西洋料理人列伝

西尾 益吉(生没年未詳・1876年頃?〜1930年頃?)

 日本の西洋料理の源流ともいえる、「築地精養軒」の料理長を務め、同店の全盛期を作り出した名コック。精養軒の後には「燕楽軒」の料理長を務め、同店を東京屈指の名声店に育てた。
 明治期の日本においてフランス修行を果たした稀有なコックであり、フランスではフランス料理界の帝王オーギュスト・エスコフィエに師事した。「天皇の料理番」として知られる大コック・秋山徳蔵の師匠でもある。

●フランス帰りの男

 西尾の出生については未詳であるが、銀座のフランス料理店・清新軒を経て築地精養軒に入社し、そこでスイス人料理長カール・ヘスの下で技術を学んだ後、単身渡仏し、「ホテル・リッツ」で、当時フランス料理界を席巻していた「近代フランス料理の父」といわれるオーギュスト・エスコフィエに師事する好機を得て、帰国すると築地精養軒で料理長に迎えられたとされる。
 なお、西尾が渡仏した時期について明治末期と書いている本もあるが、弟子である秋山徳蔵が精養軒で修行していた頃にはすでに西尾は帰国して精養軒の料理長だったので、実際には明治中期頃だったと考えられる。

●日本最初のエスコフィエ導入者

 江戸〜明治期に日本に流入した西洋料理は、外国船のコックなどが持ち込んだ雑多な西洋料理が多く、フランス料理については、エスコフィエが西洋料理史に名高い「ギード・キュリネール」を刊行したのが1902年(明治三十五年)なので、文献の上でもエスコフィエの技術が日本で研究されるのは明治末期頃からであり、日本最高峰のホテルである帝国ホテル(1890年・明治二十三年開業)でも、本格的にエスコフィエ以降の料理を導入したのは、昭和に入って石渡文治郎(第八代総料理長)が渡仏してエスコフィエに師事してからのことである。

 そこに、明治中期にエスコフィエから直接その技術を学んで日本に持ち帰ったということが、当時いかに進んだ存在であったかは想像に難くない。その西尾によって、最新のフランス料理を提供する精養軒はその名声をさらに高めることになる。精養軒は、今も残る洋食店の老舗中の老舗であるが、西尾と、その後任の鈴本敏雄が料理長を務めた時代が全盛時代といわれている。
 後に日本の西洋料理界の頂点に君臨する、「天皇の料理番」こと秋山徳蔵は西尾の弟子であり、秋山が精養軒で修業していた時、フランス語でスラスラとメニューを書く西尾に憧れて、自身も師匠のようにフランスで修業することを熱望するようになり、後に私費でフランスに渡ることになった。

●晩年

 西尾はその後、取締役兼支配人として経営の中枢に列せられるようになり、当時のコックとしては異例の出世を遂げる。
 しかし、生粋の職人だった西尾は、当時の精養軒の幹部が鉱山を買ったり芸者買いをするといった放蕩経営を行なっていることに反発し、社長含む社長派の役員の排除を画策したが、抗争に敗れて西尾が精養軒を去ることとなった。

 精養軒から離れた西尾は一時、海軍省食堂の料理長を務めるが、1918年(大正七年)に本郷でフランス料理店「燕楽軒」を開業する。この店は芥川龍之介や菊池寛、久米正雄らをはじめとする文壇の名士達に愛され、今もなお伝説的なレストランとしてその名を残している。
 しかし、昭和の初めに西尾は逝去。店はその後も営業が続けられたが、戦災によって焼失し、再建されることはなかった。※西尾の没年は不明だが、1934年(昭和九年)に発行された『全日本司厨士協同会沿革史』には、故人のところに名前があり、同書の記録では、大正十四年時点で、燕楽軒の料理長は松浦辰三に代わっているので、大正末か昭和のはじめ頃に亡くなったようだ。

※なお、精養軒の料理長について、長らく第四代西尾益吉・第五代鈴本敏雄という説が広まっていたが、実際には西尾が退社した直後は、抗争相手だった五百木竹四郎が料理長に就いている(『月刊専門料理』昭和五十一年四月号より、鈴本敏雄の弟子・中島伝次郎の談)。西尾が「第四代」と言われているのは、『日本司厨士協同会沿革史』に、精養軒の歴代料理長について、「初代田中清六氏、第二代塩井民次郎氏、第三代戸山慎一郎氏、第四代西尾益吉氏」と書かれてあるのが出どころではないかと思われるが、しかし、良く読むと、築地精養軒と上野精養軒と両方のことに言及しており、この歴代料理長を書いた後に、「此れより先に築地精養軒にありて…」と書き出して、「築地精養軒司厨長たるチャーリスに就きて大いに学びたる」と書いていることから、この順序は築地精養軒ではなく上野精養軒のことを指している可能性もある。一方、『The Japan Directory』 では、築地精養軒でチャリヘスが調理長となっている時に戸山慎一郎が部下として名前があり、チャリヘスが退いた後に戸山が料理長になっているので、正確なことは不明である。
 


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