日本の西洋料理の歴史

4.肉食の解禁と牛鍋


●肉食の解禁

 明治を前後して、草野のように西洋料理店を開業する日本人が次々と現われます。
 しかし、まだまだ肉食や西洋文化自体に抵抗のある日本人が多い上に、当時は西洋料理の材料は非常に貴重であったため高価になりすぎ、商売として軌道に乗らず、ほとんどが短期間で閉店しました。横浜でも、長崎で調理技術を身に付けたといわれる大野谷蔵が外国人向けの西洋料理店を明治初頭に開業していましたが、客がつかずに短期間で閉店しました。

 一方、日本政府は、欧米各国と不平等条約を結ばざるを得ない状況から早く脱却し、西欧列国と対等な関係になるために、「富国強兵」「文明開化」をスローガンに、あらゆる面において日本の西洋化を進めました。
 それは、すでに欧米諸国によって植民地化されているアジアの国々のことを知っていたので、一日も早く西洋の最新の技術や文化を吸収し、先進国の仲間入りをすることが急務だったからです。
 また、それまでの日本は、神道と仏教が混在して一つの宗教になっているような状態だったので(神仏習合)、神道と仏教を区別し、神道を日本の国教として明確にする動きが明治初期に盛んに行われました。1868年(慶応四年)には神仏分離令、1870年(明治三年)には大教宣布が発布され、それによって引き起こされた廃仏毀釈の流れで、僧侶であっても妻帯し肉食することが公に認められました。そして、1872年(明治五年)一月二十四日には、明治天皇自ら肉膳をとったことが国民に報じられました。

 西洋人との外交が本格化したため、明治政府は、西洋の賓客を接遇するための施設として1869年(明治二年)に「延遼館」を建設し、英国王子を接遇するなどしていましたが、その時用いられた料理は日本料理でした。
 しかし、西洋における饗応料理のスタンダードはフランス料理なので、外務省は日本でも正餐にフランス式を取り入れることを決め、1873年(明治六年)八月二十三日、明治天皇がイタリア皇帝エマニュエル二世の甥ゼーン公と会食するにあたり、天皇陛下が主催する正餐としては初めてフランス式が用いられました。
 これを契機に、公式な応接の作法は全て西洋式とし、料理も西欧と同じくフランス料理に定め、1875年(明治八年)には、宮内省の料理人だった松岡立男を、横浜居留地八十四番にあったオリエンタルホテルのオーナー兼コックのL.ボナ(L.Bonnat)の下に洋食修行に出しています。
 そして国民にも西洋食を奨励し、様々な面において、日本人が西欧列国の人間と対等に付き合えるようにすることを目指しました。
 
この頃から、日本文化の西洋化が急速に進みます

●牛鍋の誕生

 このように、国策によって西洋文化・そして西洋料理が注目される中、西洋人が持ち込んだ新しい食材である「牛肉」を使った日本独自の新しい料理が誕生し、その代表が「牛鍋」で、今の「すき焼き」の原型となる料理です。
 西洋の調理法そのままの味付けの洋食は、当時の日本人には簡単に受け入れられませんでしたが、醤油や砂糖を使って日本的な味付けにした牛鍋は日本人にも馴染みやすく、大ヒットしました。これは、肉食を忌避していた明治以前にも、実際には獣肉を鍋などにして食べている人々は密かにいたため、いざ肉食が解禁されれば、牛肉を鍋にすることは自然な流れだったわけです。

 牛鍋屋の元祖は、1862年(文久二年)に横浜で開業した「伊勢熊」という説がありますが、医学者であり慶応義塾大の創設者である福沢諭吉は、大阪の「適塾」の塾長だった1857年(安政四年)の頃にはすでに大阪にあった牛鍋屋の常連で、健康のために肉食を勧めていたという記録が残っているので、牛鍋屋の発祥地は関西方面だとも言われています。
 もともと関西では、滋賀県に江戸時代から「薬」として将軍家に献上していた「近江牛」などの食肉があり、食肉用の牛を飼育・販売する文化が開国前から存在しました。
 開国当時の関東での食肉牛は、近江商人から買い付けるか、外国船による輸入によって調達していて、関東で最初の屠牛業者は、1867年(慶応三年)に、三河(静岡)出身の商人・中川嘉兵衛が新橋に開いた「中川屋」とされています。

 牛鍋がヒットしたと言っても、当初牛肉は希少であったため、誰でも口に出来るわけではありませんでしたが、戯作家の仮名垣魯文(1829〜1894)が、「牛鍋食わねば開花不進奴(ひらけぬやつ)」と『安愚楽鍋』に書いたように、牛鍋は文筆家や知識人といったハイカラな人々を中心に流行していきました

 

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