西洋料理人列伝

伊藤 耕之進(1867〜1924)
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 明治〜大正にかけて、築地精養軒と並んで「西洋料理店の双璧」と言われた「東洋軒」創業者。不断の努力と優れた経営手腕で同店の繁栄を築き、数えきれないほどの名コックを輩出した。日本の西洋料理界の「育ての親」と言うべき人物

●生い立ち

 1967年(慶応三年)、長野県諏訪の士族の家に次男として生まれる。士族ではあったが農業を営み、父の金子友之助は地元の有力者で、県会議員も務め、兄の勇之進は政友会の重鎮だった。
 しかし、田舎暮らしを好まなかった耕之進は、東京で洋酒店を経営する親戚の実業家・友常穀三郎(熊本出身。家は神戸、後の東肥鉄道株式会社社長)を頼って、十四歳の時に上京する。
 ここで耕之進は精力的に働き、当時まだマイナーだった洋酒の専門知識を身に付けるが、父の訃報を受けて長野に帰郷。そこで伊藤家の養子に入り、再び長野で農業をしながら暮らすことになる。しかし、
上京の夢を捨てきれなかった耕之進は、結局、親戚が東京で成功していた牛肉料理店「今源」で働くことになる。

●「今福」の開業

 今源で見習いから再スタートした耕之進は、そこでの勤勉な仕事ぶりが認められ、1892年(明治二十五年)十一月、慶応義塾大学の前・三田四国町三番地に、今源から暖簾分けして牛鶏料理店「今福」を開業する。
 しかし、開業したものの全く客が入らず、開業して三年で、業績不振により倒産の瀬戸際に追い込まれる。耕之進は、廃業するか否か思い悩んだが、そこに、かねてより弟を励ましていた兄の勇之進より一通の手紙が届き、そこに書かれていた「あちこちと 所うごくな そこにいよ 木さえ根付けば 花も咲くなり」という短歌を読んで、諦めずに続けることを決心する。

 腹の決まった耕之進は、連日、血の滲むような努力を重ねて日々の営業に励んだ。そこに、採算度外視で、上等な食材を使っていながら破格の値段の「ABC弁当」の販売を行ったところ大当たりし、これを機に今福の名が知られるようになる。
 
1895年(明治二十八年)頃、日清戦争に日本が勝利して世間が浮かれる中にあっても、耕之進は朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いた。その働きぶりは周囲に知れ渡り、付近の者は、「あの伊藤さんの働きぶりを見よ」といって、自身の戒めにするほどだったという。
 
そうした中、三田に自宅のあった桂太郎(桂公爵。後の総理大臣)が、毎朝近所を散歩していると、その通り道に今福があった。桂は毎朝五時半頃には起床していたが、どんなに朝早くその店の前を通っても、すでに店の前の道まで打ち水をすませ、いつでも綺麗に掃除されていることに感心し、以降、今福は桂を通じて貴族・高官の贔屓の店となり、1896年(明治二十九年)には宮内庁御用達となり、耕之進はついに大成功をその手に収めた。

●東洋軒の開業

 肉料理店として成功した耕之進だったが、そこに贔屓客となっていた伊藤博文の勧めにより、1897年(明治三十年)、今福の隣に西洋料理店を開き、名を「東洋軒」とした。
 初代料理長には、当時洋食店としては第一の名声を誇っていた築地精養軒から北垣栄七郎(出身は村上開新堂)を引き抜き、徳川公爵や園田伯爵といった名士らから仕出しの料理店として贔屓にされ、瞬く間に名声店の仲間入りをした。耕之進は、毎朝必ず
魚河岸に一番乗りして自ら仕入れをするなど、ここでも自身の努力を怠らなかった。そうした努力の甲斐あってか、西洋料理店としても、精養軒・富士見軒・宝亭・中央亭などと並んで、宮内庁御用達の店に認められた。
 また、耕之進は「バー」営業の先駆者とも言われ、かつて洋酒店で働いた経験を活かし、東洋軒と共にバーの営業をはじめ、1913年(大正十一年)には、『飲料商報』という雑誌に、数十種のカクテルのレシピを紹介するなど、洋酒業界でもその名が知られていた。

