西洋料理人列伝

荒田 勇作(1895〜1978)
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 戦前〜1970年頃にかけての日本の西洋料理界を代表する大コック。横浜の外国人ホテルで五人の外国人コックから本場の西洋料理を学び、横浜ホテルニューグランド、不二家レストラン、銀座ブリヂストン・アラスカ、銀座レストラン山和、霞が関キャッスルといった、日本の西洋料理史上名高い名店の料理長を歴任。戦後に一時代を築いたニューグランド系料理の「総帥」とも呼ばれ、豊富な知識・高い技術・優れた経営感覚によって、数多くの弟子を輩出した。
 また、戦後の日本の西洋料理の集大成ともいえる、全八巻にもわたる料理書『荒田西洋料理』を発行し、日本の西洋料理の普及と発展にも大きく貢献した。

●経歴

 荒田勇作は、1895年(明治二十八年)に横浜で生まれ、1909年(明治四十二年)に横浜山手百七十九番のパリス・ホテル("Hotel De Paris"。後にベルモント・ホテルに改称)に入り、フランス人経営者兼料理長のラデシラス・ルイ・コットーの下で料理修行をはじめる。
 その後、グランドホテル、ロイヤルホテル、オリエンタル・パレス・ホテル、フランスホテルといった、横浜の外人ホテルを渡り歩き、デュボア、ジョンソンといったフランス人コックの下で修行を積み、フランスホテルでは、元帝国ホテル第三代総料理長のA.デュロンの下でセカンドを務め、外人向けのリゾートホテルとして名声を誇っていた鎌倉海浜ホテルで料理長になった。

●ニューグランド時代

 1927年に横浜ホテルニューグランドが開業すると、総料理長にスイス人サリー・ワイルを迎え、それを補佐する日本人料理長として内海藤太郎(帝国ホテル第四代総料理長)が就任するが、荒田はそれを補佐するセクション・チーフとしてニューグランドに入社した。
 そして内海がニューグランドを離れた後、荒田がワイルを補佐する料理長となる。
 
総料理長のワイルは、横浜と東京の両ホテルを毎日往復し、また横浜にはメインダイニングとグリルルームの二つのレストランがあったため非常に多忙で、実質的なコック陣の統括は日本人料理長が行っていた。
 そうした中で荒田は、東京ニューグランド料理長の戸村誠蔵と並んで、戦前のニューグランドのコック達の技術・精神両面における中核的存在だったといわれ、富士ニューグランドが開業する際にはオープン料理長も務めた。(支店のオープニングスタッフには精鋭が選ばれていた)

●ニューグランド以降

 ワイルを迎えたニューグランドは革新的な料理を提供し、帝国ホテルを凌ぐほどの評価を得るまでになったので、ニューグランドのコックは方々から引き合いにあい、荒田は不二家からの招聘を受け、東京銀座の不二家レストランの料理長に就任する。なお、その時の給料は不二家の社長よりも高かったと言われる。

 終戦後は、銀座のフランス料理店ブリヂストン・アラスカの料理長に就任。同店は、ブリヂストン創業者の石橋正二郎社長が経営する店で、金に糸目をつけずにとにかく最高の料理を出すことが求められたので、小さい店ではありながら、政財界の重役が利用する最高級のレストランとして銀座でも屈指の名声を誇った。その時、セコンドはニューグランド時代の部下である木沢武男(後のプリンスホテル総料理長)、小野正吉(後のホテルオークラ総料理長)といった豪華な顔ぶれだった。

 1952年、アラスカのななめ向かいに出来た高級レストラン「山和」の料理長として引き抜かれるが、この頃の銀座では、このブリヂストン・アラスカ、レストラン山和をはじめ、ポラリス、花馬車、コックドールといった、ニューグランド出身のコックが料理長を務める高級レストランが全盛を誇り、一時代を築いていた。
 
そして1960年に、新規開店した霞ヶ関飯野ビルのレストラン「キャッスル」の料理長に就任し、後に料理長兼顧問に就任する。
 晩年には厨房に立って鍋を手に持つことはなかったと言われているが、キャッスルの顧問として、1978年、現役のまま八十二歳で逝去。

●先進的なコック

 昔のコックは「料理は体で覚える」という意識が強く、分量などを正確に計って記録するという習慣があまりなかった。しかし荒田は、仕事中は常時メモを携帯し、食材の分量から材料費まで細かくメモをとったので「メモ魔」と呼ばれ、当時としては異色なタイプのコックだった。
 
そうした性格から、特にコスト感覚に優れていたといわれ、常に料理の原価率を意識し、「くず料理が得意」といわれるほど、食材を余すところなく利用して料理にする技術にも長けていた。
 例えば、今では「ホルモン焼き」や「もつ鍋」など、動物の内臓を使った料理は全国的に浸透しているが、当時はそういったホルモン系の料理は、特に関東では馴染みがなく、内臓肉はほとんど捨てられていた。しかし、西洋では内臓肉を使った料理は珍しくないので、外国人コックから直接料理を学んだ荒田は内臓肉を使った料理のレパートリーも広く、煮込み料理やテリーヌなどに工夫して材料を有効に使いこなしたので、経営者からは非常に重宝された。
現代ですら「経験と勘が全て」というコックは多いが、明治生まれのコックでこうした考えを持っているのはかなり稀有なことだった。
 優れた経済感覚と、
外人ホテルで身に付けた本格西洋料理から日本人向けの洋食まで幅広いレパートリーを持ち、特に盛りつけのセンスが素晴らしかったというその腕前は日本全国で知られ、『月刊専門料理』などに講師として毎月のように頻繁に登場した。

