西洋料理人列伝

木沢 武男(1917〜1998)
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 全盛時代の西武グループが展開するプリンスホテル系列の全レストランを統括する総料理長として君臨した大コック。
 戦後日本の高度成長の絶頂期に、ホテルオークラの総料理長を務めた小野正吉とはニューグランド修行時代の同期であり、互いに料理長となってからも活躍を競い合った終生のライバル的存在だった。

●生い立ち

 父親は慶応大学を出て東京の水道会社の専務を務めていたという、当時としてはインテリの家に生まれる。
 しかし、子供の頃に母を亡くし、父が再婚して迎えた後妻に馴染めなかったこともあって、一日も早く自立したいと考えるようになり、十四歳で家を出る。
 東京・神田の街中でふと目にとまった「下働き募集」の張り紙を見て、飛び込みで「三好野」というお汁粉屋兼洋食屋で働くことになり、コック修行の第一歩を踏み出した。

 学校を出てはじめての仕事が楽しく、毎日懸命に仕事をしていると、その真面目な姿を見た店主に、「本当にコックの修行を積みたいならこんなところにいてはいけないよ」と言われ、1932年、新宿のレストラン「ジャスミン」を紹介される。
 しかし「ジャスミン」でも、木沢の才気ある仕事ぶりを見た君島料理長は、「本当の洋食を身につけたいなら、ホテルに行った方がいい」と言い、東洋ホテルを木沢に紹介し、木沢は東洋ホテルに入社した。

●兄貴分・入江茂忠との出会い

 東洋ホテルは1930年に日本橋で開業したばかりのホテルで、木沢が入社した時は、入江茂忠(後の横浜ホテルニューグランド第二代総料理長)が料理長を務め、この入江との出会いが、木沢のコック人生に大きな影響を与えることになる。
 
入江は非常に面倒見の良い人物で、入江は木沢を自分の家に住まわせ、入江は料理長といっても木沢と五つしか歳が変わらなかったので、木沢はそんな入江のことを兄のように慕ったという。

 そうして一年ほど経つと、入江は東洋ホテルを辞め、横浜のホテルニューグランドに入社した。当時ニューグランドは、サリー・ワイルという本場フランスの第一線で活躍していたコックを総料理長として招き、日本全国から腕利きのコックが集まって最高の料理を提供していたので、日本中のコック達の憧れのホテルだった。その時入江は、「そのうち必ず呼びに来るから」と木沢に言い、東洋ホテルを去ったという。

 そして東洋ホテルの料理長には、丸ビル精養軒から来た料理長が就任したが、その料理長が就任した一ヶ月後、木沢は丸ビル精養軒に修行に出される。
 
「精養軒」は、日本でも屈指の洋食の老舗で、関東大震災によって本店の築地精養軒が壊滅してからは勢いを失ったものの、当時の日本ではレベルの高い西洋料理を作っていた。そこで木沢はさらに高い技術を学び、その腕が認められ、1936年、再び東洋ホテルに戻ると、十九歳という若さで料理長に就任する。

●若干十九歳の料理長

 木沢は若くて経験も少く、厨房には自分よりも年上の従業員が多かったが、特別わだかまりなどは持たれることはなく、部下である先輩コックに助けられながらも、困ったことがあるとすぐニューグランドの入江に電話で相談するなどして、料理長職を大過なくこなすことが出来た。
 
しかし、相談相手の入江は、ニューグランドで新しい技術を身に付けてさらに腕に磨きをかけているのに、自分は「料理長」と言いながら、そのレベルの差を感じずにはいられず、「このままではだめだ」と思い悩むようになる。
 そんな木沢の心中を察した入江は、1937年の7月、約束通り木沢をニューグランドに呼んだ。

●東京ニューグランドで再出発

 そうして木沢は、「東京ニューグランド」で新しいスタートを切ることになった。 
 東京ニューグランドは、当時のグルメ界を一世風靡していた横浜ホテルニューグランドが、1934年(昭和九年)に開業した支店で、ホテルではなく、数寄屋橋マツダビル八階にある高級レストランだった。木沢の入社当時は、総料理長のサリー・ワイルとその補佐のアーンスト・ローゼンベルゲルの二人が交代で監督に来ていたが、実質的に厨房を取り仕切っていたのは日本人料理長の戸村誠蔵と、セコンドの前田忠三だった。

