西洋料理人列伝

草野 丈吉(1839〜1886)
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 日本人による日本最初の西洋料理店といわれる、長崎「良林亭」の開業者。
 大阪や京都にも出店し、政府御用達のコックとして西日本を股にかけて活躍した、現代でいうところの「スター・シェフ」の元祖と言うべきコック。

●修行時代

 草野は長崎の農家に生まれ、オランダ総領事の使用人として務めていたが、厨房の手伝いの要領の良さが見込まれてそのままコック見習いとなり、やがてオランダ公使の調理師となった。
 そこで料理人としての頭角を現し、オランダ船に調理師として乗り込んで海外をまわり、西洋各国の料理を身に付けた。

●日本最初の西洋料理店の誕生

 1863年(文久三年)、草野は、日本最初の西洋料理専門店とされる、「良林亭」を開業する。
 この店は、日本経済界の巨人・渋沢栄一と並び称せられる大実業家・薩摩藩士の五代才助の勧めによって開いた店で、新しい物好きの薩摩藩士から愛好され、長崎奉行からは外国人の接待用の店と指定されるほどになった。
 長崎は海外との交易地であったため古くから西洋食が流入し、街の飲食店で西洋料理が供されることはそれまでにも存在したが、日本人の手による西洋料理の専門店はこの良林亭が最初とされている。(一説には日本最初の西洋料理店は函館にあったともいわれているが、明確な資料が乏しく、正確なことがわかっていない)

 1867年(慶応三年)に移転して「自遊亭」と改名し、この店は、土佐藩士・後藤象二郎の贔屓の店となり、アメリカ大統領グラント将軍をはじめ海外要人の接応レストランとして利用される、当時の飲食店としては希少かつ最高峰の存在であった。

●関西進出

 政財界の名士達相手に名声を得た草野は、後藤象二郎の引きによって大阪に進出する。
 大阪は1868年に川口波止場を開港し、その頃ちょうど川口に外国人止宿所建設が計画されていて、その開発計画の司長として、西洋人の饗応に長けた草野が抜擢されたのだった。
 そして1869年(明治二年)の天長節では、イギリスやフランス、アメリカといった五ヵ国領事、日本側では伊藤博文をはじめとする政府高官が列席した祝宴で草野が料理を担当して好評を博すなど、その手腕を遺憾なく発揮した。

 川口の開発は草野を中心として進められたが、一年で草野は独立し、旧土佐藩主山内容堂をパトロンとして、1870年(明治三年)、川口与力町に「欧風亭ホテル」を開業する。このホテルは大いに繁盛し、1871年には梅本町に移転して規模を拡大し、名前も「自由亭ホテル」と改称する。
 1881年にはさらに中之島に移転し、この時には洋式と和式の二棟からなる大型のホテルになっていて、大阪を代表する料亭としての評価を確立した。

 大阪府御用達として、大阪・神戸間の鉄道開通式の宴会を担当し、木戸孝允、岩倉具視、三條実美といった政府要人に料理を振る舞い、ロシア皇太子が観光に来阪した際にも饗応料理を担当するなど、明治初期において名実ともに日本のトップを行くコックとして草野は西日本を中心に大活躍した。

 また、1876年には、京都博覧会の開催にあわせて、京都・祇園の料亭を買収してホテル藤屋(店名は元の料亭の屋号、後に自由亭に改名)を開業するなど、京都にも進出し、さらには、出身地である長崎も往復し、自遊亭を自由亭に改名して営業を再開し、関西・長崎を股にかけて精力的な活動をした。

●晩年とその後

 草野は、大阪の自由亭の隣接地にあった料理店や温泉場を買収し、事業の拡大を図ったが、そうしたあまりに精力的過ぎる活動が祟ってか、1886年(明治十九年)に四十七歳で早世する。すでに名声を得ていたとはいえ、事業の志半ばにして倒れた草野の急逝については、遺憾の意をもって翌日の新聞でも報じられた。
 しかし、事業は長女の草野錦(きん)に引き継がれ、その努力によってホテルは名声を維持し、買収した土地は「洗心館」として完成した。

 1904年に自由亭ホテル(当時は大阪クラブホテルに改称していた)は火事によって焼失し、その営業を終えるが、それが後の「大阪ホテル」の基礎となるなど、草野の志は昭和を超えて継承されることになる。
 現在、長崎の自由亭の建物は長崎グラバー邸の園内に移築され、そこには「西洋料理発祥の地」の碑が建てられている。

 単なる雇われコックではなく、オーナーシェフとして優れた腕を揮い、ホテル経営にも才を発揮し、政財界の要人の応接を一手に任され、西日本を股にかけて活躍した草野は、まさに現代でいうところの「スター・シェフ」の元祖ともいうべき存在だったといえる。

 


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