西洋料理人列伝

石渡 文治郎(1883〜1951)

 「帝国ホテル」第八代総料理長。
 1928年(昭和三年)にフランスに渡ってエスコフィエに師事し、帝国ホテルに近代フランス料理を導入した、「帝国ホテル料理の父」と呼ばれる大シェフ。
 戦後日本の高度成長の絶頂期に帝国ホテルの顔として君臨した村上信夫総料理長の師匠にあたる。

●経歴

 兵庫県に生まれ、早くから料理の道に入ったが、本格的な西洋料理の修行を開始したのは、二十二歳の時に横浜居留地のグランドホテルに入ってからだった。
 そのため、十二歳くらいから居留地やホテルで丁稚奉公をはじめている周りのコックから「歳の割に腕が悪い」と噂されもしたが、並外れた努力によって実力を身に付け、1922年(大正十一年)に帝国ホテルに入社する。

 帝国ホテルに入ってからも、昼夜を問わない猛烈な努力と勤勉な姿勢は周囲の認めるところとなり、1928年に実施された帝国ホテルの欧州留学一期生に選ばれる。
 そしてフランスをはじめ、イタリア、ドイツ、アメリカといった欧米諸国の料理を学び、フランスでは「ホテル・リッツ」でエスコフィエからも直接指導を受け、帰国すると第八代総料理長に就任した。
 石渡の仕事ぶりはとにかく「生真面目」で、総料理長になってもそのスタイルは変わらず、下ごしらえの仕込みから何から率先して行っていたといわれ、その実直な仕事ぶりは多くの尊敬を集めた。

●帝国ホテル・近代フランス料理の父

 明治期の日本のフレンチの調理法は、明治初期に日本にやってきた外国人コックがもたらした十九世紀のフランス料理がベースだったが、そこに石渡が最新のフランス料理の技術を帝国ホテルにもたらした。
 石渡の料理はエスコフィエの影響を多分に受け、石渡の弟子である村上信夫(帝国ホテル第十一代総料理長)は、石渡のメニューはエスコフィエの料理そのものであったと述べている。
 『帝国ホテル百年の歩み』では、石渡のことを、帝国ホテルのフレンチの基礎を築き上げた「近代フランス料理の導入者」としている。

●晩年

 第二次世界大戦後、ホテルがGHQに接収されると、料理をアメリカ式に変更されることを余儀なくされ、思うようにフランス料理が作れなくなった石渡は、GHQの高官と折り合わず、帝国ホテルが経営するレストラン「リッツ」に出向することになり、ついに接収解除の日を迎えることなく他界した。

 しかし、石渡の後を継いだ第九代帝国ホテル総料理長・常原久弥は、石渡を深く尊敬して自身を「石渡文治郎の技の継承者」と称し、第十代総料理長・一柳一雄も自分こそが継承者であると譲らず、第十一代総料理長である村上信夫も最大の恩師は石渡としてその影響を強く受けるなど、後進達における石渡の存在感は計り知れず、その料理と精神は後進に受け継がれ、帝国ホテルの料理史に大きな足跡を残した。

 なお、神奈川県の茅ヶ崎には、石渡文治郎の孫がオーナーシェフを務める「ラ・ローザンヌ」というフランス料理店がある。
 


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