日本の西洋料理の歴史

1. 日本の洋食の起源


●日本における西洋食のはじまり

 日本に西洋料理が入ってきたのは、漂流してきた外国人が伝えたり、交流のあった中国から伝わったりと、かなり古くからあったようですが、はっきり伝播したと言えるのは、十六世紀にポルトガル船が長崎に来航し、貿易をするようになってからと言われています。
   
 ただ、日本では七世紀の天武天皇の時に、獣肉を食べることを禁止していたため、獣肉料理を主菜とする西洋料理は、日本人に受け入れられませんでした。
 これは、肉食を禁じる仏教思想の影響によるものでしたが、特に江戸時代になってから、幕府は国の宗教を統率するために、「寺請制度」というものを設け、全ての人がどこかの寺の檀家に入ることを義務付けました。つまり、日本人全員が仏教徒になることを義務化したため、結果的に日本全体で肉食が忌避されるようになりました。
 実際には、田舎や猟師のローカル食として肉食は存在し、江戸の町にも「けだもの屋」「もゝんじ屋」といった鹿や猪の肉を扱う店があり、特に鹿児島などでは猪や豚がよく食べられていたので、完全に存在しなかったわけではありませんが、それは公に認められたものではなかったので、現代でも馬肉を「さくら肉」、猪鍋を「ぼたん鍋」と言うことがあるのは、そうした時代に、肉料理のことを隠語使って呼んでいたことの名残です。なお、「もゝんじ屋」の看板を出す店は、現在でも両国に存在しています。

 こうした背景から、日本では明治時代になって公式に肉食が解禁されるまで、外国から西洋料理が持ち込まれても、一般に広まることはありませんでした。
 そもそも、江戸時代になって日本は鎖国をしたため、食に限らず、日本に西洋文化が流入する窓口は、唯一貿易が認められていた長崎だけだったからでもあります。日本の中で西洋文化が存在したのは、外国人が駐留している長崎の出島の中だけにとどまり、しかも交易が許されていたのは、オランダと中国に限られていました。(実際には、幕府に隠れて薩摩藩は貿易をしていましたが、あくまで非公式な活動であったので、それが全国に影響を与えるほどには至りませんでした)
そうした、ごく限られた中でも、出島の外国人から見聞きして、西洋料理の知識や技術を身に付けた日本人はいたかも知れませんが、現在の西洋食のルーツになったとはっきり言えるような記録は残っていません。

●黒船の来航と洋食との出会い

 日本に西洋料理が本格的に流入するのは、江戸時代の末頃からです。
 1853年(嘉永六年)にペリーの黒船が来航し、その翌年に日本はアメリカと日米和親条約を締結し、アメリカに対して静岡の下田と箱館(現在の函館)を開港し、イギリスとは日英和親条約を締結して長崎と箱館を開港し、ここで日本は長い鎖国時代を終了して開国することになります。
ただ、開港当時は物資の補給などが中心で、外国人の日本での居住は認めてはいなかったため、この時点ではそれほど急速には西洋文化が流入しませんでした。
 しかし、ここから日本国内はいわゆる「幕末」を迎え、開国論や攘夷論で大争乱となります。

 そして、1958年(安政五年)、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとそれぞれ修好通商条約を締結し、その後ポルトガルやプロイセン(ドイツ)とも同様の条約を締結します。
 これにより、安政の大獄や桜田門外の変が発生するなど、国内は争乱期にありましたが、この条約で箱館・新潟・横浜・神戸・長崎の5つが開港地となり、そこには外国人居留地や各国の公使館が設けられ、外国人の居住権が認められました。また、東京の築地と大阪の川口は開市場になり、そこにも外国人居留地が設けられました。
 ここから、日本国内に西洋文化が本格流入していくとともに、そうした居留地で働く日本人も現れ、日本人と西洋人との交流が急速に進みます。

 そして、幕府や新政府の日本の外交官に対して、欧米各国の船上での節応では西洋料理が振る舞われ、文久遣欧使節にはじまる日本人の欧米渡航では、使節に参加したメンバーの日記に「洋食」という言葉が記され、はじめて触れた西洋料理に対する驚きが書かれるなど、日本人の中に西洋料理が少しずつ認識されるようになります。
 ここから、日本の食文化が西洋食文化の影響を受けて大きく変化していきます。

 

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