腕時計は必要か

 腕スマホが普及した今日、「腕時計は必要か・不要か」論争というのがあるそうです。
 それに加えて、「高級時計の必要性」論ですね。

 僕は、腕時計が結構好きです。
 歴史とかムーブメントとかも多少語れるくらいの、いわゆる「時計おたく」の入り口をうろついているような人種です。

 そんな僕が思うのは、「腕時計はアクセサリー」という認識です。

 ネットでは、「大人の身嗜み」だとかいう記事をよく見かけますが、そのことを100%否定はしません。
 ただ、僕にとっては、服や靴、カバンといったその他の装身具と同列な意味での「身嗜み」に過ぎません。

 服や靴が、清潔感がなかったり、TPOにそぐわないふざけた格好だったらよろしくないように、時計も、どうせつけるなら、服とマッチしたデザインのものをつけたり、葬儀でキャラクター時計やキラキラ時計をしたらいけない、というレベルの「嗜み」程度です。

 そして、服でも鞄でも、どんなコーディネートをするかでお洒落感が違うように、時計も、スーツの時はクラシックな三針時計、カジュアルの時は服に合わせたファッション時計、アウトドアの時はタフなG-SHOCK、山登りの時はプロトレック…なんてつけかえてると、お洒落だなーと思いますね。

 そういう楽しみ方で、十分だと思う。

 たまにネットで見かける、〇歳になったら〇円以上の時計を身に着けるべき、というようなステータス論的な話は、全くもってくだらないと思っています。

 かつて、腕時計は生活の必需品でした。
 今思うと、僕自身も子供の頃はいつも腕時計をしていました。
 なぜなら、当時は携帯電話がなかったので、外で遊んでいる時などは、腕時計がなければ時間を把握する術がなかったので、つけて当たり前だったんです。

 社会人になった頃は携帯がありましたが、携帯メールはもっぱら私信での使用がメインで、仕事のことをメールでやりとりするのはあくまでも補助の補助程度でした。
 だから、商談や会議中にポケットから携帯を取り出すのは行儀がよろしくない空気が強くあり、時間確認にはやはり腕時計を使っていました。

 そうした時代では、確かに腕時計は、「ビジネスマンの嗜み」でした。
 腕時計がなかったら仕事になりませんでしたから。

 誰もが時計をつけて当たり前の時代では、どんな時計をするかで、確かに多少のステータス感はあったかも知れません。
 それなりの企業でそれなりの役職にある社員が、あまりみすぼらしい格好をしていたらいけないように、時計も、それなりのものをつけた方が良い、という感覚が生まれても、わからなくもない。

 でも、スマホが普及した頃から、世の中が変わりました。
 仕事のメールどころか、会議や商談に関する追加指示や連絡が送られてくることだってあるので、商談中にスマホを取り出すどころか、いつでも見えるようテーブルに置くのも何らおかしなことではなくなりました。

 こうなると、腕時計の必要性はほとんどありません。
 僕も、時間はスマホで確認するようになり、腕時計をしていない時期が長くありました。

 また、オフィス勤めだと、勤務中の99%において、パソコンを開いて仕事をしています。
 会議や打ち合わせでもパソコンを使います。
 そうした時は、スマホを開くどころか、パソコンの時計を見て時間を確認できるので、腕時計は全くもって不要です。

 まあ、今となっては、無いよりあるほうが便利だと思ってます。
 自転車を運転してる時とか、電車で吊革に手を掛けている時など、何かで手がふさがっている時でも、さっと時間を確認できますからね。
 いざ改めてつけてみると、便利なのは間違いない。

 でも、スマホで十分というのもわかる。
 もはや今の時代では、どちらでもいいと思います。

 ただ、そう思いながら僕が腕時計を好きになったのは、単純に「マニア的感性」をくすぶられたことと、ファッションの一環として身に付けるようになったからに過ぎません。

 社会人として、それなりの年齢・立場になってきたら、やはり、どんな風にあったほうが良いか、ということを考えるようになります。それは、社内的な意味でも、プライベート的な意味でも。

 どんなに収入や地位があっても、服や身なりなんて一切気にしない、という人もいますが、僕はやっぱり、見栄をはる必要はないけど、分相応の「ポリシー」はあったほうがいいかな、と思いました。

