西洋料理人列伝

サリー・ワイル Saly Weil(1897〜1976)
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 横浜ホテルニューグランド初代総料理長。
 スイス、フランスといったヨーロッパのホテルの料理長を歴任し、パリのホテルで料理長をしていた時に横浜ホテルニューグランドの総料理長として招かれた。
 それまで日本で知られていなかった多くの新しい西洋料理をもたらし、メニュー構成、サービススタイル、厨房組織などにおいても数々の新しい取り組みを行い、さらには日本人コックの海外修行をサポートするなど、日本の西洋料理界を革命的に進歩させ、「ワイルがいなければ日本の西洋料理界の進歩は数十年遅れたであろう」とも言われている。

●経歴

 スイスに生まれ、ローザンヌのホテル学校を卒業した後、スイスのホテルやオランダ船で世界を回りながら修行を積み、オランダのホテルでシェフとなる。
 その後、ルーアンやヴァランシエンヌ、サン・マロといったフランスのリゾートホテルの料理長を経て、パリのホテルに就任して間もない頃、支配人アルフォンゾ・デュナン氏の推薦により、横浜ホテルニューグランドの初代総料理長として来日。
約20年にわたって務めた。

●ニューグランド総料理長時代

 料理のスタイルは、残されているメニューから、当時西欧で全盛を誇っていたエスコフィエに倣ったものが多かったという。
 帝国ホテルにエスコフィエの近代フランス料理が本格的に持ち込まれたのは、第八代総料理長の石渡文治郎が1928年に欧州研修に渡ってエスコフィエの指導を受けてからなので、1927年に開業したニューグランドのほうが、わずかながら先進的な存在だった。
 
また、オランダ船やヨーロッパ各地のリゾートホテルで身に付けた、世界各国の郷土料理をメニューに加えたことも斬新だった。当時の日本ではまだマイナーだったパスタ料理や、ピカタといったイタリア料理をはじめ、オーストリアのウィンナ・シニュッツェル、ロシアのビーフ・ストロガノフなど、日本にまだ広まっていなかった世界の名物料理を提供し、若鳥のクリーム煮を「チキン・ア・ラ・キング」とアメリカ式の呼び名でメニューに載せる、といった工夫もして話題を呼んだ。
 ワイルがこうした多国籍メニューを作った
背景には、ニューグランドに宿泊する顧客の大半が外国人で多国籍であったからではあるが、ワイルがニューグランドで多国籍メニューを流行らせたことが、現在の日本の洋食レストランでも良く見られる、多国籍な「西洋料理」メニューの原型を作ったと考えられる。

●ア・ラ・カルトの開祖

 ワイルは、当時の日本人のコックが見たこともないような調理法で、食べたことのない数々美味しい料理を作り出しただけでなく、サービスのあり方や組織作りにいたるまで、多岐にわたる革新的な手法を日本に持ち込んだ。
 それにより、ニューグランドから多くの優秀なコックを輩出し、日本の西洋料理界を大きく進歩させたが、中でもワイルの最大の功績として、日本ではじめてア・ラ・カルトのメニューを本格的に導入したことがよく挙げられる。

 もともとヨーロッパのホテルや高級レストランの料理というのは、「オート・キュイジーヌ」と言われる、宮廷料理の流れを汲む格式を重んじる食事スタイルが基本で、料理はコース料理か宴会料理しかなく、明治〜大正期の日本でも、ホテルや高級洋食店では同じスタイルを踏襲し、「定食」が基本で、単品料理はメニューにほとんど存在しなかった。
 もちろん、全く存在しなかったわけではなく、東京會舘などではコース料理とは別にアラカルト(単品)メニューを表記したメニューがあったり、大衆食堂では単品料理はもちろん存在していた。しかし、まだ上流階層と大衆層が分かれていた当時の日本において、上流階層が利用するいわゆる「ちゃんとした」ホテルやレストランでは、ア・ラ・カルトメニューは一般的ではなく、単品で注文してもコースと同じ料金が取られることもあったほどで、そもそもレストランに来て一品だけ食べるということ自体が、格の下がる大衆食堂の食べ方とされていた。(こうした話は、『月刊専門料理』などで、小野正吉といった当時を知るコックらにたびたび語られている)

