西洋料理人列伝

深沢 為次郎(1858〜?)

 明治〜昭和初期にかけて名声を誇った西洋料理店・東陽軒の創業者。
 横浜居留地のフランス公使館のコックとして名をあげ、同時期にオランダ公使館でコックとして名をあげていた渡辺鎌吉(中央亭創業者)とともに、「フランスの為さん」、「オランダの鎌さん」と並び称せられた。

●修業時代

 山梨に生まれた深沢は、十四歳で単身郷里を出て横浜に行き、1873年に横浜居留地に「グランドホテル」が開業すると、住み込みで働き、初代料理長ルイ・ベギューはじめ、フランス人コックから約十年にわたって調理技術を学ぶ。
 ホテルで修業する傍ら、フランス外交官の家のハウスコックとしても働き、そこでその腕前が知られるようになり、オランダ外交官の家で働き「当代随一」の腕前として知られた渡辺鎌吉とともに、「フランスの為さん」、「オランダの鎌さん」と並び称せられた。

●東陽軒とコック達

 深沢はその後、イギリス公使館でコックを務めた後、1887年(明治三十年)、麹町区の紀尾井町に西洋料理店「東陽軒」を開業する。
 東陽軒は開業当初は人気を博し、支店を開くほどにもなり、多くのコックがその技術を学ばんと集まったという。代表的な人物としては、水口勇次郎(甲府商工会議所レストラン料理長)、高石^之助(資生堂パーラー料理長)、水口多喜男(日航ホテル総料理長)などがいるが、深沢為次郎自身の息子・一朗、二朗もコックの道を進み、東陽軒で腕を磨いた。

 没年は未詳であるが、高石^之助が1912年(大正元年)に東陽軒に入った時にはもう鬼籍に入っていて、東陽軒は息子の一朗に引き継がれていた。
 しかし、一朗も1929年(昭和四年)に早世してしまったため、華族会館で料理長をしていた二朗氏が店を引き継いだが、そうした相次ぐ店主の交代などの混乱もあり、営業状態も奮わず、戦前にはもう(時期未詳)東陽軒は閉店することとなった。


深沢 二朗(侑史) (1894〜1962)
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 深沢為次郎の次男・深沢二朗は、東陽軒で父から手ほどきを受けた後、1912年に築地精養軒で西尾益吉の弟子となった。
 その後、海軍省や帝国鉄道協会の料理長を歴任し、1922年(大正十一年)に丸ノ内「東京會館」が開業する際には、横浜オリエンタル・パレス・ホテルから来たA.プロジャン総料理長の下でセクションチーフを務め、室町カフェー・コーザン料理長を経て、1927年(昭和二年)に華族会館の料理長となった。

 兄の一朗が1929年(昭和四年)に亡くなったため東陽軒を引き継いだが、その後、女子栄養学園の講師となり、戦後は女子栄養大学・短期大学の教授となって、戦後の西洋料理界の発展に大きく寄与した。
 また、1958年に料理の専門書・「西洋料理」を著し、これは外食業界では有数の出版社である且ト田書店の出版物第一号となった。(なお、これを出版する頃に、名前を二朗から「侑史」に改名している)
 さらには、テレビの料理番組にも度々出演するなど精力的な活動を行いつつ、現役の大学教授のまま、六十八歳で逝去した。

※『西洋料理人物語』(中村雄昂著)では、東陽軒は大正三年に倒産したとあるが、場所が銀座七丁目とあるので、その時なくなったのは支店だったと考えられる。『料理一筋九十年』(水口多喜男著)によると、昭和六年に水口氏が東陽軒で修業をはじめていて、こちらは銀座からは離れた紀尾井町とあるので、大正三年に東陽軒自体が倒産したわけではなかったと思われる。


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