西洋料理人列伝

恩正 長三郎(?〜1903)
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 明治前期の関東の西洋料理界の頭領的存在で、日本人ではじめて横浜居留地外人ホテルの料理長になったと言われる伝説のコック。

●生い立ち

 出生年・出生地などは全く不明で、公家の落胤だとか、魚屋の小僧だったとも言われているが、定かではない。1896年(明治二十九年)の横浜毎日新聞には、明治三陸地震の「東奥海嘯罹災救助義捐金」の寄付者名簿のところに、「横濱居留地五番クラブホテル有志」として、恩正長三郎の名前が記載され、また、1897年(明治三十年)の『横浜紳士録』には「居留地五番館員」として名前があるので、その頃五番地にあったクラブホテルに勤務していたと思われる。一方、1898年の『横浜姓名録』では、横浜の長者町六丁目の牛鶏肉料理屋「あづまや」の店主として名前がある。

●オリエンタルホテル料理長として

 1898年(明治三十一年)に、居留地十一番に「オテントー」ことフランス人、レオン・ミュラウールが、オリエンタルホテルを開業すると、恩正はそこの料理長となる。『百味往来』(全厨協西日本地区本部発行/川副保編)で引用されている池山金一(富士見軒料理長)の手紙によると、「横浜の居留地の二十番はグランドホテル、十一番はオリエンタルホテルで、主人はオテントという綽名の外人、チーフは恩正長三郎さん」と書かれてある。居留地の外人ホテルというのは、経営は外人で、利用者も外人なので、そこで料理長を務めるということは、それだけ高いレベルの腕の持ち主であったことがわかる。
 さらに同書では、「明治二十年代か三十年代にかけて、関東の司厨士会は恩正長三郎氏によって牛耳られていた、と言っても過言ではない」と評し、芦沢宗太郎、針ヶ谷正太郎という、「関東における若手の双璧」と謳われた弟子がいたという。残念ながらその両名とも早世したが、芦沢宗太郎の弟子・平田秀次郎が、東洋軒や三越、大丸の食堂で活躍し、その技を後進に伝えた。

 詳しい経歴などほとんど残されていない、まさに「伝説のコック」と言える人物であるが、外人料理長が居並ぶ居留地の外人ホテルにあって日本人料理長として活躍し、1929年(昭和四年)に行われた二十七回忌の墓碑改修の寄付者には、飯田清三郎(資生堂パーラー初代料理長)、池山金一(富士見軒料理長)、青柳驥(中央亭料理長)、内海藤太郎(帝国ホテル第四代総料理長)など、錚々たる名前が並び、当時の西洋料理界において大きな存在であったことが伺える。 

 


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