 そう考えると、不自然とも思えるストーリーの全てに筋が通るのです。

 まず、何のアテもなく無計画に街に飛び出す帆高の行動は、まさに頭の悪いDQN学生そのもの。
 拾った拳銃をお守りだと言って持ち歩き、人に向けて撃てるという真性DQN。

 百歩譲って、初めて引き金を引いた時は本物だと思っていなかったとしても、本物であることを知ってからもそれを手放すことなく持ち歩き、いったんは手放して隠しますが、再び拾いに行って、何の罪もない人間に銃口を向けるという、殺人未遂もいとわない凶悪なレベルのDQNです。

 そして陽菜も、中学生にして性経験も豊富で抵抗がないDQNヤンキーだからこそ、自ら進んでお水の仕事をしようと考え、他人に銃をぶっ放すような凶悪な帆高に対しても何の恐怖も感じず、初対面でも自分の部屋に平気で連れこめるのでしょう。

 ファーストフード店でいきなり帆高にバーガーを渡したのも、自分と同じDQNの匂いを感じたからこそ、仲間意識を感じたと考えれば自然だ。
 そもそも店の商品を勝手に与える自体、かなりDQNな行動だ。

 天気の仕事で人が喜ぶ姿を見て、陽菜が新鮮な充実感を感じていたのも、これまで他人を喜ばせる行動とかをとったことがないからこそ新鮮に感じのだろうと思います。

 そして、ストーリー進行ではあたかも100年の純愛のように描かれる二人であるが、実際は出会ってからわずか2ヶ月程度の話です。
 付き合って2ヶ月ではなく、出会って2ヶ月。それも、まだ付き合ってすらいない。

 そして、出会って2ヶ月、それも付き合ってすらいない女ひとりのために東京を沈めることができる帆高。
 こうした行動原理は、「自分さえ良ければオッケー」というDQNカップルであれば、数々の違法行為も自然だし、ただ職務を遂行してるだけの警察に平気で銃を向け、あまつさえ恩人にも銃を向けるという帆高のクズっぷりにも合点がいく。

 最後に世界がどうなろうとも二人がハッピーならそれでいい、という自己中な発想ができるのも道理であり、すべてのストーリーが矛盾なく世界観も成り立つ、というわけです。

 世界がどうなろうと愛する人を選ぶ、という感情は理解できるし、むしろそこはファンタジー作品だからこそ、それを肯定した作品があっていいとは思う。
 特に思春期の頃の恋愛ってそう思うし、自分の好きな人のことが人生の全てに思えたり、その子を救うためなら法律だろうが世界だろうがどうでもいい!と突っ走りたくなる感情も理解できる。

 大人感情で考えても、たとえば自分の息子が特攻すれば戦争に勝てると言われたとしても、自分の息子の命が犠牲になるくらいなら戦争に負けたっていい、と考える親がいてもおかしくない。

こうした、世界を救うか愛する人を選ぶかを天秤にかける話は昔からいくらでもあり、最近ではそうした話を「セカイ系」と言うらしく、「天気の子」もそれに属するといえる。

 ですが、そこで世界より愛する人を優先するという選択肢をとるならば、"世界がすでに歪んでいる、そこで起きている戦争自体が人間の狂気である"といった条件設定と、何よりその二人が、人として共感できる人間性を持ち、応援したくなる存在であることが不可欠です。

 滅ぶべき社会が、何ら歪んだ存在でなく、むしろ主人公達を優しく育んできた社会であるにもかかわらず、主人公がそれを滅ぼして愛する人を選ぶ、という選択をとってしまったら、その主人公がまっとうな常識人であれば、ちょっとどころではない罪悪感に苛まれ、彼女との幸せをかみしめるなんて結末にはできず、物語が終われない。

 だからこそ「天気の子」では、主人公の帆高を、銃をぶっぱなして人を殺すことも辞さないというレベルのDQN設定にしたのは、理にかなった設定だったともいえる。

 だがしかし、この作品内では、主人公とヒロインのビジュアルを、純朴で誠実そうな少年少女に描かれている。
 周囲の登場人物の関わり方からかもしだされる二人のキャラ設定も、非常にまじめで清廉な少年少女のような印象を作りだしています。
 これは完全に新海誠の趣味であり、商業的な作戦でもあろう。

 しかし、二人のやってることは超DQN。
 だから多くの視聴者に違和感を与えてしまうのです。

 ですが、そこで想像してみてください。
 もし、帆高が金髪で鼻ピアスをしたDQNヤンキー高校生で、陽菜はケバい化粧で胸や腕にタトゥーを入れたアバズレ女子のビジュアルだったら…??

