西洋料理人列伝

ミュラウール兄弟
 レオン・ミュラウール  Leon Muraour(1845〜1913)
 ポーラン・ミュラウール
 Paulin Muraour(1847〜1912)

 東京の西洋料理界の礎を築いた「恩人」と言われる、フランス人の料理人兄弟。
 兄・レオンは、横浜居留地にあったオリエンタルホテル(オリエンタル・パレス・ホテル)の創設者。
 弟・ポーランは、グランドホテル料理長などを経て、兄とともにオリエンタル・パレス・ホテルを経営した。

●兄・レオン

 レオン・ミュラウール(ムラオール、ムラオー)は、フランスからフランス公使に付いて来日し、横浜のフランス公使館のコックを務めていた。※1
 開国当時、まだ未開の後進国である日本にわざわざ出稼ぎにやってくるようコックは、本国で職にあぶれ、上海あたりから流れてきた三流のコックが多かったと言われているが、レオンは、そういった流れ者のコックとは違い、フランス本国からフランス公使付けでやってきた一流のコックだった。
 また、1874年(明治七年)7月3日に伊豆諸島沖において、乗船していたフランス郵船・ニール号が遭難し、レオンはそこで生き残ったわずか四名のうちの一人だった。
 生還後、当時の横浜居留地において、グランドホテルに次ぐ大ホテルだったインターナショナルホテルの料理長を務めながら、1876年に東京で開業した上野精養軒の指導者として招聘され、田中清吉、塩井民次郎、小尾野善助、戸山慎一郎といった、精養軒初期の日本人コックを指導した。

 レオンは、日本では「リヨン村尾」と名乗り、日本人コックからは「オテントー」というあだ名でも呼ばれ、『全日本司厨士協同会沿革史』によると、上野精養軒が成功したのは「オテントー」の貢献が大きいと評し、『北海道西洋料理界沿革史』には、レオンの懇切な指導が東京西洋料理界の発展の上で大きな力となり、「殊に銀座街に初めてフランス料理が進出したことは、まさしくレオン村尾ことオテントー氏の直接間接の貢献であると東京司厨士界の古老は感謝を込めて語るのである」と書かれている。※2

※1 『The Japan Weekly Mail』1874年 3月28日号に掲載されたミュラウール本人の手紙に、"Formerly cuisinier of the French Minister at Yokohama, LEON MURAOUR"(前・横浜フランス公使館の料理人、レオン・ミュラウール)とある。
※2 なお、原文では「レオン長尾」と書かれているが、『全日本司厨士協同会沿革史』の物故者の欄には「リヨン村尾」と書かれていたので、発音から考えて「村尾」が正しく、「長尾」は誤植と思われる。

●弟・ポーラン

 ポーラン・ミュラウールは、1876年に来日し、はじめ横浜居留地52番にあった、L.Poitevinの経営するパンと菓子の店「Pastry Cook & Confectioner」でアシスタントをしていたが(なお、この店は、築地精養軒の初代料理長チャリヘスがかつてアシスタントをしていた店でもある)、翌年には兄レオンがシェフを務めるインターナショナルホテルに移って兄を補佐した。

 そして1879年、居留地最大のホテルであるグランドホテルで、G.ガンドーベルの後任として三代目のシェフとなる。
 ポーランはここでシェフとして大いに力を発揮し、1880年にグランドホテルに宿泊したイギリス人・C.ドレッサーは、『日本、その建築、美術、美術工芸品』という著書の中で、グランドホテルの食事のことを、パリのグランドホテルに滞在しているような錯覚をした、とまで書いている。

 1882年、ポーランはJ.Mercesseをシェフとして自身は経営側に移るが、1889年にホテルを売却した後、フランスに帰国し、カンヌのオテル・リュニベールの経営者となった。

