西洋料理人列伝

秋山 徳蔵(1888〜1974)
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 初代宮内庁大膳職主厨長。明治政府が宮内庁に新設した洋食部門の初代料理長で、「天皇の料理番」と呼ばれ、料理界の天皇として君臨した。
 フランス料理が本業だが、気軽に外食に行けない天皇陛下や皇太子のために和食を作ったり、
寿司を握ることもあった。
 ドラマ化された小説『天皇の料理番』のモデルとなった人物。

●生い立ちと修行時代

 秋山は比較的裕福な家に生まれ、家が仕出し屋であったことから料理に興味を持ち、十四歳になると見習いとして華族会館(現・霞会館)に入り、コックとしての修業をスタートする。
 その後、ブラジル公使館を経て、日本の西洋料理店としては屈指の評価を得ていた築地精養軒に移り、そこで西尾益吉料理長に出会ったことが料理人としてのその後に大きな影響を与えた。

 西尾は、当時フランス料理界で帝王と呼ばれたオーギュスト・エスコフィエから直接指導を受けた、当時唯一と言っていい「本場仕込み」の料理人で、腕が良いのはもちろんのこと、フランス語でサラサラとメニューを書く西尾の姿に、秋山は大きな憧れを抱いたという。
 秋山は、西尾の書いたフランス語の献立表が見たくてならず、ある日の夜に事務所のガラスを割って侵入し、盗み出したほどだった。(その後、西尾に自首してカンカンに怒られたとのこと)
 
築地精養軒での修行後、東京倶楽部を経て、当時精養軒と並んで西洋料理店の「双璧」と謳われた洋「東洋軒」三田本店で、三代目料理長・小笠原平左衛門氏の後任として、四代目料理長に就任する。

 しかし秋山は、自分も西尾のように本場でフランス料理を学びたいと強く思っていたため、東洋軒の料理長の座を捨て、私財で単身渡欧する。
 フランスでは「ホテル・マジェスティック」で見習いから修行をはじめ、職場内での東洋人に対する差別と戦いながらも、次第に実力が認められ、名門「カフェ・ド・パリ」に移り、ついに念願の「ホテル・リッツ」に採用され、師・西尾と同じくオーギュスト・エスコフィエに師事する好機を得る。

●宮内庁の料理長として

 明治政府は、日本が西欧列国と対等な関係を築くために、明治三年に公式な正餐をフランス料理に定め、外国人の饗応にはフランス料理を用いるようになっていた。
 しかし、宮内庁には洋食を作ることが出来る料理人がいなかったため、宮内庁の料理人を横浜居留地の外人ホテルに派遣して技術を学ばせたり、わざわざ横浜の外人ホテルから料理を取り寄せたり、築地精養軒や中央亭といった洋食店に仕出しを依頼して対応していた。
 
そして大正三年、宮内庁に洋食部が設けられることになり、その総責任者としてフランスにいる秋山の名が挙がり、秋山はその要請を受け、帰国して初代宮内庁大膳職主厨長に就任した。
 以降
、「天皇の料理番」と呼ばれ、五十五年間の長きにわたって日本の西洋料理界のトップとして君臨することになる。

 秋山は、厨房では厳格な完璧主義者で、仕事は非常に厳しく、またその著書からも深い教養と見識の高さが伺えるように、周囲を敬服させる威風があり、日本の料理人の憧れの存在であったといわれている。
 
その料理は、師である西尾と同じくエスコフィエの料理を基本とし、技術の上でも日本の西洋料理界をリードする存在となった。

 そして1924年に、エスコフィエの料理書をベースに『仏蘭西料理大全』を刊行する。この本は、フランス語の原書を読まなければエスコフィエの料理を知ることが出来なかった当時において、非常に貴重な存在となり、大正から昭和初期にかけて、西洋料理を学ぶ日本人料理人たちのバイブルとなった。

●小説の主人公に

 小説家の杉森久英によって、秋山の幼少期〜主厨長までの半生を描いた小説『天皇の料理番』が書かれ、この小説は三度テレビドラマ化されている。
 おそらく西洋料理人を主人公にした小説はこれが日本で最初のもので、最初にドラマ化された1980年番は、日本で初めてステレオ放送されたテレビドラマでもあった。主人公である秋山役は堺正章が演じ、芸人の明石家さんまが俳優デビューしたドラマでもある。
 1993年に二度目のドラマ化がされ、この時の主演は高嶋政伸が演じた。
 2015年に三度目のドラマ化がされ、主演は佐藤健が演じた。

 なお、日本屈指の洋食店として知られる浅草の老舗・レストラン吾妻の二代目亭主・竹山正次は秋山の弟子にあたる。(現在はその息子の竹山正昭が三代目として後を継いでいる)
 


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