西洋料理人列伝

渡辺 鎌吉(1857〜1922)
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 精養軒や東洋軒と並ぶ宮内庁御用達のレストランであり、多くの名コックを輩出した名店中の名店、「中央亭」の創業者。オランダ公使館(一説によるとイギリス公使館)で西洋料理を身に付け、通称「オランダの鎌さん」
 当代随一の腕前であったといわれ、上流階級の社交場として創設された「華族会館」(現在の『霞会館』)の料理長も務めた。

●修行時代

 渡辺鎌吉の母親は、横浜の外国人居留地で働いていて、そこで異国の新しい文化や豊かさを知ったことから、息子にも仕事をさせるならば居留地のほうが良いと考えた。
 そうして渡辺は、十歳を過ぎた頃に母親の口利きで横浜のオランダ公使館に勤めることになり、そこで外国から運び込まれる西洋の食材に惹かれた渡辺は、西洋料理に興味を持ち、調理場の手伝いをするようになり、ついにはコックの道に進むことになった。

 そして、西洋料理を学ぶならばフランス料理を学ぶべきということを知って、フランス語を勉強し、その一方、世界の公用語が英語になりつつあったことも知って、英語も学び、成人する頃には英仏両国語を話し、読み書きもできるようになっていたといわれる。
 また、渡辺の親しい友人には、外務大臣・小村寿太郎お抱えのハウスコックである宇野弥太郎という人物がいて、宇野は、小村外相に同行してたびたび外遊していたため、当時としては非常に希少な本場の西洋料理を知るコックだった。
 外国に行ったことのない渡辺は、宇野を通じて本場の文化や習慣を知り、オランダ公使館で学んだ西洋料理を完成させた。(なお、この宇野弥太郎は、1911年(明治四十四年)、東京の麹町に日本で最初の西洋料理学校を開校した人物でもある)

 渡辺は料理の才に恵まれ、二十歳の頃にはすでにその腕前が広く知られ、オランダ公使館でコックをしていたことから「オランダの鎌さん」と呼ばれ、同時期にフランス公使館でコックをしていた「フランスの為さん」こと深沢為吉と並び称せらて有名になった。
 そこで、イギリス公使館で働くシーボルト兄弟(有名なドイツ医師フランツ・シーボルトの息子)と知り合いになり、シーボルト兄弟を通じて政府高官にもその腕前が知られるようになり、そして1883年(明治十六年)、明治政府が国家の威信をかけて建設した迎賓館、「鹿鳴館」の初代料理長に推薦される。
 しかし渡辺は、何故かこの申し出を断り、代わりに同じくオランダ公使館でコックをしていた義弟の藤田源吉に料理長を譲り、渡辺はその支援に回った。(ちなみに「鹿鳴館」のメニューは今でも現存し、近年にも当時の料理を再現する試みが行なわれたが、その料理は当時の日本人が考えたとは思えないほどレベルが高いメニューだった)

※渡辺鎌吉がオランダ公使館で働き、「オランダの鎌さん」と呼ばれていたことは、樺央亭の社史でもある『西洋料理事始』から引用され、これまで様々な日本洋食史において定説とされてきたが、最近、日本女子大に残されていた渡辺鎌吉直筆の履歴書には「英国公使館」と書かれていたことがわかり、定説が覆されたが。しかし、それならばなぜ「オランダの鎌さん」というあだ名が生まれたかに謎が残る。(2011/10/9)

●華族会館料理長時代

 1889年(明治二十二年)、渡辺は華族会館に料理長として招かれる。
 華族会館は、1874年に設立された華族らの社交の場で、現在は「霞会館」と名前を変え、上流階級の社交の場として今もなお存続している。また、この華族会館は、後に初代宮内庁大膳職主厨長となる秋山徳蔵が若い頃に修行したところでもある。
 
ここで渡辺は、明治政府の高官達との知遇を得て、寵愛を受けることになる。中でも内閣総理大臣となった松方正義伯爵、桂太郎、三菱財閥の総帥である岩崎弥之助らは、パトロンとして後に渡辺の独立を支援した。

●中央亭の創業

 1899年(明治三十二年)、丸の内に三菱のオフィスビル八号館が建設され、そこに三菱総帥の岩崎弥之助をパトロンとして「中央亭」を開業。渡辺自身は経営者となり、初代料理長には大平茂左衛門が就任した。
 
料理は全てコースで、その値段もおよそ一般庶民に手が出せる値段ではなく、出張料理や仕出し料理がメインで、レストランとしての利用はそれほど多くはなかった。
 これは当時としては珍しいことではなく、大衆向けの食堂は別として、築地精養軒にしろ富士見軒にしろ、本格的な洋食店の多くは、一般のレストランというより、宮内庁や政財界の高官達の宴席の料理を作る一流の仕出し料理店だった。

 はじめ中央亭は、先述の松方正義や桂太郎の自宅に出張したり、政界や軍部の官邸に出張して料理を提供していたが、その高い評価から、宮内省御用賜の料理店になり、後に宮内省御用達に指定されることになる。
 なお、御用「賜」とは、宮内省でまかないきれない場合に、仕事の一部を請け負うだけにとどまるのに対し、御用「達」となると、宮内省で行なう一つの宴席などを完全に請け負うという、非常に名誉なことだった。

