西洋料理の歴史

9.新しい潮流とフェルナン・ポワン


●エスコフィエ全盛

 二十世紀初頭のフランス料理界は、エスコフィエ全盛でした。
 それは、エスコフィエの料理が素晴らしかったことはさることながら、『ル・ギード・キュリネール』に代表されるエスコフィエの著書が、当時の社会背景からすると非常に貴重な存在だったからです。

 現代のように情報を容易に手に入れることが出来なかった時代、技術やノウハウというものは、一部の技術者とその弟子の間でのみでしか共有されない、極めて局地的な情報でした。
 
そこにエスコフィエは、その情報をあますところなく公開して出版したわけですから、その意義ははかり知れません。
 
しかも、世界的に認められている大シェフのルセットなわけですから、誰もがそれに飛びつき、そうして、エスコフィエの料理がフランス料理界の、そして西洋料理界のスタンダードとなり、フランス料理の完成度を評価する時、「エスコフィエの手順通りである」と言われることが、最高の料理であることの証となったほどでした。

 また、最先端のエスコフィエの技術がヨーロッパ中に広まるということは、同時にヨーロッパ中の西洋料理界のレベルが向上することも意味し、それは日本においてもその影響は多大でした。

 1927年に横浜ホテルニューグランドが開業する際にパリから招聘した料理人、サリー・ワイルもエスコフィエの影響を大きく受けたコックで、そのメニューにはエスコフィエの料理が多く入れられていました。

 そして、帝国ホテルがニューグランドに後れを取るまいと、1928年に石渡文治郎(後の第八代総料理長)らをエスコフィエの下に修業に出したり、皇室の初代主厨長を務め「天皇の料理番」と言われた秋山徳蔵もエスコフィエの下で学ぶなど、当時は日本でもエスコフィエこそがフランス料理の頂点であり、スタンダードであると認識され、誰もがエスコフィエのレシピをベースにしてフランス料理を提供していました。

●世界の料理とア・ラ・カルト

 しかし、誰も彼もが「エスコフィエ」という教科書と同じ料理では面白くありません。それに、エスコフィエがいたからといって、料理人が創造力を放棄したわけではありません。

 十九世紀中頃に蒸気船の時代が到来し、人も情報もより短時間で流通するようになり、二十世紀の初頭に至っては、第一次世界大戦をはじめ、世界中が激しく干渉しあっていた時代です。

 その結果、食の世界では、世界各国の料理が知られるようになり、特に郊外のリゾート地などでは、世界の各国料理を一皿完結で盛り付けた、いわゆる「皿盛り」の単品料理を提供する、つまり「ア・ラ・カルト」でカジュアルに食事をするスタイルが流行り出していました。

 それまでのホテルやレストランで各国料理や単品料理が存在しなかったわけではありませんが、いわゆる「オート・キュイジーヌ」は、宮廷料理が源流であり、格式と豪華さが重んじられたので、豪華に大皿に盛って取り分ける宴会形式だった、ターブル・ドート(tabele d'hote)と言って、店が決めたコースを順番に提供するのが正しい食事形式であり、一人前だけを皿盛りにして単品で食べる、というのは、レストランで食事の仕方ではなく、下層市民の粗末な食べ方とされていました。

 また、郷土料理は、言い換えれば「田舎料理」でもあったため、「品がない」という理由で、オート・キュイジーヌからは外されていました。

 しかし、封建社会が崩壊してからは、格式や見栄のためのこだわりはだんだん薄れ、ハイクラスのホテルやレストランでも、無駄な豪華さよりも味本位で料理を提供するようになり、フランス料理だけにとらわれず、味さえ良ければ世界各国の郷土料理などもア・ラ・カルトで出すようになり、それはどちらかというとパリなどの都市部ではなく、各国のリゾートホテルなどを中心に流行していきました。

 フランス革命以降、ギルドが解体されて街場のレストランが発展していきますが、花の都パリですら、十九世紀頃はまだ世界的な名声店というのはほとんど存在せず、世界の大都市にある有名ホテルやリゾートホテルのレストランのほうが名声を得ていたと言われています。(エスコフィエもモンテカルロやロンドンのホテルの料理長でした)

 日本でも、先のサリー・ワイルはヨーロッパのリゾートホテルの料理長をしていた経験があったことから、ニューグランドでア・ラ・カルトメニューを導入し、イタリアやロシア、ギリシア、アメリカの料理などを提供して話題になりました。

●フェルナン・ポワンと「新しい料理」

 そして二十世紀も進み、エスコフィエが七十歳を超え晩年期に入る頃、次世代を担う新たな天才が現れます。それは、「ラ・ピラミッド」のオーナーシェフ、フェルナン・ポワン(1897年〜1955年)です。

 ポワンがまず特徴的だったのは、リヨン郊外のヴィエンヌという田舎のレストランのシェフだったことです。
 そこでポワンは、エスコフィエの技術を基本としながらも、その土地の食材・素材に目を向け、その土地に根付いた郷土料理を積極的に自分の料理の中に取り入れました。

 素材を重視し、その持ち味を活かすことを第一と考え、そのために調理工程や盛り付けをエスコフィエ以上に簡素化しました。そして、味とは関係ない飾り付けを一切やめて、料理をより良い状態で、「熱いものは熱く・冷たいものは冷たく」提供することを身上としました。

 これは今では当たり前のことですが、かつてカレームの時代では全ての料理をまとめて出すのが当たり前であったように、それを大幅に見直したエスコフィエの料理でさえも、まだ仰々しい盛り付けや形式が多く残っていたので、ポワンはさらにその簡素化を推し進めたのでした。
 そして、定番化したエスコフィエの料理だけではなく、郷土料理と素材から新しい料理を発想して提供したのでした。

 コースにおいても、形式に重きを置かず、お客様の食事のスタイルや嗜好に合わせ、より自由な組み合わせで提供するようにしました。
 もちろん、公的行事の正餐などでは重たいコース形式は残っていますが、美味しいものを美味しい状態で適量食べる、という、当たり前の食事スタイルに移行し、前菜一品、肉料理一品、デザートというようなショートコースも生まれ、フルコースでも前菜二品、スープ、魚料理、肉料理、デザート、というように、エスコフィエよりさらに簡素化されるようになりました。

 ポワンの料理は、ルーや、ソース・エスパニョール、ドミグラスといった、小麦粉を使ってとろみをつけた古典的なソースは一切使用せず、フォン・ド・ヴォーをベースにソースを作り、とろみをつけるのに、小麦粉ではなくコーンスターチを使ったことも革新的でした。

 小麦粉を使ったソースは重たいだけでなく、どうしても小麦粉の風味が強く、どれも同じような味になってしまって素材の個性を邪魔してしまいますが、コーンスターチだと、素材を邪魔しない繊細で軽いソースが作れるからです。

 こうしたポワンの料理は大変な話題となり、世界中の美食家達がリヨンの片田舎にある「ラ・ピラミッド」を訪れました。

 そして、多くの料理人がポワンの手法を倣い、ポワンの下で学び、このポワンからはじまる新しい料理の手法は、当時「ヌーベル・キュイジーヌ(新しい料理)」と呼ばれ、フランス料理の新しい潮流となりました。

 


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