 耕之進は人材を特に重視し、金に糸目をつけずに方々から優秀なコックを東洋軒に引き抜いた。東洋軒本店の歴代料理長は、後に「天皇の料理番」となる秋山徳蔵や、伝説の料理人・渡辺鎌吉の弟子で「中央亭」初代料理長の大平茂左衛門といった名手達が務めた。また、従業員を「家族」として扱って厚遇し、コックの海外留学を行うなど、育成にも力を入れた。そのため、東洋軒からは、「東京會舘」初代料理長の今川金松、「資生堂パーラー」初代料理長の飯田清三郎、二代目料理長の高石^之助、「レストラン・クレッセント」の川瀬勝博、銀座「コロンバン」創業者の門倉國輝、近衛家のハウスコックとなる三船治助、松坂屋総料理長となる中島英之介など、あまたの優れた人材を輩出した。

●大実業家として

 実業家としての才覚を持っていた耕之進は、集めた人材を活かして多店舗展開し、鹿鳴館を受け継ぐ上流階級の社交クラブである華族会館や、帝国劇場内レストラン、日本橋三越内のレストランなど、一流の場所を請け負い、関東のみならず関西方面にも支店を展開し、こうして「東洋軒」の名は全国に轟き、精養軒と並んで西洋料理店の「双璧」と謳われるようになる。

 また、洋食屋として一流の名声を手にした耕之進は、洋食屋にとどまらず、「帝国ホテルを超えるホテル作りたい」と思うようになる。
 
そこで、国際的な総合社交場の必要性を感じていた藤山雷太(東京商業会議所会頭)と、ロンドンやシカゴの劇場のように帝国劇場もホテルと直結させたいと思っていた山本久三郎(帝国劇場支配人)と手を結び、1922年(大正十一年)、ホテル「東京會舘」を開業する。
 レストランの総料理長には横浜居留地のオリエンタルパレスホテルからA.プロジャン(A.Progin)を招き、日本人料理長には、秋山徳蔵の一番弟子と言われる今川金松(東洋軒出身)が就任した。
 他にも
、青島グランドホテル取締役、大阪ホテル相談役、東京缶詰株式会社取締役なども兼任し、耕之進は、一西洋料理店の店主ではなく、大実業家としてその名が轟かせた。

●関東大震災と東洋軒の衰退

 1923年(大正十二年)、関東一円を襲った関東大震災によって、東洋軒は三田の本店を残して全てが倒壊・焼失するという憂き目にあう。関東以外にも支店はあったが、この震災によって経営そのものに大打撃を受け、直営店は全て解散することになった。耕之進は、雇い続けることが出来ない支店の従業員全員に、一律五円の退職金を出すことにし、一人ひとりに涙を流しながら手渡したという。
 本店の営業は続けられたが、震災によって関東の経済・社会的情勢も変わり、かつてのような輝きを取り戻すことは出来ず、その心労のためか、耕之進は震災の翌年、1924年に逝去。

 現在、耕之進の作った東洋軒の直営店は現存しないが、1928年(昭和三年)に、三重県の津に開業した東洋軒の支店が、現在も営業を続けている。この店は、当時の料理長だった猪俣重勝が暖簾分けして独立した店なので、耕之進の東洋軒の歴史を受け継ぐ直系の店である。

●伊藤耕之進の功績

 明治〜大正にかけて、「東洋軒系」のコックは一大勢力となり、1914年(大正三年)、東洋軒のOB会とも言うべきコックの団体、「東洋司厨士会」(通称・東厨会)が結成される。今川金松を初代会長に、秋山徳蔵らがメンバーに名を連ねた千人を超える大組織で、これが後の「日本司厨士協同会」の母体となり、それが現在の全日本司厨士協会へとつながっている。
 耕之進が、精養軒や中央亭といった他の名声店から高給でコックの引き抜きを行ったことで、精養軒支配人・五百木竹四郎と対立することもあったが、こうした競争によって業界におけるコックの待遇水準が上がることにつながり、コックの社会的地位が向上したという評価がある。さらに海外留学など人材育成にも投資をしたことで、東洋軒からは優秀な人材が多く育った。
 耕之進が海外に送り出した弟子の中には、現在も洋菓子の老舗として名高い「コロンバン」創業者の門倉国輝がいるが、門倉は日本の洋菓子史において、日本ではじめて本格的なフランス菓子を作った人物とされ、フランス政府からも文化勲章を贈られている。門倉は、勤めていた銀座の東洋軒が関東大震災によって壊滅したため退職し、独立してコロンバンを開業した。

 このように、伊藤耕之進は、まだ揺籃期にあった日本の西洋料理界を発展させることに多大な貢献をした、いわば、「育ての親」と言える。震災という不幸によって、最後の最後に挫折を味わったが、伊藤耕之進の名と東洋軒の名は、日本の西洋料理史において、不朽の存在と言えるだろう。

 


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