 そこに、ニューグランドの開業前から企画に参加したワイルは、メインダイニングとは別に、ホテルの一階に「グリルルーム」を開設することを提案した。
 
「グリルルーム」というのは、ヨーロッパのリゾートホテルなどで流行っていた新しい食事のスタイルで、メニューにはコースもあるが、「ア・ラ・カルト」と呼ばれる単品メニューが中心で、顧客は好きなものを好きなように注文することが出来、服装もラフな格好で、煙草を吸いながら、肩肘張ることなく、気軽にカジュアルに食事をすることが出来た。
 そうしたヨーロッパの新しいトレンドを知っていたワイルは、ニューグランドにそのグリルルームを設け、ア・ラ・カルトのメニューを出し、さらにそこには「コック長はこのメニュー以外の如何なる料理でもご用命に応じます」と書き、そしてワイルは客席を回って自らオーダーを取り、顧客の要望によっては即興で料理を作りもした。

 このグリルルームのア・ラ・カルトメニューこそが、他のホテルやレストランと一線を画してニューグランドの評判を決定づけることとなった。ニューグランドのグリルルームは爆発的な評判となり、他のレストランもこぞって真似をし、日本のレストラン業界、というよりむしろ、食文化に大きな変革をもたらした。
 また、
グリルルームでワイルが創作した料理の中には有名な「ドリア」(Doria)があり、また、それまで料理の付け合わせだった「スパゲッティ・ナポリタン」(Spaghetti Napolitaine)をはじめて単品料理として提供するなど、これらは今でもニューグランドの名物料理であるだけでなく、今日でも日本の洋食の定番として広く知られている。

 そしてこのニューグランドのア・ラ・カルトスタイルは、瞬く間に日本全国に広まった。例えば、1928年(昭和三年)に大阪で開業した「レストラン・アラスカ」は、開業するや否や、関西一のレストランの呼ばれるようになって全国に支店を展開したが、アラスカの最大の売りは、その味もさることながら、何といっても「アラカルト・スタイル」であった。アラスカの総料理長・飯田進三郎は、ニューグランドから引き抜かれたコック。現存する当時のメニューを見ると、まさにワイルのア・ラ・カルトメニューを継承したものであることがわかる。

●進歩的な教育体系

 ワイルが日本の料理界の発展に貢献したことの中には、コックの育成も大きかった。
 
まず、コックに品格を求め、常に清潔できちんとした身だしなみと素行をすべきとし、私生活における飲酒や喫煙についても制限した。また、「どんなに美味しい料理を提供しても、サービスのあり方一つで美味しく感じられたり、不味く感じられてしまう」と言い、自ら客席に出て顧客にサービスをし、顧客と会話し、オーダーも積極的にとった。
 当時の日本では、コックは常に厨房にいるものであり、客席に出ることなど考えたこともなかったので、ワイルのそうした仕事ぶりも衝撃的なものだった。 
 また、
当時の日本の厨房では常識だった、一つのセクションだけを修行して、一つのセクションだけで親方となっていくしきたりを排し、「魚の料理しかできない、肉料理しかできないというのは恥ずべきこと」と言って、一人のコックが全てのセクションの技術を身につけるローテーション制を導入した。(現在では当たり前のことだが、昔はローストビーフだけの親方、オードブルだけの親方というのが存在した)
 さらには、西洋料理を身に付けるには語学が重要とし、コックに外国語を学ぶことも推奨した。そのためニューグランドでは、見習いのコックであっても、語学の学校がある日は厨房の掃除や片付けもせずに学校に行くことが許された。これは、丁稚奉公的な考え方の強かった当時において非常に画期的なことで、こうした一連のことからニューグランドからは多くの優秀なコックが育った。
 
また、私財で横浜居留地のセンターホテル(旧クラブホテル)を買収してホテル経営に乗り出し、センターホテルのコックにも直接手ほどきしたため、ここからもワイルの弟子が育った。

 ワイルの代表的な弟子には、馬場久(日活ホテル総料理長)、飯田進三郎(レストラン・アラスカ初代料理長)、入江茂忠(横浜ホテルニューグランド第二代総料理長)、木沢武男(プリンスホテル総料理長)、小野正吉(ホテルオークラ総料理長)、平田醇(銀座「エスコフィエ」)、渡仲豊一郎(銀座「みかわや」)、水口多喜男(日航ホテル総料理長)、大谷長吉(洋菓子店「エス・ワイル」)、本堂正巳(札幌パークホテル料理長)、石橋豊吉(横浜センターグリル)、林久次(銀座「コックドール」全厨士長)、前川卯一(ロイヤル中洲本店(現「花の木」))など、戦後日本の西洋料理界を牽引する数々の名コック達がいる。
 また、ニューグランド開業時にはすでに料理長クラスだった、内海藤太郎(帝国ホテル第四代総料理長)や、荒田勇作(レストラン「キャッスル」)なども、ワイルから新しい料理を学び、大きな影響を受けた。