 服だろうと、スーツだろうと、靴だろうと、そして時計にも、自分なりにポリシーを持っているほうがカッコいいかな、と思ったんですね。

 「手入れさえきちんすればユニクロや無印で十分」というポリシーだって良いと思うし、出来るだけ着心地の良い天然素材の服を選ぶ、といった実用的なポリシーだって良いことだと思うし、「日本製にこだわる」っていう、精神的なポリシーだって良いと思うんです。
 
決して、ブランド物や高級品、という意味ではありません。

 世界でも屈指の大富豪のビル・ゲイツ氏は、カシオの三千円くらいの時計を愛用されているそうです。
 ゲイツ氏が贅沢に興味のない人物だからというわけではなく、バカンスに巨大クルーザーを借り切って一週間で七億円も使うような人ですが、一人のエンジニアとして、安くて優れた時計を作るカシオをリスペクトされているからだそうです。
 アメリカの大統領が一〜二万円程度のタイメックスの時計をしているのも有名です。タイメックスはアメリカを代表する時計メーカーであることと、庶民の味方であることをアピールするためだそうです。

 地位や経済力がどうだと高級時計をしなければならないなんて常識は世界のどこにもありません。
 むしろ
そこに、金額で優劣を語ったり、金銭的に身の丈に合わない高級時計やブランド品を身に着けることこそが醜悪に感じます。

 ただ、時計は、知っている人は知っていると思いますが、実はかなりディープな世界で、見た目や実用性とは関係ない「精密機械オタク」的な要素も非常に強く、実用的には全く役に立たないけど作るのにひたすら手の込んだ複雑機構や、外からは見えない内部の部品一つひとつにまで磨きみ装飾を施すというような、完全に趣味の世界の工芸品になっていて、その結果として、値段は下は100円から上は億を超える腕時計が存在します。

 僕はある日、軽い気持ちで腕時計を買ってみようかと思って腕時計のことを調べて、はじめてそのマニアックな世界を知り、何より日本が世界でもトップクラスの時計製造技術を持っていることを知って、以来、腕時計のことを個人的に好きになったに過ぎません。

 ただそれでも、やたらと「高級時計」を賛美する人の気が知れない。

 デザイン的にどうしてもそれがいい、と思ったのなら、それはあくまで「アクセサリー」としてアリだと思うし、メカオタク的な自己満足で手を出すのもわかります。
 でも、高級時計信奉者が口にする、「大人になったらそれなりの時計をすべき」って、「それなり」って何だよ。
 金額か?
 時計オタ知識か?
 
くだらない。時計の知識ごときを「教養」とか抜かす輩もいるが、社会の発展に何の役にも立たない時計のオタク知識を教養と言えるか。アイドルオタクや鉄道オタクと大して変わらない「雑学」レベルのことだ。

 確かに、一万そこらくらいの時計は、ケースが安い合金だったり、塗料でごまかしていて安っぽく見える、というのはわかります。
 でも、五万円あたりからは、だいたいしっかりとした作りの時計になり、高級なスーツや服と合わせても、何ら見劣りするものではありません。

 とはいえ、時計に興味がない人からすれば、五万円でも十分高いことでしょう。
 なので、自分がそれで十分だと思うなら、千円の時計でも良いし、いずれにしろ、時計を見て値踏みし、その金額で人の人格にまで結び付けるような奴は、人の価値をお金でしか測れない憐れな人だと思います。

 高級時計不要論を言うと、よく「買えない貧乏人の妬み」と言う人がいますが、僕はどんなに大金持ちになっても、パテックやヴァシュロンなんかを欲しいとは思わないですね。
 これは強がりではなくて、もし自分に何千万円も時計にかけられる経済力があったら、そんな船舶ブランドを買うより、セイコーやシチズン、カシオに、自分でデザインしたオリジナル時計を特注で作ってもらいたいです。
 もちろんロゴは「セイコー」「シチズン」「カシオ」で。
 誰もその時計に何千万もかかってるとは思ってもらえないだろうけど、それでいいんです。
 なぜなら、僕は「時計が好き」で、日本の時計の製造技術に誇りを持っているから。
 世界に誇る技術力を持った日本の時計メーカーに、自分好みのデザインの時計を作ってもらえたら、それが一番最高だと思うからです。

 そんなわけで、時計はあった方が便利だけど、高級時計に踊らされる必要は全くない、と思う今日この頃です。

 


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