トスカニーニは楽譜に忠実な指揮者ではない

 二十世紀最大の指揮者の一人に数え得られる大指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニ。
 彼が数々の名演を残したことは確かですが、そのスタイルについてよく「楽譜至上主義」とされるのは、どう考えてもおかしいと思います。

 楽譜至上主義というのは、楽譜に忠実に演奏するスタイルのことです。

 クラシック音楽で楽譜通りに演奏するのは当たり前のように思われるかも知れませんが、19世紀後半のロマン主義全盛期〜二十世紀半ばくらいまでは、指揮者や演奏者の解釈…というか、ほとんど趣味じゃないか?という判断によって、楽譜を改変して演奏することのは、ごく普通のことでした。

 その代表的な存在としては、アムステルダム・コンセルヘボウ管弦楽団を一流オーケストラに育て上げたウィレム・メンゲルベルクや、史上最大の指揮者とも呼ばれ、当時トスカニーニと人気を二分していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどがいます。

 それに対してトスカニーニは、「楽譜至上主義」の立場をとり、あくまで楽譜に忠実な演奏であることを信条としていたと、よく言われているわけです。

 確かに、フルトヴェングラーの演奏を聴くと、クラシック初心者でもすぐ気づくような、単なる表情の幅をこえた極端なテンポの揺らしや、楽譜にはない、あからさまなクレシェンドなどが耳に入ってくるのに対して、トスカニーニの演奏は、テンポの揺れや大げさな抑揚はなく、端正ですっきりして聴こえるので、そのように感じる人が多いのはわかる気がします。

 しかし、トスカニーニを「楽譜至上主義」の代表的存在として挙げるのは、どう考えてもおかしいと思います。
 はっきりいってこれは、ろくに楽譜を読めない、または見てもいない音楽評論家たちが勝手につけたイメージだと思います。

 というのも、今では良く知られていますが、トスカニーニの演奏には、明らかに楽譜を改変したものがたくさんあります。
 それも、テンポを揺らすとか強弱の操作という話ではなく、原曲にはないトランペットやシンバル、ティンパニーの追加といった、演奏効果を上げるための改変が少なくありません。

 それもあって、昔に比べると最近では「当時の風潮のわりには楽譜に忠実」といった扱いになりつつあるようですが、これだけ明らかな改変をしていておきながら、そもそも「楽譜至上主義」の範疇に入れること自体が間違っていると思います。

 ゼロか一しかないというつもりはありません。
 音楽の表現において、楽譜は全てを記したものではないし、どこまでを「楽譜通り」、どこまでを「表現の範囲」、どこからが「改変」となるかは、人によっても異なるでしょう。

 しかし、トスカニーニのやっていることは、完全に改変のレベルだと思います。

 たとえば、生涯奥さん一人だけへの愛を貫いたという「純愛派」と主張するのであれば、奥さん以外の女性と二人で食事に行ったりするくらいは認めても良いかもしれませんが、体の関係を持ってしまったら完全にアウトでしょう。

 「愛人を作るのが当たり前の風潮の中、他の人に比べて少なかった」という程度では、当時にしては「まし」と言えたとしても、断じて「純愛派」ではない。

 トスカニーニの、楽曲が盛り上がるクライマックスに、演奏効果を高めるために楽譜にないシンバルやティンパニーの連打を平気で加えるといったスタイルは、もはや他の女性に手を出しているレベルであり、「楽譜に忠実」という範疇に含めるべきではないと思います。

 少なくとも、楽譜至上主義の代表的存在のようにするのはおかしい話だし、「当時にしては」としても、それなら同世代のエーリッヒ・クライバーのほうが、トスカニーニよりもはるかに厳格に楽譜通りの演奏を貫いていたので、よっぽど代表にふさわしいと思います。

 ただ、僕は決してトスカニーニの評価を下げるつもりで言っているわけではありません。
 そもそも僕は、激しい表現のフルトヴェングラーも好きだし、改変どころかもはや編曲レベルまで楽譜をいじりまくるストコフスキーの演奏も好きだし、トスカニーニの演奏でも、ブラ1の最後にティンパニーの連打を加えて大盛り上がりしてる録音もお気に入りです。

 単に、トスカニーニを「楽譜に忠実」派に属する指揮者とすることに疑問を持っているだけです。

 今のようにインターネットがなく、情報発信できる一部の評論家によって評価が大きく左右された時代はともかく、今やトスカニーニが楽譜の改変をしていたことはネットでも広まって周知のことになっているので、いつまでも大昔の音楽評論家による誤ったイメージをひきずるのはやめて、位置づけを見直すべきだと思います。

 

 


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