西洋料理人列伝

鈴本 敏雄(1890〜1967)
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 日本屈指の老舗西洋料理店、築地精養軒の全盛時代の料理長。「名人」と呼ばれて名を馳せ、前任の五百木竹四郎・西尾益吉とともに築地精養軒の全盛期を担った。
 当時の料理人としては非常に珍しく横浜商業学校(現在の市立横浜商業高校)を卒業しているインテリで、弟子の面倒見が非常に良かった人物としても知られ、多くの優れた弟子を残した。
 戦後は森永クッキングスクールの指導者となってその技術を後進に伝えた。

●多彩な修行時代

 横浜外国人居留地のグランドホテルやクラブホテル、オリエンタルホテルといった外人ホテルで修行を積み、五百木熊吉の弟子であったという記録もある。
 また、オリエンタルホテルではフランス人料理長デュロン(後の帝国ホテル第三代総料理長)のセコンドを務め、ジロンが抜けると、そのまま料理長にまでなったとされる。
 当時の横浜居留地のホテルというのは、外国人オーナーによる外国人相手のホテルであったため、そこで出された料理は紛れもなく本格的な西洋料理であり、鈴本は若い頃よりそうした本格的な西洋料理に慣れ親しんでいたばかりか、およそ有名どころと言われるところには片っ端から足を伸ばして修行したといわれ、日光金谷ホテルや、京都の萬養軒にもいたと言われ、果ては満州のヤマトホテルでも働いていたという記録もある。 

●築地精養軒の全盛時代を築く

 神戸オリエンタルホテルで五代目料理長を務めていたところ、築地精養軒の支配人兼料理長・五百木竹四郎(師・熊吉の弟)から、料理長として招聘される。精養軒では、当時の北村社長派に属する重役の五百木竹四郎と、支配人兼料理長だった西尾益吉が派閥争いを展開し、西尾が破れて精養軒を去ったため、料理長を探していた。既に鈴本の名は業界で通っていたが、鈴本は五百木竹四郎の兄・熊吉の弟子で、竹四郎とも兄弟弟子であったので、竹四郎は鈴本を信頼していた。

 この、西尾〜鈴本時代に築地精養軒は黄金時代を迎え、特に鈴本の腕は「名人芸」と称され、コックの世界ではその名を知らぬものはないと言われるほどであったという。
 料理はもちろん、菓子においてもその腕前は素晴らしく、鈴本の作る菓子は思わずみとれるほどに美しかったという。当時東京には宮内庁御用達の料理店は何件かあったが、鈴本によって築地精養軒の名は確固たるナンバーワンの地位を築き、宮内庁からの仕出し料理の大半は精養軒が受けるようになった。
 
同じく築地精養軒出身で、後に「天皇の料理番」として日本の西洋料理界の頂点に立つ秋山徳蔵とは無二の親友で、唄を一緒に習いに行くなど、兄弟のように仲が良かったという。
 実際秋山は、鈴本の腕を自分以上と評して信頼していたといわれ、宮内庁で使用するドミグラスソースは鈴本のいる築地精養軒から仕入れたほどだったという。宮内庁の厨房だけでは対応できない大きな宴会などで、東洋軒や中央亭といった宮内庁御用達の洋食店に仕出しを発注した際、秋山自身、生粋の職人であり、そうした依頼先の仕事にも口を出さずにはいられない性分だったが、鈴本の精養軒が担当する時は、任せきりにしていたという。

●カリスマ親方

 鈴本は、弟子達の面倒見が非常によく、しかも学卒の鈴本は、当時としては稀有な「理論派」コックだったと言われ、調理技術を理論的に指導したので、鈴本が在籍した頃の精養軒からは多くの料理人が育った。代表的な弟子としては、関塚喜平(滑山創業者)、高須八蔵(「大門精養軒」社長)、中島伝次郎(宮内庁第二代主膳長)、桜井六郎(「上野精養軒」料理長)、杉本甚之助(神戸オリエンタルホテル料理長、阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任)などがいる。
 
鈴本の下で多くのコックが育ったのは、その知識や腕前だけでなく、人格によるところが大きかったといわれている。鈴本の名人芸に憧れるコックは当然多くいたが、度量の大きな親分肌の人物であったといわれ、その人格から多くのコックに慕われた。
 インテリ肌の鈴本は、いつもきちんとした身嗜みで職場に出勤し、当時のコックは腕力で上下関係を示すような者も多かったが、鈴本は決して暴力で従わせるようなことはしなかった。精養軒の従業員にも、ホール・キッチン問わず乱暴者は多かったが、鈴本はどんな弟子に対しも公平に扱って可愛がった。お金に困ったコックがいると、鈴本は気前よくお金を貸してやったが、返せなくても、返せとは言わなかった。そして、その名人芸と言われる技術を秘匿せず弟子に明快に伝授したので、そんな鈴本には誰もが平伏し、鈴本が職場に現れるとたちまち従業員の私語はピタリとやみ、鈴本の前ではどんな暴れ者のコックも襟を正したといわれる。

 さらに、1920年(大正九年)、フランスの料理書"Petite Encyclopédie du Restaurateur"(料理小百科)を翻訳した、『仏蘭西料理献立書及調理法解説』という、日本最初といえる本格的な西洋料理書を発行した功績も非常に大きい。
 この書は、コンパクトなサイズであったこともあって、フランス料理に携わるコックであれば誰もが携帯していたといわれる、コック必携の書となった。
 1962年に開業したホテル・オークラの初代総料理長を務めた小野正吉も、修業時代はこの書を愛読していて、後年、「この本が一番大切な先生だと思っていた」と述べている。(『ホテル料理長列伝』より)

●教育者としての晩年

 鈴本は精養軒を退職した後、如月会館で独立したが、馬を買うほどの競馬狂いが災いして財を失い、十二年で店を手放すことになってしまう。
 そこで、親友である秋山徳蔵の紹介により、1955年に森永キャンデーストアに顧問として入社する。そこでも鈴本は、長年体得してきた調理技術を森永のコックたちに惜しげもなく披露して絶大な尊敬を受けたので、森永は鈴本のために森永クッキングスクールを開校し、鈴本はそこで後進の指導にあたり、現役のまま1967年に他界した。
  


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