 こうした、ワイルの日本での華々しい活躍は、在留外国人によりフランスでも知られるようになり、来日二年目の1929年には、パリ料理人協会から賞状が贈られ、1937年にはフランス政府から、日本でのフランス料理の宣伝に貢献したとして表彰されている。

●終戦後

 第二次世界大戦が激化すると、ユダヤ人であったワイルは軽井沢に軟禁され、ニューグランドから離れることになる。
 終戦後はニューグランドをはじめホテルはGHQに摂取されていたため復職出来ず、米軍基地の食堂を回ったりしていたが、結局ニューグランドに復職することは叶わず、スイスに帰国した。

 スイスに帰国したワイルは食品会社に務めていたが、一番弟子と言われた馬場久をはじめとする弟子達の好意で1956年に来日を果たす。ワイルが飛行機を降りると、飛行場には50人以上もの弟子が集結して出迎え、翌日の歓迎レセプションには100人以上の弟子が集まってワイルとの再会を喜んだ。
 弟子が企画した日本一週ツアーは約一か月にもわたり、日本各地のコックから歓迎を受けて連日接待攻めにあい、講演会を行ったり、TBSの料理番組にも出演した。そして、その期間の滞在費は全て弟子達の寄金によるものだった。
 また、その後も弟子たちの招きで三度来日し、1970年に来日した際には、神奈川新聞がワイルの来日のことを「日本洋食界の恩人、スイス人、エス・ワイルさん、旧友、弟子たちが万博招待」と報じた。

●スイス・パパ

 来日をきっかけに、ワイルはスイスで日本人コックの西欧修行のための受け入れ窓口として活動することになる。
 1950年代当時は、敗戦と経済的背景から、日本人の渡航は厳しく制限されていて、今日のように誰でも手続きをすればパスポートが取得できる時代ではなかった。厳しい審査を受け、渡航先の国の大使館で面接まで受けなければ渡航許可は認められず、何より、戦時中に敵国だったフランスに行くのは、よりハードルが高かった。その上、1964年の東京オリンピックが開催されるまでは、行き先の国での「身元受入れ人」がいなければ、そもそも許可されなかったので、何のツテもない一般人が、料理修業のために個人的に渡欧するなどということは、非常に困難な時代だった。

 そこで、ワイルが身元受入れ人となってスイスのレストランに口利きをし、日本側ではニューグランドでワイルの補佐をしていた荒田勇作が窓口となって「国際調理師技術協会」を結成し、この協会とワイルを通じた「スイスルート」が、日本人コックの西欧修行の道を切り拓くことになる。そして何よりワイルが素晴らしかったのは、ワイルの斡旋は単なる「見習い」(給料の出ない、いわゆる「研修生」)としての紹介ではなく、給料の貰える職場であり、「労働証明書」の交付もサポートしたことである。それにより、ワイルの仲介を受けた日本人コックは、その職場での働きぶり如何で、次の店へステップアップすることが可能だった。

 このルートで渡った日本人コックの評判が非常に良かったことから、国際調理師技術協会はスイス司厨士協会に正式に認められ、「スイス派遣司厨士」として毎年数名派遣することになり、日本人コックの受け入れ態勢が正式に整えられていく。
 
このスイスルートでフランス修行を実現した日本人コックは多く、中西鉄治(横浜ロイヤルパークホテル初代総料理長)、今井克宏(「三鞍の山荘」)、深津泰弘(「ラ・ベル・ドゥ・ジュール」)、島崎敏夫(「レストラン・ヴィラージュ」)、東敬司(代官山「シェ・アズマ」)、黒岩功(「ル・クロ」)といった面々をはじめ、加藤信(帝国ホテルチーフベーカー)、井上旭(「シェ・イノ」)などもスイスルートで渡欧し、スイスに渡った際にはまずワイルに挨拶参りをした。また、中には、大庭巌(ホテルオークラ料理長)のように、事前の約束もなく勝手に押し掛けたコックもいたが、ワイルはそうしたコックも受け入れて世話をし、職場の手配をした。
 海外に日本人が少なく、野垂れ死に覚悟でなければ渡欧できなかった当時、
ワイルは渡欧してきた日本人コックの世話をし、困った時の相談役となっり、「スイス・パパ」と呼ばれて多くのコックに慕われた。当時、ロイヤル株式会社(現・ロイヤルホールディングス株式会社)に勤めながらスイスルートで渡欧し、帰国して帝国ホテルのベーカー長となった加藤信は、スイスにおけるワイルの存在のことを「心の支え」と述べた。