●後進の育成に尽力

 戦後荒田は、スイスに帰国していたサリー・ワイルの勧めにより、「国際調理師技術協会」を結成して会長に就任し、ヨーロッパ十六カ国の司厨士連盟への加入に動く。
 これは、敗戦国の日本では個人の海外渡航が厳しく規制されていたため、コックの海外修業がままならなかった状況を憂慮したワイルのとりはからいだった。ワイルの仲介によって、国際調理師技術協会がヨーロッパ司厨士協会への加入が認められたことで、この組織を通じて多くの日本人コックの海外修業が実現することになる。
 
その代表的なコックとしては、中西鉄治(横浜ロイヤルパークホテル初代総料理長)、今井克宏(「三鞍の山荘」オーナーシェフ)、根岸規雄(ホテルオークラ第三代総料理長)、大庭巌(ホテルオークラ料理長)、堀田貞幸(京都ホテル総料理長)、快勝院孝士(第一ホテル総料理長)、など数多く、加藤信(二葉製菓学校校長)、井上旭(「シェ・イノ」オーナーシェフ)も、スイス経由で渡航し、そうした実績から、荒田はスイス料理長協会から名誉会員に推薦される。
 そして、1958年、国内に散在していたコックの団体が大同団結して現在の全日本司厨士協会となった際に、国際調理技術協会も吸収合併し、荒田は総本部常任理事に就任する。ワイルが切り拓いた海外修行の道も引き継がれ、「スイス調理師派遣団」として1994年まで続けられた。

 また、荒田が後進の育成において優れていた点は、部下に対してきちんと分量で仕事を学ばせ、原価率が何%であるかを考えることも要求したことが挙げられる。キャッスルでは、食材原価率を33%に決め、毎週原価を部下に計算・提出させてコントロールしていたという。「荒田チーフの下で修業をすると経営も覚えられる」ということで、荒田の下にはいつも入門希望者が順番待ちだったと言われる。

 荒田が料理長を務めた店からは多くの優秀なコックが育ち、全日本司厨市協会第二代会長を務めた藤咲信次(レストラン「紅花」料理長)は、「自身の日本的洋食のヒントはアラスカで荒田チーフの下で学んだ」と述べている。(『若い調理師のために』より)
 
荒田門下のコックは全国の街場のレストランに数え切れないほど広がり、現在も営業している店は多く、テレビ番組「料理の鉄人」において鉄人・中村孝明に勝利した東敬司の「シェ・アズマ」をはじめ、表参道「J-COOK」、神楽坂「夏目亭」、桜木町「ラクレット」、大和「スピッツ」など数知れず、今日の日本の洋食界の基礎を作った大親方といっても過言ではない。

●集大成・『荒田西洋料理』

 荒田が書きためたレシピは、月刊『専門料理』で連載されていたところ好評だったので、それらをまとめ、1963年に『荒田西洋料理』として発刊する。
 
『荒田西洋料理』は、当時の日本で知られていたフランス料理をはじめとするほとんどの洋食のレシピを体系的に網羅し、さらに日本のレストラン事情に合わせた調理手順やアレンジ方法まで詳記した総合的な料理書で、荒田自身の集大成であると同時に、日本の西洋料理の集大成とも呼べる料理書だった。高い評判によって、予定を超える全八巻にもわたる大長編となり、荒田の弟子もその編集作業に参加し、それぞれパートをまとめて制作された。

 この料理書は、西洋料理の決定版として重版に重版を重ねて全国に広まり、1970年代にヌーベル・キュイジーヌの波が生まれてフランス料理界が近代化するまでは、日本の西洋料理のスタンダード的な料理書となった。
 また、単なるレシピ集ではなく、実際のレストランのオペレーションにのせた場合の実践的な解説まで書かれているので、そうした調理手順から、本場の西洋料理がどのようにして日本的洋食にアレンジされたかも読み取れる、貴重な資料にもなっている。

 逝去した翌月には、フランス国立アカデミーから会員賞を贈られる。その他、フランス国立アカデミーエスコフィエ博物館名誉会員、1974年には勲五等瑞宝章を受章。

 洋食のメッカである横浜の外人ホテルにはじまり、日本の西洋料理史における要所ともいうべきポイントポイントで、大ホテルと街の名声店の両方で仕事をし、『西洋料理講座』『荒田西洋料理』といった料理書を刊行した荒田勇作は、明治〜昭和にかけての日本の西洋料理史そのものといえる存在であり、偉大なる「親方」であったといえる。 



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