西洋料理人列伝

渡辺 彦太郎(1880〜1941)

 日本の西洋料理史上名高い中央亭創業者・渡辺鎌吉の息子。
 父親から多大な期待を受けてフランスをはじめとする西欧各国で修行を積み、フランス料理店「二葉亭」を開業して名声を上げた。

●名コック・渡辺鎌吉の跡継ぎ

 宮内省御用達の高級レストラン「中央亭」の創業者であり、明治時代を代表するコックに数えられる渡辺鎌吉(通称「オランダの鎌さん」)の長男として生まれた彦太郎は、子供の頃より父親から料理の手ほどきを受ける。

 彦太郎の父・鎌吉は、オランダ公使館で外国人に料理を学んで西洋料理の技術を身に付けたが、自身は最後まで海外に行くことが出来なかったので、本場で技術を学ぶという西洋料理のコックなら誰しもが見る夢を息子に託し、1905年(明治三十八年)、彦太郎は二十五歳の時にフランス大使付きとしてヨーロッパに渡る。
 ヨーロッパに渡った彦太郎は、フランスをはじめとして、ドイツやスペインなど、西欧諸国で八年にわたって料理修業をし、1913年(大正二年)に帰国すると、鎌吉の後継者として、中央亭の経営者となった。

●中央亭の経営者として

 彦太郎の料理は、本場仕込みだけあって非常に斬新で美味しく、人の目を惹きつける華があったといいう。ヨーロッパで身に付けた洗練されたサービスと合わせて、中央亭はその評価をさらに高めた。また、この頃の彦太郎の弟子に、後にホテル・ニューオータニの初代料理長となる小林作太郎がいる。
 
しかし、本場に限りなく近い料理を作ることにこだわり、材料費をかけすぎたため、利益が伴わなくなり、次第に中央亭の経営に支障が生じることになる。また、ヨーロッパで日本にないパンの美味しさを知った彦太郎は、日本でもそうしたパンを作れば売れるに違いないと考え、代々木に新しいパン工場を立ち上げたが、予想に反して売れず赤字が続き、ついに中央亭は経営破綻に陥ってしまう。

 そこで、中央亭に食材を納品していた明治屋(現竃セ治屋)が財政援助をし、1918年に中央亭は株式会社中央亭となり、彦太郎は次席株主となったが、この時から彦太郎は中央亭の経営から完全に離れることになる。
 中央亭の経営を離れてからは、京橋でセルフサービスの食料品店という、今でいうスーパーマーケットの経営をはじめたが、これも経営がうまくいかずに閉業。1920年には父・鎌吉が逝去し、彦太郎は四十歳という、人生で一番脂が乗る時期にあって大変な苦境に立たされる。

 なお、彦太郎の手から離れた中央亭は、明治屋の手によって経営を盛り返し、次々と支店を立ち上げて隆盛を取り戻すが、1925年の関東大震災によって、本店を除く全ての支店が倒壊するという不運に逢う。それでも、また大阪や神戸に支店を出すまでに再興し、終戦後、京橋の本店はビアレストラン「モルチェ」と改称して明治屋ビルで営業し、フランス料理店としては銀座に「シェ・モルチェ」を開業。現在は広尾に移転して営業を続けている。
 今となっては、かつてのような威勢は影も形もなくなっているが、中央亭系のレストランが輩出した名コックは数知れず、日本の西洋料理史において、中央亭の存在意義は非常に大きい。
 また、現在神戸にある明治屋中央亭も、同じ流れを汲むレストランである。

●二葉亭の成功

 事業の失敗を重ね失意にあった彦太郎に、友人であり、コックでもあった佐藤平治が、何とか彦太郎に立ち直って欲しいと思って手を差し伸べ、1925年(大正十四年)、彦太郎は佐藤と共同出資でレストラン「二葉亭」を渋谷に開業。
 開業当時は苦しいスタートだったが、彦太郎の料理とサービスが次第に評判となり、寺島伯爵、柳沢男爵といった、当時「食通」で知られた人々の贔屓の店となり、食道楽たちの集まるお気に入りのレストランとなって、東京でも屈指のレストランとして名声を博すようになる。
 彦太郎の才能はここで開花し、自身で料理も手がけるが、サービスにも積極的に参加し、客席に出る時はタキシードで対応し、そうした洗練された身のこなしは上流階級の人々から大変好まれた。また、本場さながらの料理に加えて、彦太郎はフランス語も堪能だったので、各国大使館からも愛用されて大いに繁盛した。
 なお、この「二葉亭」については、谷崎潤一郎の小説『細雪』にも登場し、東京で評判の洋食店であったと記述されている。

●類まれなアイディアマンとして

 彦次郎は、大変なアイディアマンとしても知られていた。
 失敗したものの、彦太郎が立ち上げた工場で作っていたパンは、角型パン、つまり現在の「食パン」だった。現在一般家庭でのパンの主流は、ご存じの通り角型の食パンだが、当時のパンの主流はイギリスタイプの山形パン(上部が山のようにポコポコふくらんでいるパン)だったので、彦太郎がやろうとしたことは、決して的外れだったわけではなく、少し時代の先を行き過ぎていたということだった。
 
中央亭の経営を退いた後はじめたセルフサービスの食料品店も、この形態はまさに現在のスーパーマーケットであり、日本における元祖スーパーマーケットは、紀ノ国屋が1953年(昭和二十八年)に青山に開いた店とされていることからも、それを大正時代に作っていたというのは相当早いことであり、これも彦太郎の感性が時代の先を行き過ぎていたとも言える。
 
また、二葉亭で請け負った宴会の中に、海軍の観艦式の仕出し料理があり、ある日そこでアイスクリームの注文を受け、艦までの輸送方法に頭を悩ませた彦太郎は、アイスクリームを最中(モナカ)の皮で包んで ブリキの箱に重ねて入れ、箱と箱との間に氷を敷き詰めるという方法を考案した。
 この方法によって、アイスクリームを溶かさず、食べやすく提供出来たが、これこそまさに「アイス最中」の元祖だったと考えられる。

 このように彦太郎は、類まれな発想力と行動力に溢れた人物であったと伝えられる。

 父親から手塩にかけて育てられ、海外修行までしたものの、経営に失敗して一時苦しい時期を過ごしながら、ついにはレストランを成功させて名声を獲得した彦太郎は、才能と努力の人物だった。
 そして1941年、第二次世界大戦が開戦される少し前、二葉亭の名主人として絶頂期の評価を受けたまま、六十歳で逝去し、店は共同経営者の佐藤平治の息子で、中央亭出身の佐藤義夫が引き継いだ。
 


 →TOPへ