西洋料理人列伝

馬場 久(1903〜1987)
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 かつて隆盛を極めた日活国際ホテルの総料理長で、東京オリンピックでは選手村食堂の総料理長を務めるなど、1950年〜60年代の日本の西洋料理界のリーダー的存在だった大シェフ。
 横浜ホテルニューグランド初代総料理長のサリー・ワイル氏が最も可愛がった弟子といわれている。

●修行時代

 子供の頃よりコックに憧れ、小樽北海ホテルでコックの修行をはじめるが、本格的なフランス料理を学ぶために上京し、東京で屈指の名声店である「中央亭」に入る。しかし、まもなく関東大震災によって職場を失い、以後街場のレストランを転々とする。
 そして
1927年、横浜ホテルニューグランドが開業する際、新聞記事でサリー・ワイルというヨーロッパの第一線で活躍しているシェフが総料理長に就任するということを知り、かねてより本物の西洋料理を学びたいと考えていた馬場は、履歴書を持ってニューグランドの門を叩き、1928年に入社する。

●料理長時代

 ニューグランドで馬場は、ワイルの薫陶を受けて腕を大いに上げる。ある日、外人客にブイヤベースを作って提供したところ、ウェイターから「作った人に会いたい」と言われたので、馬場が出て行くと、料理の味を激賞され、五円のチップを渡された。馬場は喜んでそれをワイルに持っていくと、ワイルもそのことを喜び、「そのまま貰っておきなさい」と言われたが、その時の五円は、馬場の月給の五分の一に相当する額だった。

 やがて馬場はグリルルームの料理長を任されるほどになり、そして1934年、ワイルの紹介で、横浜居留地でも伝統ある外人将校の高級倶楽部「横浜ユナイテッド・クラブ」の料理長となって一本立ちする。

 終戦後、多くのコックがそうであったように、職場を失って横浜や千歳、埼玉の米軍基地での仕事などを転々とするが、その腕を買われて銀座の高級レストラン「花馬車」の料理長となる。そこで、その店の常連客だった日活株式会社社長・堀久作に腕を見込まれ、日活国際ホテルの開業と同時に料理長に就任する。
 1950年〜1970年頃は、日本映画界の黄金時代で、中でも日活株式会社は、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、岡田真澄といった日本映画界に名を残す大スターを擁した、当時最も勢いのある映画会社だった。
その日活が経営する日活ホテルは「文化人御用達のホテル」といわれ、国内の芸能人はもとより、外国の芸能人やハリウッドスターが来日した時は日活国際ホテルを利用し、石原裕次郎や美空ひばりといった大スター達は日活国際ホテルで結婚式を挙げるなど、帝国ホテルと並ぶ名声を得るほどになるが、そのホテルの料理を支えたのが馬場だった。
 また、1962年(昭和三十七年)にホテルオークラが開業すると、そこに宴会部門の責任者として、同じニューグランド出身の後輩である小野正吉(後の総料理長)が就任するが、当時の小野は宴会経験が少なかったので、宴会に長けた日活ホテルのスタッフをオークラに送り込み、小野を陰から助けた。

●ワイルとの再会

 そして1953年、かねてからの夢であったヨーロッパに渡り、スイスに帰国していたワイルとの再会も果たす。
 ワイルの口利きでスイスのホテル・レストランを回って研修を積み、帰国後、馬場は当時五つあった日活ホテルの全てを統括する総調理長としてさらに活躍した。

 ワイルを敬愛してやまなかった馬場は、ワイルの日本招聘に骨を折り、ついに1956年、ワイルの来日が実現する。
 ワイルが飛行場に降りた際には、馬場をはじめとする五十人以上の弟子達がコック帽をかぶって迎え、一ヶ月にわたって歓待したが、その滞在中の費用は全て弟子達の寄金によるものだった。そしてこのことが、ワイルに日本人コックの西欧留学の道を作ることを考えさせるきっかけになった。

 後年馬場は、「ワイルさんがいなかったら、私はどうなっていたことか。私はフランス料理の全てをワイルさんから習った。私はこの人に自分のすべてを賭けた」「日本にはじめて正しい西洋料理をもたらしたのはサリー・ワイルだ」と言って、ワイルを最大の師として仰ぎ、1976年にサリー・ワイルが亡くなった際には、スイスまで墓参りに行くなど、終生自分を育ててくれたワイルへの恩を忘れなかった。

●東京オリンピック

 1965年の東京オリンピックの際に、馬場は選手村食堂の総料理長に抜擢される。
 女子選手村食堂の料理長にニューグランドの入江茂忠、ヨーロッパ選手用の「桜食堂」の料理長には第一ホテルの福原潔、アジア選手用の「富士食堂」の料理長に帝国ホテルの村上信夫という錚々たる顔ぶれだったが、馬場がそのリーダーを務め、メニュー作成と全ての食材を管理するサプライセンターを担当した。またその際には、料理をまとめて提供するために、当時の日本ではまだ一般化されていなかった冷凍技術を導入するなど、革新的な取り組みも行った。
 このように、当時の馬場は名実ともに日本の西洋料理界のトップに立っていた存在であり、1970年代にホテルオークラの小野正吉・帝国ホテルの村上信夫がホテル界の両巨頭と呼ばれるようになる
、その一時代前の日本を代表する大シェフだった。

●後年

 六十三歳で日活ホテルを退職して再度渡欧し、ハンブルグの日本大使館で料理長を務めた後、1968年に帰国して日本航空の総料理長に就任。その後、センチュリー・ハイアットの総料理長と顧問を務めた後、福岡の中村学園大学の講師となって後進の指導に当たった。
 
なお、中村学園は当時六十三歳だった中村ハルという学校教師が開校した学校で、開校してまもなく、「私はフランス料理を知りません。教えて下さい」と言って突然日活ホテルの馬場の前に現われ、鉛筆とノートを携えて朝八時から夜七時まで一週間にわたって調理場で働き、びっしりとメモを取って帰っていった。その教育にかける熱意に打たれた馬場は、1954年から講師として中村学園で料理を教えるようになったという。

 


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