 あら不思議、この二人の行動原理がすべて自然に感じられると思います。

 そこまで考察してこの作品を解釈すれば、理解することはできたけれども、そもそも僕は親のスネをかじってるくせにそれを理解していない帆高のようなDQNは嫌いだし、真面目に働くのはバカらしいといって風俗で稼ごうとする陽菜のようなビッチも嫌いなので、この作品を好きになることはないでしょう。

 しかしそれでもなお、この作品を「残念映画」とする最大のポイントは、設定の説明が不足すぎること。

 とにかく、主要人物の人物背景の説明描写がなさすぎる。
 これらおそらく、あえて様々な要素を明確しないことで生まれる世界観を重視した宮崎駿や、謎を作ることで観る側に考察させ、ストーリーに深みを持たせる庵野秀明らの影響だろうが、小説ではある程度説明されている時点で、映画版は完成度が低いことを示しています。

 これってもはや小説を買わせるための作戦か?とすら思われるし、とにかく「天気の子」は説明不足な状況を不必要なまでに作りすぎで、想像力や知能の高い人ほど、それが引っ掛かって本編に集中できないという弊害を生んでいると思う。

 ただ、そもそも新海誠監督にはライフワーク的なテーマとして、「理不尽な大人と純粋な子供との対立」というのがあって、「狂った世界なんて滅んでいい=理不尽な大人の世界は正義じゃない」という前提があるようです。

 それを知っているファンなら「天気の子」も都合よく解釈して観れるのかも知れませんが、作品内である程度わかるように条件付けしないことには、作品単体としては問題ありすぎです。

 むしろ、「天気の子」の作品内の描写では、帆高・陽菜ともに、大人から理不尽な扱いを受けている描写は皆無といって良く、帆高は親に与えられた小遣とスマホをよりどころにし、赤の他人の大人の居候として世話になり、陽菜らも天気の仕事で出会う大人達はみな優しく親切な大人ばかりで、「理不尽な大人の世界」どころか、「優しい大人」ばかりの世界です。

 世界を守るか愛する人を選ぶかの二択に迫られる「セカイ系」において、愛する人を選択する結末とする場合は、世界を否定するだけの前提を配置しなければ納得感が得られません。

 しかし、「天気の子」の中で描かれる大人の行動は、至極真っ当で常識的です。
 帆高達にとって不利益な大人である警察はビジュアルとして悪党面に描かれていますが、作品内での警察の行動はしごくまっとうです。
 悪いビジュアルにしてるから悪党、というのは条件付けとして無理ありすぎです。

 何の条件付けもされないまま、わずか数秒の「世界はもともと狂っている」「東京はもともと海だった」という言葉だけで大人の世界を否定されても何の説得力もありません。

 「大人の世界は薄汚れて狂っている」ということを、短くとも作品序盤で表現されて前提づけされていれば少しはわかりますが、しかしそれでも、次々と登場する大人は優しい人ばかりなので、この作品を普通に観ていると、「優しい大人たちが手を差し伸べてるのに、それを振り払い、法律なんぞお構いなしで、恩人にすら銃を向けるような、モラル崩壊した我が儘勝手なガキの暴走」という、ただひたすら陳腐なドラマにしか感じられないわけです。

 この作品を理解するには、新海誠という監督が、そもそもどういったポリシーとスタンスで作品を作り、新海作品における「大人の世界」がとは、どういう前提の存在なのかを知っていなければならず、それで脳内補完しなければ世界観を理解できるように作られていないという時点で、「天気の子」は新海誠信者向けに作られただけの、不完全な作品だと言わざるを得ません。

 そういう点で、特に教養レベルの高い層にほどウケが悪いだろうと思うので、残念映画とさせていただきました。

 

 


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