●ミュラウール兄弟とオリエンタルホテル

 1891年、兄レオンは、居留地の87番地に「オリエンタルホテル&レストラン・フランセ」を開業する。この土地は、レオンの妻の父、C.フーツが所有していた土地で、もともと「フーツホテル」があったが、1883年にフーツが他界した後、ドイツ人・ヘフカー夫人に賃貸し、「ヘフカーズ・ホテル」として営業していた場所だった。レオンは、それを譲り受けて改修し、このホテルを開業した。なお、1872年〜1878年まで84番地で営業していたオリエンタル・ホテルはL.ボナの経営によるもので、全く別のホテルである。

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オリエンタルホテル&レストラン・フランセの広告(1894年)

 しかし、開業して三年で原因不明の火事により全焼してしまったため、海岸通りの11番地に移転して、再び「オリエンタルホテル」を1898年に建設する。
 このホテルは、東京裁判所や司法省などを設計したドイツ人、リヒャルト・ゼールの設計によるルネッサンス様式の見事な建築で、横浜でもっとも美しい建築物と称賛された。

 しかしこのホテルも、1901年に、12番地にあった中国人の洋服店からの出火によって再び焼失してしまう。
 
それでも横浜でのホテル業をあきらめなかったレオンは、ホテルの再築をはじめ、再びゼールの設計によって、1903年、今度は名前を「オリエンタル・パレス・ホテル」と改称して営業を再開し、この時から甥のジャン・ミュラウールも経営に加わっている。

 このホテルの特徴は、ミュラウール自身がコック出身だからか、もっぱら料理であり、「ホテルの格ならグランドホテル、料理ならオリエンタルホテル」という評されていたという。
 初代シェフには、後に神戸のトアホテル料理長などを務めるL.ブレヤー(L.Bullier)が就き、1906年には後に帝国ホテル第三代料理長となるA.デュロン(A.Duron)に代わり、1910年には後に東京會舘の開業料理長となるA.プロジャン(A.Progin)が就くなど、日本のホテル史上でも有名なホテルで料理長を務める名手たちが、歴代の料理長として名を連ねた。
 
このホテルの厨房で腕を磨いた日本人コックには、外人ホテル初の日本人料理長と言われる恩正長三郎、帝国ホテルの料理の名声を確立させた内海藤太郎、戦後ニューグランド系コックの総帥となる荒田勇作など、多くの優れた人材を輩出し、日本の西洋料理史においてこのホテルの存在は、グランドホテルと並んで大きい。

 そして1907年からは、フランスのカンヌでホテル経営をしていた弟ポーランを共同経営者として家族ともに呼び寄せ、ミュラウール一族によってホテルの経営が固められた。
 
しかし1909年、13番地のオッペンネーメル商会からの出火によって、またしても火災の被害を受け、今度は全焼は免れたものの、この火災の後、ポーラン夫妻はフランスに帰国し、1912年、ポーランは腎臓炎で死去する。
 その知らせを受けたレオンは大きなショックを受け、それから体調を崩すようになり、1913年にはレオンも療養のためにフランスに帰国したが、帰国すると半月も経たずに、病によって帰らぬ人となった。

 オリエンタル・パレス・ホテルは、甥のジャンが経営を引き継ぎ、1920年からは、74番地でオテル・ド・パリ(パリスホテル)を経営していたルイ.コットー(L.Cotte)も経営に加わって営業が続けられたが、1923年の関東大震災によって灰燼に帰した。

 このミュラウール兄弟は、近年の日本の西洋料理史について書かれた本や記述ではほとんどその名を見ることのない「忘れられた」存在であるが、日本西洋料理界の初期において大きな影響を与えた人物であり、後世までその名と功績を語り継ぐべき偉人であろう。

 参考文献:『日本司厨士協同会沿革史』(日本司厨士協同会)
      『百味往来』(川副保)
      『北海道西洋料理界沿革史』(全日本司厨士協会北海道支部)
      『横浜外国人居留地ホテル史』(澤護)
      『横浜居留地のフランス人社会』(澤護)
      "The Japan Directory"
      "The Japan Weekly Mail"


 


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