西洋料理人列伝

カール・ヘス Carl Jacob Hess(1838〜1897)
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 日本の西洋料理の歴史を語る上では外すことの出来ない、日本の西洋料理の源流ともいえる築地精養軒の初代料理長。パン作りにも優れ、東京一のパン屋と言われた「チャリ舎」というパン屋を開業し、日本における本格フランスパンの開祖とも言われる。
 英語読みで「チャーリー・ヘス」と読むことから、「チャリヘス」という愛称でも親しまれた。

●築地精養軒の初代料理長として

 スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積む。特にパイ作りが得意で、パリのコンクールで一等に選ばれたこともあるという。
 上海を経て、1869年(明治二年)頃に来日して神戸に住むが、その一年後には横浜に移り、はじめは横浜の外国人居留地にあるL.ポワドヴァンの洋菓子店でアシスタントとして働いていたが、1872年(明治五年)の築地精養軒ホテルの開業にあたって料理長として招かれる。(なお、現代の感覚では、パン職人や菓子職人とコックは別の職種のように思われがちであるが、当時は両方出来ることは珍しくなく、後にグランドホテル料理長となるP.ミュラウールも、横浜に来たばかりの頃は、ヘスと同じくポワドヴァンの洋菓子店でアシスタントをしている)
 ただ、精養軒創業時の詳しい状況は記録がなく、『西洋料理人物語』(築地書館/中村雄昂)には、ヘスの他にも、フランス人の「ルイ」とか「ポナン」が料理師範として関わっている、という記述があるが、詳細は不明である。(推測としては、築地ホテル料理長のルイ・ベギュー、横浜居留地オリエンタルホテルのボナの可能性が高い)

●パン屋として再出発

 しかし、ヘスは精養軒が開業したその年、酔って列車から転落して轢かれ、片腕を失うという事故に逢う。しかも同年の銀座の大火に巻き込まれて精養軒も焼失したため、一時精養軒の職から離れ、1874年(明治七年)、築地でフランスパンと清涼飲料の店「チャリ舎」を開業して再起する。
 
もともとベーカーとしての腕も高かったヘスのパンは評判になり、「チャリ舎」のパンは日本ではじめての本格的なフランスパンとして人気を博し、業容拡大してパン工場を建設するまでに至り、「東京でパンと言えばチャリ舎」と言われるくらい指折りの評価を得て、小売販売だけでなく、多くの西洋料理店や鉄道などにもパンを卸していた。ヘスは片腕しかなかったが、腕一本で器用にパイをこねるヘスを見て、弟子達はみな関心していたという。

 明治初期の頃は、日本の小麦粉の質はパン造りには向かず主にアメリカから取り寄せていたので(小麦粉が「メリケン粉」と呼ばれる由来になる)、流通量も少ないものだった。
 横浜にはヘスより先に英国人らによるベーカリーがあったが、酵母を使わないなどまだまだ本格的なパンとは言い難いものが多く、そこにヘスの作るパンは、小麦はカナダから取り寄せ、酵母は独自のものを使った非常に高品質で本格的なフランスパンだったので、(社)日本洋菓子協会連合会では、ヘスこそ日本のフランスパンの開祖としている。
 また、事業の拡大に伴い、多くの弟子を雇ったので、チャリ舎からは多くの優秀な日本人ベーカーが育った。1927年、新宿中村屋が、三越の新宿進出の脅威に対抗するために日本一のパン職人を求めて雇った石崎元次郎は、チャリ舎の出身でヘスの弟子である。
 戦前期の日本の食に関する文献を当たると、チャリ舎(またはチャリ社)の名前は、ひょんなところから目にすることが多く、当時、東京でパンと言えばチャリ舎、という評価は間違いないものだったようだ。明治の終わり頃から、鉄道の食堂車が流行り出すと、そこにもチャリ舎がパンを卸し、好評を得ていたという記録もある。

●精養軒への復帰

 築地精養軒は焼失後もすぐに小規模に再開し、次第に規模を拡大して1875年(明治八年)にはホテルとして完全再開し、ヘスは精養軒にパンを卸すことになった。
 しかし、再開しても十分な人数のコックを集めることが出来なかったので、ヘスは精養軒の料理長に復帰し、チャリ舎の経営と二束わらじで働くことになったが、それでも宮内庁の大きな饗応の注文を受けると仕事が追い付かず、横浜のホテルから料理を取り寄せなければならかったこともあったという。

 1884年(明治十七年)にはC.L.Nepが精養軒の料理長となり、ヘスはチャリ舎一本で活動していたが、1888年(明治二十一年)頃に、再びヘスが精養軒の料理長に復帰する。
 片腕のヘスに第一線で調理をするのは難しいと思われるが、精養軒の意図としては、西洋人コックの名前を看板として使いたかったことと、コックの調理指導が目的だったようで、実質的にはチャリ舎でヘスの弟子であった戸山慎一郎が、C.L.Nepの頃より精養軒の厨房を取り仕切り、後にこの戸山が料理長に就任する。
 なお、戸山の後に料理長となって精養軒の黄金時代を築く西尾益吉は、この頃にヘスの弟子となっている。

 こうした背景もあって、ヘスはチャリ舎の経営者でありながら、築地精養軒料理長という二足わらじで仕事をした。(当時は二足・三足わらじで経営や管理職をする外人は多かった)

●家族と晩年

 ヘスは、神戸で出会った日本人女性・綿谷よしと結婚。大変な愛妻家で、残念ながら子供に恵まれなかったため、自分よりずっと若い妻が、晩年に一人で郷里に戻った時に村人達から厚遇してもらいたいという思いから、妻の郷里の村でお祭りがあるたびに、多額の金品を村に贈っていたという。そして、その贈り物のお礼に村長が上京すると、そこでもヘスは江ノ島まで案内するなどしてもてなしたという。
 1896年に、精養軒料理長の職を戸山慎一郎に引き継いたその翌年、養子にした子供達と弟子達に見守られながら、五十九歳で病没。
臨終の際には、「縮緬の浴衣と、入船堂の塩煎餅と、およしさんがいて、日本に来て本当に良かった、ありがとう」という言葉を遺したという。
 青山の外人墓地にはヘスのお墓があり、そこには本名のCarl Jacob Hessの名前と共に、日本での愛称「チャリヘス」と大きくカタカナで刻まれている。

 築地のチャリ舎は、関東大震災で閉鎖したものの、弟子によって続けられ、昭和初期までは京橋で営業していた。近年まで、ヘスの弟子である潮田滝次郎の孫が世田谷の砧六丁目(祖師谷駅そば)で「チャリ舎」の看板を出したパン屋を営業していたが、残念ながら今はもう営業していない。

 なお、ヘスの後を継いで料理長となった戸山慎一郎は、1903年(明治三十六年)に大阪の北浜で「日本ホテル」を開業した。

※チャリヘスの経歴に関しては、長らく詳細が不明で諸説入り乱れていたが、『HOTEL REVIEW』95年2月号に掲載された、外国人居留地研究グループによる綿谷美枝氏(ヘスの妻よしの養子の娘)へのインタビューによって多くが明らかになった。本ページのエピソードの多くはその記事に基づく。


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