 ニューグランドでは、経歴に関係なく入社するとゼロからスタートするのがしきたりだったので、ホテルの料理長だった木沢も、再び鍋洗いからの再出発となった。
 
その時厨房には、木沢と同い年くらいのコックが十人近くいて、それぞれが我先にと昇進をかけて腕を競い合ったが、同期には後にホテルオークラの総料理長となる小野正吉もいて、木沢と小野は互いにトップクラスの腕で昇進を争い、戦後にニューグランドを離れてからも競い合う、終生のライバルとなった。
 ニューグランドでの木沢はすぐにその腕を認められ、トントン拍子で昇格し、同期でも一番早くにストーブ前という重要ポストに上がった。

●神の舌

 木沢は非常に鋭敏な味覚を持っていて、味付けについては戸村料理長から絶大な信頼を得ていた。
 
基本的に部下が仕込んだスープやソースは全て料理長が味の確認をしたが、「今日のソースを作ったのは誰だ」と聞いて、「木沢が作りました」と言うと、「それなら大丈夫だ」と言って、戸村は味も見ずにOKを出したという。
 また、木沢はブイヨンなどを仕込む時に、味が足りないと思うと、レシピよりも多くの材料を自分の判断で使用したが、そうした独自の判断も木沢には許されていた。
 
それで同僚から、木沢だけが味付けなどに料理長から注意を受けないことを妬まれ、「木沢は材料を多く使いすぎる」と文句を言われることもあったが、料理長の戸村は、「牛すね一本、余計に使いました。木沢」と書かれたメモを見て笑うだけで、それだけ木沢は料理長から信頼を受けていた。
 
また、新メニューについても、木沢が試作を担当してうまく作れないとなると、「木沢さんがやってだめなら誰が作ってもだめだからメニューから外そう」とまで言われたほどで、とにかく木沢はずば抜けた腕の持ち主だったという。

 木沢の味覚の鋭敏さを象徴するエピソードとして、後年、木沢がある食品会社のピクルスの缶詰の監修をしていた時、味見した木沢が「塩味が0.1グラムくらい足りない感じだな」と言い、係りの者が成分を分析したところ、本当に塩が0.1グラムレシピより足りなかった、という話もある。

●終戦と復職

 戦争の激化とともにニューグランドのコックも順次戦地に駆られ、木沢も徴兵されたが、体が小さかったため丙種での合格となり、戦地に行くのは後回しにされ、結局戦地には出ないまま終戦を迎える。
 
終戦後、主要なホテルは全てGHQに接収され、戦地から帰ってきたニューグランドのコックはそのまま散り散りになっている中、木沢は東京ニューグランドで復職することが出来たが、終戦後の食糧難もあって、東京ニューグランドも大幅に規模は縮小し、思うような仕事が出来ない状況だった。

 それで、一時は銀座の「ケテル」という、ニューグランド時代の同僚であったフーゴ・ケテルの店で働いたが、そうしているうちに、1950年、元横浜ニューグランド料理長の荒田勇作の誘いで、銀座のレストラン「ブリヂズトン・アラスカ」に、小野と共にセコンドとして一緒に入社する。
 このレストランは、ブリヂストンの石橋正二郎社長が「とにかく金に糸目をつけずに最高の料理を出す」という考えのもと作られた店で、東京ではナンバーワンの名声を誇った超一流のレストランだった。(なお、「アラスカ」という看板は、ニューグランド出身の飯田進三郎が料理長を務めていた大阪の名声店「アラスカ」の暖簾分けでもあった)
 荒田勇作は、横浜居留地の外人ホテルで外人コックから西洋料理を学び、ニューグランドでは、内海藤太郎らが抜けた後にS.ワイルを補佐する日本人料理長として活躍し、戦後は「ニューグランド系コックの総帥」と呼ばれたコック界の巨星であるが、ニューグランド時代の部下の中でも木沢と小野を高く買い、「木沢君は辛口料理が得意、小野君は甘口料理が得意」と評し、アラスカではそれぞれの得意料理で腕を発揮させた。

