日本の西洋料理の歴史

3.居留地の外人ホテル


●ホテルと日本旅館との違い

 日本の西洋料理のルーツとして、最も大きな存在の一つが、外国人居留地内に建設された「外人ホテル」です。
 西洋からもたらされた「ホテル」という概念は、単なる洋風の宿泊施設というだけでなく、日本文化に大きな変革をもたらしました。

 それまでの日本にも、もちろん旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しましたが、西洋人にとっての「ホテル」は、日本の宿泊施設とは根本的な考え方から異なっていました。
 まず、一番に挙げられるのが、セキュリティの違いです。
 いわゆる昔の日本式の旅館は、部屋に鍵が存在せず、しかも紙の障子で隔てているだけ、というようなものも少なくありませんでした。開国当時に日本を訪れた外国人が日本の家屋を見て、「日本人は木と紙の家に住んでいる」と言い、その気になれば簡単に壊せるような簡素な造りで、おまじないくらいにしか思えない「かんぬき」程度の戸締りで暮らしている日本人を、「何と善良な国民だ」といって驚いたそうです。
 家や宿泊施設にセキュリティを求めるのは現代では当たり前のことですが、日本の時代劇などでも、旅館の一室などにサッと障子を開けて突然討ち入りしてくるシーンがあるように、かつての日本旅館の造りは現代の感覚からするとかなり無防備で、そうした日本の旅館では、西洋人は安心して寝泊りすることが出来なかったのです。

 西洋人の感覚としては、寝泊りする場所では個人の安全とプライベートが守られ、安心して寛ぐことの出来る「パーソナルスペース」であることが大前提で、それを満たすものが「ホテル」でした。
 西洋人にとって、当時の日本の宿泊施設は、貧しい人々が集団で寝泊りする木賃宿のように見え、開国を前後して日本に訪れた外国人の日記などには、日本の宿泊施設に対する不満や精神的苦痛が書かれたものが多く残っています。
 こうした背景から、渡航してきた商人や旅行者にとって西洋式ホテルの存在は不可欠となり、居留地には、外国人らによって多くの外国人用のホテルが建設されました。

 また、西洋においてホテルというものは、単に寝泊りするためだけの場所ではなく、社交の場であり、総合娯楽施設でもありました。そのため、寝室以外にレストランやバー、ビリヤード場といった共用の娯楽施設を備えているのが当たり前でした。
 食事方法にも明確な違いがあり、日本の旅館では現在でも自分の部屋で食事をするのが一般的ですが、西洋のホテルには必ずレストランが併設されていました。
 この背景には、西洋料理が宮廷の宴会料理として発達したことにも由来しますが、西洋人にとってのレストランは単なる食堂ではなく、社交の場でもあったので、そのレストランがどれだけ立派であるかは、そのホテルの格を決める上でも重要な要素のひとつであり、上級なホテルのレストランはフランス式であることがスタンダードでした。

 西洋においてフランス料理がスタンダードである理由は、宮廷料理として高度に発展したレベルの高さが最大の理由ですが、特に、1814年にヨーロッパの主要国が集って開催されたウィーン会議において、フランスの外相タレーランが連日宴会を開いて各国の要人を招き、フランス料理を振舞ったことがきっかけと言われています。天才料理人アントナン・カレームの手による壮麗なフランス料理に各国の代表者達は酔いしれ、その料理接待によってタレーランは外交策を有利に進めたといわれ、そこからフランス料理の秀逸さが世界的に知れ渡り、他国でも接遇での料理にフランス料理が重用されるようになりました。(現代においても欧米での公式な正餐でのスタンダートはフランス料理)
 こうした背景から、居留地に作られた外人ホテルの広告には、"French Chef de Cuisine"とわざわざ書かかれたものも多く、当時はレストランがフランス式であることはセールスポイントになっていました。

 居留地に作られたホテルは、経営者や支配人・料理長といった経営陣はみな外国人でしたが、使用人としては多くの日本人が働いていて、そこで外国人シェフの下働きをして洋食の技術を身に付けた日本人コック達が、日本の洋食の開拓者として後に活躍していくことになります。
 
こうした外人ホテルのレストランが、日本における西洋料理史の源流となります。

●日本最初のホテル

 日本で最初の「ホテル」と呼べるものは、横浜の居留地にあった「横浜ホテル」(フフナーゲル・ホテル)と言われ、1860年(万延元年)開業という新聞広告があります。
 創設者はC.J.フフナーゲルというオランダ船の元船長で、造りは洋式ではなく和式の日本家屋で、寝室は非常に質素なものでしたが、レストランやバー、ビリヤード場などを設置し、立派にホテルの体裁を備えていました。
 次に有名なのが、1863年(文久三年)にイギリス近衛海兵隊中尉・W.H.スミスが開業した「横浜クラブ」(後の横浜ユナイテッド・クラブ)で、それ以降、日本に移住してきた外国商人や軍人などによって、数十軒のホテルが横浜の居留地に建設されました。

 長崎では、1863年(文久三年)に、イギリス領事官の警官・マシュー・グリーンの妻、エリザベス・グリーン夫人によって「長崎ベル・ビュー・ホテル」が造られます。ビリヤード場からボーリング場まで備えた立派なホテルで、1898年(明治三十一年)に長崎ホテルが建設されるまで、長崎一のホテルとして名声を誇りました。
 このホテルからは、帝国ホテル初代総料理長となる吉川兼吉、京都の都ホテル初代料理長となる黒沢為吉などを輩出しています。

 1868年(明治元年)に開港した神戸では、最初に建築されたホテルは、開港した年に建設された「グローブ・ホテル」と言われていますが、開港期の記録がほとんど残されていないため、詳細はわかっていません。
 明確な記録があり、かつ有名なのは、1870年(明治三年)にプロシア(ドイツ)人、G・ファン・デル・フェリエスによって七十九番地に創設された「オリエンタルホテル」です。
 このホテルは、ビリヤード場やボーリング場まで兼ね備えた立派なホテルで、横浜グランドホテルの初代料理長を務めたルイ・ベギュー(L. Beguex)が後に買収し、ベギューが八十番地に建設していた「ホテル・ド・コロニー」(居留地ホテル)と合併したものが、現在の「神戸オリエンタルホテル」になりました。
 このオリエンタルホテルは、腕利きのコックであったベギューの手によって特に料理において高い評判を得て、イギリスのノーベル賞作家・ラドヤード・キップリングは、1889年(明治二十二年)に宿泊した際に、「世界最高峰の料理」「シンガポールのラッフルズホテルや香港のビクトリアホテルを凌駕するホテル」と評しました。

 いずれにせよ、明治初期に誕生した外国人ホテルは、あくまで外国人による、外国人のためのホテルであったため、そこのレストランでは、やはり外国人による、外国人のための西洋料理が提供されました。            

 

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