寺田ヒロオさん

 この名前を知っている人は、かなりの漫画通か、藤子不二雄ファンだと思います。
 1950年代〜60年代にかけて人気を博した漫画家です。

 この人は、晩年に筆を折ったばかりか、完全に世俗との関係を絶って隠遁生活に入ってしまったため、知る人ぞ知る存在になってしまいましたが、日本の漫画史上、屈指に数えられる真のアーティストであり、日本の漫画史の発展に貢献した大恩人だと思います。

 寺田さんは、若い頃「トキワ荘」というアパートに住んでいました。
 「トキワ荘」は、漫画の神様と言われる手塚治虫さんをはじめ、藤子不二雄(A・F)さん、石ノ森章太郎さんといった、日本の漫画史上屈指の大御所が、新人時代に住んでいたアパートで、「漫画家の聖地」とも言われるアパートです。

 トキワ荘に最初に住みだした漫画家は手塚治虫さんで、手塚さんが入居した少し後、その向かいの部屋に寺田さんは入居されました。
 寺田さんは手塚さんのファンだったわけではなく、単に連載していた雑誌社の紹介で入居することになったそうですが、ある日、手塚さんの大ファンである藤子不二雄Aさんが、富山から手塚さんを訪ねてトキワ荘にやってきました。

 しかし、その時の手塚さんは、あまりにも忙しすぎて相手を出来なかったため、藤子Aさんに寺田さんを紹介したのですが、そこで藤子Aさんは寺田さんと意気投合し、一週間も寺田さんの部屋に泊まり込んだそうです。

 その後、藤子Aさんは藤子Fさんと共に上京し、手塚さんの紹介で、手塚さんと入れ替わりでトキワ荘に入居することになりました。
 そして、当時一緒に漫画を掲載していた『漫画少年』という雑誌のつながりで、寺田さんは藤子さんや石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、鈴木伸一さん、つのだじろうさんといった漫画家たちに呼びかけて、「新漫画党」という漫画グループを結成し、トキワ荘に集結しました。

 今となっては錚々たる名前ですが、当時はみな新人漫画家で、寺田さんはその中で一番年長者だったこともあって、新漫画党の党首として、メンバーたちをまとめていたのです。
 もっとも、漫画
グループといっても、特に何か大きなことをやっているわけでもなく、仲良しグループのようなものだったと、藤子AさんやFさんは「まんが道」や自伝などで語られています、

 ですが、まだ無名時代のトキワ荘メンバーは、毎日の食生活も満足にいかず、家賃も払えないことも多々あったそうですが、そのたびに寺田さんが家賃を肩代わりしたので、トキワ荘グループの間では寺田さんのことを「寺田銀行」などと呼んでいたそうです。
 まだ「ドラえもん」や「忍者ハットリ君」といったヒット作が生まれるずっと前だった当時の藤子さんも、仕事がなくて家賃が払えず、寺田さんに借金をしていたそうで、赤塚さんに至っては、漫画家を諦めようと思って挨拶に行ったら、「このお金がなくなるまで頑張れ」といって5万円もの大金(当時で半年以上暮らせる金額)を現金で渡され、それがなければ間違いなく漫画家を辞めていたと後年語っています。石ノ森さんは売れっ子だったので貧乏だったわけではないそうですが、あまりにも金遣いが荒いために家賃が払えず、寺田さんに借りていたそうです。

 そんな寺田さんは、トキワ荘メンバーの「優しい兄貴」として慕われ、中でも藤子両名や赤塚さんは寺田さんのことを大恩人だと語られていますが、寺田さんの呼びかけが無ければ、トキワ荘グループ自体が生まれず、もしかすると藤子さんも赤塚さんも、漫画家を挫折していたかも知れません。

 もしそうなっていたら、「ドラえもん」も「笑うせぇるすまん」も「おそ松くん」も生まれなかったことになりますが、日本の漫画史において、いや日本文化において、そんなことはとんでもない話です。

 もっとも、それらは寺田さんにとっては間接的なことなので、寺田さん本人の漫画はどうだったのかというと、素晴らしい漫画を描かれています。

 寺田さんの代表作は、「背番号0」「スポーツマン金太郎」、そしてドラマ化もされた「暗闇五段」などがありますが、特に有名なのが「スポーツマン金太郎」です。

 「背番号0」も「スポーツマン金太郎」も野球漫画ですが、これは寺田さん自身が元々野球少年で、その腕も高く、プロの野球選手になるか迷ったくらいだったからだそうです。
 寺田さんのことはよく「野球漫画の元祖」と言われることがありますが、厳密に言うと元祖ではなく、井上一雄さん(1914〜1949)の「バット君」が、日本の漫画史における最初の野球漫画と言われ、寺田さん自身、この「バット君」に憧れて漫画の道に進んだそうです。