 そして1958年、荒田が銀座の「レストラン山和」の取締役副社長に就任すると、荒田の推挙を受けて木沢が「レストラン山和」の料理長に就任する。

●ホテルニュージャパンからプリンスホテルへ

 そして1960年、新しく開業したホテルニュージャパンに調理課長として入社し、まもなく料理長となり、そこで手腕を発揮して名を上げる。
 ニュージャパンでの木沢の活躍はすぐに評判となり、まだホテルオークラの料理長ではなかった当時の小野を悔しがらせた。なお、日本のホテルの双璧といえば帝国ホテルとホテルオークラなので、小野正吉のライバルといえば同時代に帝国ホテルの総料理長だった村上信夫の名がよく挙げられるが、小野本人が意識していた真のライバルは、木沢と「三越倶楽部」の山越徳玄の二人だったと言われ、オークラの総料理長となってからも小野は、「木沢がよぅ…」と、プリンスでの木沢の動向を気にしていたと言う。
 むしろ小野は、村上を自分と同格と見なしていなかったと言われ、村上は、小野のことを敬意をこめて「小野ムッシュ」と呼んだが、小野は、村上のことを、最後まで「村上さん」と呼び、ムッシュとは呼ばなかったとも言われている。

 1966年に、請われて一時レストラン山和に戻って取締役料理長に就任するが、1967年に「東京プリンスホテル」の料理長に招聘され、以降プリンスホテルグループに活躍の場を移すことになる。

 東京プリンスホテルは、1964年に開業した、西武グループが運営するプリンスホテルグループの最高位に位置づけられる本店格のホテルだったが、レストランの料理長にはふさわしい人物が見つからず、そのポストは開業時より空席となっていた。そこに白羽の矢が立ったのが木沢であり、入社は1967年であるが、事実上の初代料理長となる。
 
そして1984年、当時全盛期にあった西武グループの取締役になり、西武グループ傘下にあるプリンスホテル系の全てのレストランを統括する総料理長となる。
 
1987年、プリンスホテルを七十歳で定年退職し、1988年に叶シ洋環境開発顧問、鞄結梠S日空ホテル顧問を六年間務め、1998年に八十一歳で逝去。

 木沢の料理のスタイルは、基本を重視し、安易に流行に流されることを批判しながらも、必然性があれば時代対応すべきという柔軟な考えを持ち、コースの組み立てや宴会料理の構成において様々な改革を行った。
 また、先輩であり恩師でもある入江を尊敬しながらも、入江がワイルの教えを守って長年和食を絶っていたことに反し、木沢は「和食を食べたからといって味覚が劣化することはない」と断言し、考え方の幅は広く持っていた。

 新しいものを取り入れる発想の代表としては、ホテルニュージャパンではじめて取り組んだ「ポリネシアン料理フェア」がある。
 これは木沢がアメリカを回った時に発想したことで、レストランにおけるいわゆる「料理フェア」の先駆けとされているが、ポリネシアン料理という誰も知らない料理を説明するために木沢は自費で料理をカラー写真で撮影してメニューを作り、これも日本における写真入りメニューの走りとされている。

●名著『料理人と仕事』

 木沢の著書に、『料理人と仕事』という、コックの心構えやあり方を書き綴った本がある。
 この本は、よくある武勇伝的な自伝ではなく、料理のレシピ本でもなく、木沢が修業時代から体験してきたことそのままに、厨房という職場がどういうものか、コックとはどう学ぶべきか、どう考えるべきか、ということを率直に書き綴った本で、今もなお読者が絶えない名著として知られている。
 フランスでミシュラン二つ星を取り、日本で「コート・ドール」というフランス料理店を開業した斉須政雄料理長も、自著『調理場という名の戦場』の中で、この本を強く推奨している。
  


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