西洋料理人列伝

五百木兄弟
 五百木 熊吉(?〜?)
 五百木 竹四郎(1887〜1943)

 兄弟共に腕利きの名コックとして知られ、明治の揺籃期にあった日本西洋料理界において、多くの優れた人材を育て、その発展に大きな足跡を残した。

●兄・熊吉

 愛媛に生まれた五百木兄弟は、魚の行商人であった父が早世したため、生活は非常に貧しかった。
 兄の熊吉は、仕事を求めて横浜に出て、居留地の外人相手の車引きの仕事をして日銭を稼いでいた。そこで客の外人に気に入られ、特に外国婦人からお菓子やケーキといった贈り物をもらったことから西洋食に興味を持ち、外人屋敷の使用人として働くようになり、そこでフランス語や洋食の技術を学ぶ。
 そこで熊吉は大いに才能を発揮し、詳しい経緯は未詳ながら、明治の中頃(1905年頃)には、居留地五番地の名門ホテルである「クラブホテル」で、フランス人シェフ・ジャンサンの下で日本人料理長になるまで腕を上げる。

 そして1907年(明治四十年)、神戸の北野に「トア・ホテル」が開業するにあたり、横浜の居留地四番地にあった外人将校の高級クラブ「ユナイテッド・クラブ」で料理長をしていたブレヤー(L.Bullier)が料理長に就任し、それを補佐する日本人料理長として、熊吉もトア・ホテルに赴任した。
 このトア・ホテルは、ドイツ人が経営する外人向けのホテルで、山手の山腹にあって神戸港を一望出来る絶好のロケーションにあり、赤煉瓦造りの優雅な一流ホテルだった。料理界では、誰がこの立派なホテルの料理長に選ばれるか開業前から注目されていたが、そこに選ばれたのが熊吉だった。それだけ、当時の西洋料理界で、熊吉がその腕を認められていたことがわかる。(なお、現在の神戸北野にある「トアロード」は、このトア・ホテルに由来する)
 その後、東京に戻り東洋軒で働いていた記録があるが、以後の経歴は全く残されておらず、未詳である。

 熊吉の弟子には、弟の竹四郎をはじめ、神戸オリエンタルホテルの料理長や築地精養軒料理長を歴任する鈴本敏雄や、帝国ホテル第五代総料理長となる水谷義次、精養軒料理長となる北川敬三、大阪三越百貨店食堂料理長の山下秀雄など、錚々たる名前が並ぶ。鈴本は、精養軒の黄金時代を担い「名人」と呼ばれた名コックであるが、師である熊吉の仕事について、「ほれぼれするような名人芸で、私は今でも、こんな名人芸はほかでは見たことがない」と激賞している。
 生没年などの詳しいことはわからないが、活躍した時代的におそらく、吉川兼吉、内海藤太郎らと同世代で、日本に洋食を外人コックがもたらした時代に続いて、日本人が料理長として活躍するようになっていく第一世代とも言うべきコック。

弟・竹四郎
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 兄と同じく愛媛に生まれ、貧しい家系を支えるために行商などしていたが、十五歳の時、兄を頼りに横浜に移り、料理の道に進むことなる。
 横浜居留地で兄・熊吉の指導を受け、そこで兄に劣らぬ才能を発揮し、料理人としての頭角を現す。そして1907年(明治四十年)、熊吉が神戸に移ることになると、竹四郎は東京の築地精養軒に入社し、そこでは料理だけではなく経営にも参画するようになり、ついには重役に列せられるほどになる。しかし、大正に入り、当時の支配人兼料理長であった西尾益吉が経営陣と対立し、西尾が北村重昌社長を排斥しようと画策すると、竹四郎は社長側について西尾と対立。結果、西尾が精養軒を去ることになったので、竹四郎は一時的に精養軒の料理長となったが、自分と同じく兄・熊吉の下で修行した兄弟弟子で、神戸オリエンタルホテル料理長だった鈴本敏雄を精養軒に料理長として招聘し、自身は経営者の道を歩くことになる

 1915年(大正四年)、東京ステーションホテルが精養軒の経営で開業すると、竹四郎は支配人に就任。そして欧米のホテル視察を経て、1922年(大正十一年)、築地精養軒の社長に就任する。
 竹四郎が居た頃の精養軒は、まさに精養軒が最も隆盛していた時期で、各地に次々と支店を増やしていたが、同時期に、精養軒と並んで日本の西洋料理店の”双璧”と謳われた「東洋軒」の主・伊藤耕之進と竹四郎はライバル関係にあり、互いに優秀なコックを引き抜き・取り合いして争い、対立していたと言われる。

●独立

 精養軒は関東大震災で大打撃を受け、本店である築地精養軒は瓦解して再建することは出来ず、本店機能は上野精養軒に移され、経営自体も苦しい状況に立たされることになった。そこから精養軒の再興を目指す中、竹四郎は株主と意見が合わず、1930年(昭和五年)、暖簾分けのような形で「丸ビル精養軒」、「松島パークホテル」といった精養軒が経営していたホテルの経営権を譲り受け、精養軒を退社。
 さらに同年、「丸の内会館」を開業して経営者となり、1933年(昭和八年)には長良川ホテルを開業し、その翌年に開業した札幌グランドホテルの経営にも関与し、香港やシンガポールにも進出するなど、竹四郎は、コックとしてではなく、実業家として幅広く事業を手掛けたが、
1943年(昭和十八年)、逝去。

 自身も腕の良いコックとして知られていたが、精養軒の経営を通じて、数えきれないほど多くの優秀なコックを育てたので、ライバル経営者だった伊藤耕之進と共に、日本の西洋料理界の「育ての親」とも言うべき存在。

※なお、最近三度目のドラマ化となった小説『天皇の料理番』では、五百木竹四郎がイギリス公使館の料理長として登場し、上京したばかりで駆け出しの秋山徳蔵(ドラマの中では篤蔵)が、華族会館に勤務しながら五百木竹四郎に教えを乞い、竹四郎の紹介で精養軒に入社する、という場面があるが、年齢的に疑問が生じるので、ここでは経歴に含めていない。(竹四郎と秋山徳蔵は一つしか歳が違わず、秋山が華族会館に勤めていたのは1902年〜1905年であり、その頃の竹四郎はまだ十五歳〜十八歳なので、その時にイギリス公使館で料理長になっているのが考えにくい)

 


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