西洋料理人列伝

ルイ・ベギュー Louis.Beguex (生没年未詳)

 日本最初の西洋式ホテルである「築地ホテル館」初代料理長。
 一流の腕の持ち主だったといわれ、横浜「グランドホテル」初代料理長、神戸オリエンタルホテルのオーナー兼料理長など、東京から神戸まで数々の名門ホテルのレストランの基礎を作り、明治初期の日本人コックに大きな影響を与えた大シェフ。

●居留地・築地での活躍

 ベギューは、横浜でホテルを経営していたフランス人、A.ラプラスの甥だった。ラプラスは、上海の一流企業で料理長を務めていたが、日本にわたり、横浜居留地で外国人向けのホテルである「オテル・デ・コロニー」を経営し、その関係でベギューも日本にやって来た。

 イギリス公使の要請により、幕府が外国人向けの西洋式ホテルの建設を計画し、1868年(慶応四年)に「築地ホテル館」が建設されると、その開業時に料理長に就任したのがベギューで、このホテルを訪れた外国人記者がその料理を絶賛した記録が残されている。
 
築地ホテル館は、1872年(明治五年)に江戸の大火で築地精養軒と共に焼失するという非常に不運なホテルだったが、ベギューは1870年に築地のオテル・デ・コロニー(別名・オランダホテル)の出資者となり、1871年の天長節に外務省が主催した外国人高官を招いての晩餐会では、ベギューがその料理を担当した。
 また、築地精養軒が開業した際には、調理指導としてかかわりをもっていたという説もある。

●横浜での活躍

 1873年に、横浜に日本最大の豪華ホテルとなるグランドホテルが開業されると、その料理長に就任する。
 グランドホテルは、W.H.スミスをマネージングディレクター、J.リオンズを支配人として開業した最新設備のホテルで、開業当初から特に料理は絶賛されていたという。
AD02.JPG - 42,469BYTES
      グランドホテルの広告(1875年)

 このグランドホテルは、後に帝国ホテル初代総料理長となる吉川兼吉をはじめ、黎明期にあった日本の西洋料理界の土台を築いた数々の名コックが修業を積んだホテルで、ある意味日本の西洋料理界の原点ともいえるホテルである。
 ただ、その経営はかなり不安定だったようで、1875年に支配人がC.ボエル、料理長はポーラン・ミュラウールに代わり、1876年には支配人がJ.レイノー、料理長がG.ガンドーベルと目まぐるしく代わり、1878年にはホテル自体が競売にかけられ、フランス人・L.ボナ(L.Bonnat)と、料理人レオン・ミュラウール(Loen.Muraour…前々代料理長ポーラン・ミュラウールの兄)の手に渡るなど、所有者は転々とすることになる。

 ベギューは、1875年にグランドホテルを辞して独立し、同年神戸にわたり、神戸の居留地121番に、オテル・ド・コロニーを建設し、一方関東でも、その翌年に東京竹川町に「カフェ・レストラン・アンテルナショナル」(日本名は「万国亭」)を開業するなど、横浜と神戸の二足わらじの事業をはじめる。
 しかし、東京では外国人向けの商売は難しいと考えたベギューは、竹川町の店を半年で横浜居留地81番に移転し、「アンテルナショナル・カフェ・レストラン・エ・オテル」として宿泊施設を併設して再開する。
 しかし、ここでも経営は芳しくなかったようで、これも半年後には競売にかけられ、ベギューは居留地5番にあった「横浜ユナイテッド・クラブ」の料理長となった。

●神戸での活躍

 1886年(明治十九年)、ベギューは夫婦で神戸に移ることを決め、神戸のオテル・ド・コロニーの隣の122番に「レストラン・フランセ」を開業し、それからようやく事業が軌道に乗り、ベギューは事業の拡大を計画して翌年80番地に新館を建設し、新しい80番地の方を本館として「オリエンタル・ホテル」と改称し、二つのホテルを経営することになる。
 この80番地の「オリエンタル・ホテル」こそ、現在の潟Iリエンタル・ホテルの前身であり、開業当初より大変評判が良かったようで、1889年に宿泊したイギリスのノーベル賞作家・ラドヤード・キップリングが、オリエンタル・ホテルの料理を「世界最高峰の料理だ」と絶賛した記録も残っている。
 
それから121番地のホテルを廃業して80番地のオリエンタル・ホテルの経営一本に絞り、1893年には隣接地の87番地の土地を買収して別館を建設し、オリエンタル・ホテルを神戸一のホテルにまで発展させた。

 しかし、ベギューはフランスに帰国することとなったため、一次オリエンタルホテルはS.E.エヴァーの所有となったが、その後イギリス人・A.H.グルームに売却し、ベギューは日本の歴史から完全にその姿を消すことになる。
 オリエンタル・ホテルはその1896年に「神戸オリエンタルホテル」に改称し、1907年にはドイツ人ゲオルグ・デ・ラランデーの設計により、海岸通り6番地に移転した。

 その後、神戸オリエンタル・ホテルは、1917年(大正五年)に東洋汽船が買収して日本の経営になり、それが後に現在の株式会社オリエンタルホテルに引き継がれていくことになる。

●関西における西洋料理の源流

 かつて、日本のホテルの西洋料理の流派と言えば、「東の帝国ホテル、横浜ニューグランド、西のオリエンタル・ホテル」といわれ、この神戸オリエンタル・ホテルこそ、その西の源流であり、その開祖がルイ・ベギューだった。
 幕末から明治初期にかけて、当時まだ未開の地であった日本にやって来るコックは決してレベルが高いコックばかりだったとは限らず、上海あたりに流れていた「落ちこぼれ」的なコックも多かったいわれる中、ルイ・ベギューの料理に関しては、その行く先々のホテルで高い評価を受けた記録が残っているので、一流のシェフであったことは間違いない。また、1890年頃に、ベギューはアリノス(F.Arnoux)という腕利きのコックをフランスから呼び寄せてオリエンタルホテルの料理長にし、日本人コックの指導にあたらせたが、『全日本司厨士協同会沿革史』によると、このアリノスの指導が、神戸の料理界に西洋料理の礎を築いたと評している。

 ベギューが帰国した後のオリエンタル・ホテルは、初代日本人料理長として黒沢為吉が就任し(オテル・ド・コロニー時代から務めていた可能性もある)、五代目には築地精養軒の全盛時代を担った名人・鈴本敏雄が就任し、昭和期には帝国ホテルや横浜ホテルニューグランドの料理長などを歴任した伝説のシェフ・内海藤太郎が料理長を務めるなど、錚々たる面々が歴代の料理長に名を連ね、神戸オリエンタル・ホテルは関西における西洋料理の原点であり最高峰としての名声を誇った。


 →TOPへ