 ここから日本人コックの西欧修行時代の幕開けとなり、1960年代後半より多くのコックが西欧で修行し、そうしたコック達が修行を終えて帰国した1970年代に、第一次フレンチブームを巻き起こしていくことになる。なお、このスイス留学は1994年まで継続され、400人を超える日本人コックがこの派遣制度によってヨーロッパに渡った。(なお、荒田勇作の国際調理師技術協会は、1958年に設立した全日本司厨士協会に吸収され、同協会がスイス派遣を引き継いだ)

 ちなみに、ワイルが日本人コックを受け入れていた目的は、レストランから人材斡旋料を取るためだったのではないか?という人も中にはいるようだが、それは全く見当はずれである。どこの馬の骨ともわからない日本人を、たかだかレストランの下っ端として斡旋したところで、どれだけの金銭的見返りがあっただろうか?それに対して、スイスにやって来た、言葉もロクに話せない日本人の若僧を迎えに行き、仕事が落ち着くまで自宅で食事の世話をし、スイス中のレストランに受け入れの話をつけに走り回るのに、一体どれだけの労力がかかるだろうか?それをペイできるような斡旋料をワイルは手にしていたのだろうか?

 そうした誹謗をよそに、ワイルが日本料理界の発展のために尽くした功績は広く知られるようになり、1973年、ワイルは日本政府より勲五等を授章する。

●晩年

 晩年のワイルは不遇であったといわれ、スイス本国では世界料理コンクールの審査員や食材のバイヤーとしての活動にとどまり、シェフとして再び厨房に立つことは叶わないまま、1976年に母国スイスで没する。ワイルの自宅で世話を受けた日本人コックは、日本での高い名声に反して、スイスでのワイルの貧しい暮らしぶりに驚いたという。そして、ワイルの部屋には、これまで弟子たちがワイルに送った数々の贈り物が、所狭しと部屋中に飾られていた。
 ただそれは、スイスに帰国した時はもう五十歳を過ぎていて、ワイルが日本にいる間にフランスではフェルナン・ポワンを嚆矢に料理が大きく進化していて、戦後はその弟子のポール・ボキューズやトロワグロ兄弟といった、ヌーベル・キュイジーヌの旗手たちが台頭して新しい時代に入り、ワイルが得意とするようなエスコフィエ時代の料理は「古典」と化していった時代にあったので、無理のない話だったのかも知れない。

●ワイルがもたらしたもの

 ワイルが日本ではじめてア・ラ・カルトメニューを本格的に導入したこにより、日本のレストランのスタイルは大きく変化した。また、ワイルは、フランス料理に留まらない様々な西欧料理を持ち込んだので、ニューグランドで学んだコックは、他のホテルやレストランのコックよりもはるかに幅広い「皿盛り」の一品料理のレパートリーを持っていた。
 
こうした、気軽に一皿で食べられるカルト料理の技術は、戦後に大衆化していった街場のレストランにはうってつけだったので、1950年代〜1960年代にかけて、街場のレストランで「ニューグランド系」と呼ばれる一派が全盛を誇り、このことが西洋料理の普及と大衆化に大きく貢献し、日本の西洋食文化の発展を促した。
 昭和期の日本のホテルやレストランでは、どこの国とわからない雑多な「西洋料理」「洋食」メニューの店が多かったが、そこには、多用な西欧料理を盛り込んだワイルの影響も少なくないのかも知れない。街の古い洋食屋のメニューに、「ピカタ」や「ドリア」といったメニューがあった場合、その主人に経歴を訪ねると、その源流がニューグランド系に行きつくことは少なくない。

 また、戦後、敗戦国であり、経済的にも発展途上で、海外渡航が非常に困難であった時代に、ワイルは多くの日本人コックの海外修行の道を援助した。何のツテも保証もなく、外国語もわからない、見ず知らずの日本人コックを受け入れて世話をし、そこから、後に日本のフランス料理界を牽引する数多くの大コックを羽ばたかせた。

 こうしたことが、「ワイルがいなければ日本の西洋料理界の発展は数十年遅れた」といわれる所以である。

 ちなみに、日本で最初の料理漫画と言われる「包丁人味平」(原作・牛次郎、作画・ビッグ錠)に登場する、世界を股にかけて活躍する超一流のフランス料理人・団英彦は、サリー・ワイルの弟子という設定になっている。
 かつて日本でその名を知らない者はないほどの大シェフでありながら、いつしかその名は忘れられていったが、2005年にノンフィクション作家・神山典士氏が『総料理長・サリーワイル』を出版し、その評価が再認識されるようになった。

 


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