 「スポーツマン金太郎」は、日本初の週刊漫画雑誌として創刊された「少年サンデー」の創刊号から連載スタートした漫画でした。
 野球漫画としては元祖ではありませんが、本格的な野球の試合を漫画上で展開し、放送席の実況を加えたり、主人公が実在のプロ野球球団に入団し、実在の野球選手と一緒にプレイするといった数々の内容こそが日本の漫画史上初のことであり、サンデーの看板作家として大人気となり、連載翌年には第一回講談社漫画三賞を受賞しています。

 僕も読みましたが、本当に楽しい漫画です。
 最初は、お伽の世界と現実世界が融合した、独特の世界観からはじまり、金太郎と桃太郎というライバルが、それぞれプロ野球の選手となってお互い競い合うのですが、それも、勝ったり負けたり、本当に親しみやすく、読んでいて本当に清々しくなる漫画なのです。
 その展開や表現も、今でこそ古くさく感じますが、決してチャチではなく、その後のスポーツ漫画に多大な影響を与えただろうことを感じさせる、むしろ本格的なディティールに満ちた作品でした。

 …ですが、時代は、劇画の隆盛などもあり、漫画はより刺激に満ちた内容を求められるようになっていきました。
 しかし、寺田さんは、そうした漫画の風潮に対して、断固として抵抗していたそうです。

 寺田さんにとって「漫画」は、子供にとって、清く正しい、あるべき姿を見せ、導いていくことが役割であり、そうでなければならない、という強い信念がありました。
 このことについては、様々な寺田さんに関する評伝などでも語られていますが、この信念を最も端的に表しているのが、寺田さんが理想の漫画として憧れた「バット君」の連載誌であり、寺田さん自身も執筆者として愛してやまなかった『漫画少年』の「創刊のことば」にあるように思います。

漫画は子供の心を明るくする
漫画は子供の心を楽しくする
だから子供は何より漫画が好きだ
「漫画少年」は、子供の心を明るく楽しくする本である
「漫画少年」には、子供の心を清く正しくそだてる小説と讀物がある
どれもこれも傑作ばかり 
日本の子供たちよ「漫画少年」を讀んで清く明るく正しく伸びよ!!

 寺田さんは、晩年に『漫画少年史』という本を自費出版で刊行されるほど、『漫画少年』に対しての強い思い入れがありました。
 しかし、『漫画少年』自体が、1955年(昭和三十年)には廃刊となり、新しい漫画の時代になっていました。

 寺田さん自身、その志の継承者として描き続け、1960年代になっても人気を得ていましたが、どんどん過激な描写・戦いなどのバイオレンスな表現が増えていく漫画界の潮流に対して反発し、雑誌社にたびたび抗議文を送り付け、ついには、「そんな漫画を掲載する雑誌に自分の漫画を一緒には載せられない」と言って、人気絶頂にありながら、自ら降板してしまいました。

 そして、どんどん寡作となっていき、1969年、三十八歳にして、漫画を描くこと自体を辞めてしまったのです。

 そうした寺田さんのことを、週刊連載のペースについていけなかったとか、時代の変化に対応できなかった、と評する人もいるようですが、僕はそうは思いません。
 確かに、漫画に限らず、文化というものは時代と共に変化するものだし、それに対応していくことも必要な才能であり技量とも言えるでしょう。
 寺田さんが雑誌社に抗議したのも、自分を否定できずに周りのせいにしていた、という見方をする人がいてもおかしくありません。

 ですが、寺田さんの漫画を読めば、そんなレベルではないことがわかります。
 特に、「背番号0」や「暗闇五段」を読んでいて思うのは、登場人物やエピソードの、どこまでも徹底した「良い人・良い話」作りです。
 出てくる人物、話、どれをとっても、本当にいい人ばかりなのです。悪役ですら、心からは憎めず、しかも最後には必ず改心する。
 「性善説」といっても良いくらいに徹底した描き方は、明らかに、信念に基づく意図的なものです。

 これはまさに、『漫画少年』の創刊のことばにある、「子供のこころを清く正しくそだてる」を、実現しようとしていたに違いありません。

 漫画に限らず、映画でも小説でも、過激な表現は沢山出てきます。
 これは時代というより、戦前よりもっと古い作品にだって出てきます。
 そういう意味でも、後発文化である漫画が、映画や小説などと同じように、より表現の幅が広がり、激しい内容になったとしても、それは当然の進化であり、実際に、手塚治虫さんにしろ、藤子不二雄さんにしろ、映画などを目標にし、むしろそれを超える表現を模索するくらいの意識があったと思います。

 そういう意味では、寺田さんが漫画の進化に対応できなかったという見方が出来なくもないのですが、寺田さんは、対応出来る・出来ない以前に、そもそも、漫画に求めていた価値観そのものが異なっていたのでしょう。

 手塚さんや、藤子さんは、映画のようなドラマや夢物語を、「漫画」というメディアで表現しようとした「漫画家」だった。
 ですが、寺田さんは、あくまで子供たちを「清く正しく育てる」ことこそに目的があり、そのための漫画を描く「表現者」だった。

