日本の西洋料理の歴史

2. 外国人居留地と日本最初の西洋料理店


●外国人居留地

 日本における西洋食文化のルーツとなると、開国によって設けられた外国人居留地をおいては語れません。
 開国時の日本は、西欧列国に比べ、文化的にも軍事的にも劣っていたため、対等な外交関係ではなく、日本にとって不利な不平等条約を結ばざるを得ませんでした。そのため、外国人の住む外国人居留地は、日本の法律が適用されない完全に治外法権の地域だったので、日本人はおいそれと立ち入ることは出来ず、完全に「日本の中の外国」になっていました。
 そこには、各国の領事館といった政治的な施設だけでなく、外国人貿易商の商館が並び、そこで働く外交官や商人、そしてその家族達の住宅街がありました。また、そうした人々が生活していくための食料品店や衣料品店、子供のための学校なども開かれ、管弦楽の音楽教室やピアノの調律所といったものまで開かれるなど、外国人による、外国人のための街として発展していきました。現在の横浜のフェリス女学院や東京の青山学院大学などは、そうした居留地に作られた外人学校が前身です。

 また、当時の西洋人にとって、質素な上に肉食をしない日本の食環境では、日々の食生活に非常に不自由したため、外交官や富裕な商人は、ハウスコックを伴って来日したり、コック自身が経営者としてホテルや商店を作ることも多く、そうした外人コックが、日本における西洋料理の最初の伝道者となりました。

 西洋料理のコックといっても西洋人とは限らず、中国人コックも多くいました。当時フランスやイギリスはすでに中国に進出し、1840年にイギリスと中国(清)の間で勃発したアヘン戦争で中国は敗北し、香港をイギリスに割譲するなどしていたので、中国では日本より早い時期から西洋文化が進出し、西洋料理を身に付けた中国人が多くいたからです。1878年(明治十一年)に日本に滞在した女性作家のイザベラ・バードは、"Unbeaten Tracks in Japan"の中で、東京のイギリス公使館のコックは中国人であったと書いています。
 日本に来た西洋人には中国経由で来る者も多く、漢字のわかる中国人が通訳として多く連れられ、そうした中国人達が、開港地である横浜や神戸、長崎に、中華街を形成しました。

 西洋文化の取り入れが最も早かったのは長崎です。
 長崎では鎖国時代から貿易を行っていたので、居留地が設けられる以前から出島には外国人が住居し、福砂屋(1624年創業)の「カステラ」に代表されるように、食文化においてもかなり早くから西洋の影響を受けていたことはよく知られています。
 ペリーが来航したその翌年の1854年には開港し、もともと西洋との接触があって使い勝手が良かったので、開国直後は最も外国人が渡来して活況を呈していました。

 しかしながら、居留地の中で最も栄えることになるのは横浜です。
 その理由はやはり、日本の中心地である東京(江戸)が最も近く、開港時期も1859年とかなり早い時期でした。(神戸の開港は1868年)5つの居留地の中で、居住者の数は圧倒的に横浜が多く、横浜に比べれば、他の居留地はその何分の一以下の規模しかありませんでした。
 
 開港する前の横浜は、百戸程度の人口しかいない小さな漁村に過ぎませんでしたが、開港したことで貿易によって栄え、多くの人が集まるようになりました。
 市場としては東京の築地も開かれていたのですが、築地は開港地でなかったのであまり発展せず、最初は築地の居留地に住んでいた外国人も横浜に移るようになり、横浜が日本最大の貿易市場として栄え、1872年(明治五年)には、日本で最初の鉄道が、横浜駅(当時の場所は現在の桜木町駅あたり)・新橋駅間で開通し、横浜はますます繁栄しました。
 築地に港を作らず、あえて東京から少し離れた横浜に港を開いたのは、江戸に近い場所で外国人が乗り入れしてくることを幕府が恐れたからだと言われています。

 そしてその時、横浜に在居していたアメリカ初代総領事タウンゼント・ハリスの通弁官を務めていた、ヘンリー・ヒュースケンの家で使用人として働き、そこで料理技術も身に付けた小林平八が、日本における洋食コックの先駆けと言われています。

●日本最初の西洋料理店

 そしてここに、草野丈吉という人物が登場します。
 草野は、長崎のオランダ領事館で使用人として働くうちに西洋料理の技術を学び、さらにコックの下働きとしてオランダ船に乗り込んで修行を積んだとも言われ、1863年(文久三年)、日本人による最初の西洋料理店とされる「良林亭」を長崎に開業します。

 日本の西洋料理史における初期の西洋料理人達は、こうした居留地の外人館や、外人ホテル、外国船などで調理技術を身に付け、そうした中で最初に独立した日本人が草野でした。
 また、良林亭が開業した二年後の1865年(慶応元年)には、藤屋長之助が長崎の伊良林に「藤屋」、福屋藤七が小島郷に「福屋」、といった西洋料理店を開業しています。

 良林亭は、薩摩藩の支援のもとに作られた店で、その後「自遊亭」「自由亭」と名前を変えますが、長崎の外国人の接待にも用いられ、大変繁盛しました。
 自由亭は、アメリカ大統領グラント夫妻を接待するなど、海外賓客を応接する日本第一の西洋料理店として名声を誇り、今でいう「オーナーシェフ」であった草野は、五代才助や後藤象二郎と言った歴史上の大人物に可愛がられて新政府のお抱えのコックとなり、その後、大阪や京都でも店やホテルを開いて大活躍し、日本の西洋料理史上最初のスターシェフとしてその名を残しました。
 
草野は、1886年(明治十九年)、まだまだ事業拡大の波に乗っている最中に、四十五歳で病に倒れてしまいましたが、この「自由亭」は、今でも長崎のグラバー邸の中に保存されていて、そこには「西洋料理発祥の地」の碑が建てられています。             

 

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