●息子・彦太郎への期待

 渡辺は、外国公使館で外国人の下で料理を学び、友人・宇野との親交から西洋事情を仕入れはしていたが、自身は最後まで海外に行くことは出来なかった。しかし、西洋料理の道を歩む者にとって、本場で料理を学ぶことは誰もが夢見ることだったので、渡辺はその夢を息子の彦太郎に託した。

 そうして1905年(明治三十八年)、政界のつてを利用して、彦太郎をフランス大使付きとしてヨーロッパに料理修行に行かせることが実現する。
 彦太郎は、子供の頃より父から料理の手ほどきを受け、基本的な知識と技術はすでに身に付けていたが、そこからフランスをはじめとして、ドイツやスペインなど、西欧諸国で八年にわたって料理修業をし、1913年(大正二年)に帰国すると、渡辺は息子に中央亭を譲り、彦太郎が中央亭の経営者となった。
 中央亭は、後に経営権が明治屋の手に渡ってから全国に支店を展開するようになり、終戦後は、京橋に本店としてビアレストラン「モルチェ」と改称して明治屋ビルで営業し、フランス料理店としては銀座に「シェ・モルチェ」を開業。現在は広尾に移転して営業を続けている。

●教育者として

 中央亭を経営する傍ら、渡辺は1903年(明治三十六年)に、日本女子大学校(創立当初から大学校という名称)の講師となり、女子学生に料理の指導を行なうようになった。
 日本女子大学校は、大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥之助らを設立委員として開校され、開校当初は女学校を出たばかりの若い少女から、既婚者、教育者など、幅広い世代の女性が入学した。

 そもそも、その頃の日本では、女子に高等教育を施そうという必要性が認識されていなかったほど、日本の教育に対する意識は一般的に遅れていた。しかし、日露戦争後に、西欧列強国に追いつけ追い越せとばかりに教育に対する関心が高まり、上流階級を中心に、娘をこぞって日本女子大に入学させるようになっていた。
 そのため、当時日本女子大学校の周りには、華族など上流階級の令嬢達が通学に利用する人力車が、授業が終わって帰宅する時まで学校の周りをずらりと取り囲んでいたという。
 なお、そこで教えられていた西洋料理は、決して家庭料理やお嬢様芸といった類のものではなく、フォアグラのゼリー寄せ、鴨のロティ、ロニョンのベアルネーズソース、牛肉のフリカンドーといった本格的な料理であり、これは、社交界の出て見たことのない西洋料理に戸惑わないよう、西洋料理の食事のマナーを身に付けることが目的の料理教室だった。
 渡辺はここで、亡くなる二年前の1920年まで講師を務めた。なお、渡辺が辞した後は、中央亭丸の内本店の料理長を務めていた青柳驥が講師に就任した。

●人物像

 渡辺鎌吉は、日本の西洋料理界の黎明期にその名を馳せた先駆的存在として有名であったが、その料理へのこだわりと仕事の厳しさもまた有名で、料理に対しては、儲けることよりも、何より最高の料理を出すことを一番に考えていたという。

 そうした渡辺の料理人哲学を表すエピソードとして、中央亭があるイベントの食堂を引き受けた際、それを弟子達に任せたところ、弟子達は大きな利益を上げて帰ってきた。弟子達は、当然渡辺に褒められるだろうと思っていたら、逆に渡辺は激しく怒り、「利益が大きく上がるのは、それだけ料理の質を落としたからだ。お前らは中央亭の信用を傷つけた!」と言ったという。
 
これが、「渡辺鎌吉」というコックの料理に対する考え方だった。

 といって、金銭感覚が全くなかったということではなく、使う材料には金に糸目をつけなかったが、必ずいつも自ら厨房のゴミバケツを点検し、少しでも使える食材を見つけると、「お前ら、俺の身上を潰す気か!」と言って激しく怒り、食材を少しでも無駄にするコックはクビにした。それくらい渡辺は仕事に対して厳格だった。

 また、当時のコックとして珍しく、どんなに怒った時でも決して部下を殴ったり手を出すことはなかったが、部下に対する指導の厳しさとしつこさは尋常でなかったといわれ、何かミスをすると、渡辺はその者の耳元まで口を近づけて大声で怒鳴り続け、そのあまりのしつこさにノイローゼになる者もいたほどで、渡辺の下では三日と続かないコックも多かったといわれる。

 それでも、渡辺の見事な腕前に憧れて中央亭の門を叩く者は多く、渡辺の下から、精養軒や東洋軒で活躍し「天才」と謳われた林玉三郎、三井倶楽部の料理顧問を務めた岩堀房吉、ホテルニューオータニの初代総料理長となる小林作太郎、岩堀の後を継いで三井倶楽部料理長となった山越徳玄など、西洋料理史上名高い多くのコックを輩出した。

 晩年の渡辺は、中央亭の経営は息子の彦太郎に任せ、自身は日本女子大学校で教鞭を取り、それを1920年に辞した二年後、六十五歳でこの世を去った。

 


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