 だから、時代の変化に対応出来ないのではなく、する意味がなかったのではないでしょうか。
 映画のようなドラマや壮大なSFに憧れていたわけでもなく、主人公が体を鍛えて、より強い敵をぶちのめす展開で、子供たちハラハラドキドキさせたいわけでもなかった。
 藤子さんや石ノ森さんら、ほとんどのトキワ荘メンバーが手塚治虫信奉者だったのに対し、寺田さんだけ手塚派ではなく、あくまで「バット君」の井上一雄派だったことからも、そもそもの路線の違いが明確です。(なお、井上一雄さんは1949年に急逝されています)

 「スポーツマン金太郎」や「暗闇五段」にも、ライバルとの闘いがあり、勝ち負けがありますが、そこには必ず友情や、正義などのドラマや関わりがあり、物語としてはむしろそれこそが本質として描かれていました。
 「野球」や「柔道」は、あくまで舞台設定に過ぎず、寺田さんが描いていたのは、それにまつわる生活ドラマや人間ドラマであり、漫画を読む子供たちに、そこから清く正しい「人のあり方」を伝え、そうあることに感動を覚えて欲しい、そんな願いをもって、それこそが漫画家の使命だと信じていたのでしょう。

 だから、ただ表面的な刺激で娯楽的に楽しませるだけの漫画に対して、「中身のない漫画」と断じ、そうした漫画ばかりが人気が出ることに我慢がならなかったのでしょう。

 ただ、今の時代を生きる僕にとっては、寺田さんが否定する漫画も、漫画というメディアの一つのあり方として、決しておかしなものとは思わないし、娯楽としての存在意義は十分にあると思います。

 でも、寺田さんの信念も、決して古くさいものではなく、今も昔も、そしてこれからも、絶対に変わらない、むしろ必要なものだと思います。

 例えば、バトル系や格闘漫画などは、小学生や中学生なんかは、すぐ影響されて学校で真似したりします。
 それ自体は悪いことではありませんが、良くも悪くも、漫画というメディアが、子供心に強い影響を与える存在である以上、世の中の全ての漫画からモラルがなくなってしまったら、何かがおかしくなってしまうかも知れません。
 どこかに、「良い話」「人としてあるべき姿」を描き、そうしたことにも影響されていかなければ、もしかすると日本の子供の倫理形成に問題が生じるのではないかと思います。

 極端すぎる話かも知れませんが、寺田さんも、きっと、そんな危機感を持っていたのかも知れません。

 ただ、少し残念に思うのは、全否定する必要はなかったとのでは…?と思うのです。
 寺田さんのような漫画は、絶対に必要なものだけど、娯楽としての漫画だって、全て排除する必要はないし、共存しても良かったのではないかと思います。

 でも、漫画も所詮は商業なので、結局中身のない漫画ばかりが人気漫画として上に扱われ、寺田さんのような漫画がマイナー扱いされてしまったら、我慢がならない思いもわからなくありません。

 トキワ荘時代の寺田さんは、いくら当時の藤子さんや赤塚さんよりは売れていたとはいえ、決してそんなにお金が余っていたわけではないはずなのに、一生懸命、後輩達の面倒を見ていました。それが、年長者としての「人としてのあり方」と言わんばかりに。
 
寺田さんの部屋は、いつもこぎれいで、整理整頓されていたそうです。
 漫画だけでなく、生き方そのものが、清廉・高潔だったのでしょう。

 筆を折り、世俗との関わりを絶って隠遁生活をする中、ある日突然、トキワ荘のメンバーを自宅に招いて飲み会をされたそうです。
 藤子不二雄A・Fさん、鈴木伸一さん、石ノ森章太郎さんらと、まるで昔に戻ったかのように楽しく過ごし、帰る際には、ずっと、ずっと、みんなが曲がり角を曲がるまで、手を振り続けて見送られたそうです。

 そして、その日以降、寺田さんは家族以外の誰とも接することを一切拒絶して自宅の自室に籠り、その二年後、その自室で、食事もとらずに自殺同然の衰弱死をされたそうです。

 寺田さんは、「漫画家」などという職業名では片付かない、信念に基づいて作品を世に送り出そうとした、真のアーティストであり、それに殉じた人だったのだと思います。
 きっと、その心の中には、人に言えない苦しみ・悩みも、ざぞあったろうと思います。
 ですが、このような生き方は、誰でも真似出来るものではない、崇高な生き方だと思います。

 僕は、寺田さんの信念は、今の漫画においても、なくてはならない考え方だと思います。
 そして、そんな寺田さんがいたからこそ、トキワ荘のグループが生まれ、漫画家が育ち、数々の名作が世に生まれました。
 そして、寺田さんの描かれた漫画を、二十一世紀に生きる僕が、今もなお読んでいます。

 こうした恩恵を預かる身として、寺田さんに大きな感謝の想いを持つとともに、心からリスペクトしています。 
 

 


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