日本の西洋料理の歴史

5.日本のホテルのはじまり


●「築地ホテル館」と「築地精養軒」

 開国前の日本には西洋人を満足させられるような宿泊施設がほとんどなかったため、イギリス公使が幕府に洋式ホテルを建築することを要請したことにより、1868年(慶応四年)、江戸から最も近い外国人居留地のある築地に、日本人の手による初の洋式ホテル「築地ホテル館」が建設されました。
 設計は日本の西洋建築の祖とされるアメリカ人建築家・リチャード・P・ブリジェンス、
施工は清水屋(現・清水建設)二代目・清水喜助でした。(なお、工事途中に幕府が大政奉還したため、ホテル事業は新政府に引き継がれた)

 この築地ホテル館は、洋式の技術に和風の装飾を施した和洋折衷の見事な建築で、百を超える客室にレストラン、ビリヤード場を備え、レストランの料理長には、後に神戸のオリエンタルホテルの経営者となるフランス人コック、ルイ・ベギューを迎え、このホテルに滞在したイギリス人・サミュエル・モスマンは、「欧米の最上のホテルに匹敵するホテル」と評しました。

 また、岩倉具視の側近であった北村重威も、欧米賓客を応接出来るレストランとホテルの必要性を感じ、1872年(明治五年)に「築地精養軒ホテル」(現在の「上野精養軒」。なお、開業当初にはまだ宿泊施設はなく、名前は「西洋軒」だったという説もある)を開業します。
 このホテルのレストランはフランス料理店で、初代料理長にはスイス人コックのカール・ヘス(C.j.Hess、通称チャリヘス)を迎え、他に西洋料理に通じた中国人コックも雇っていました。

 ただ不運なことに、この築地ホテル館も築地精養軒ホテルも、1872年(明治五年)の銀座の大火によって焼失し、精養軒に至っては、開業わずか一日で全焼するという残念な有様でした。
 しかし、築地精養軒はその年のうちに再建され、当時の日本では最高の洋食を提供する店として高い評価を得るまでになりました。
 やがて、このレストランから多くの優秀なコックを排出し、1890年(明治二十三年)に帝国ホテルが開業した際には、精養軒から多くのコックを引き抜かれたと言われ、日本の西洋料理界に多大な影響を与えたレストランのひとつとされています。
 また、1876年、上野に支店を出した際には、横浜居留地のフランス人コック、レオン・ミュラウール(L.muraour、通称オテント。「リオン村尾」とも呼ばれ、後に横浜オリエンタルホテルの経営者となる)が指導にあたり、そこで多くの日本人コックが懇切な指導を受け、東京の街に西洋料理の基礎を築くのに、オテントの存在が大きな力になったと言われています。
 
 なお、築地ホテル館の料理長だったルイ・ベギューは、1873年(明治六年)に開業する横浜居留地二十番のグランドホテルの初代料理長を務め、さらにその後に神戸に渡り、「オテル・ド・コロニー」(後の神戸「オリエンタルホテル」)を建設します。
 また、築地精養軒初代料理長のチャリヘスは、築地でフランスパンの専門店「チャリ舎」を開業して弟子を残し、日本におけるフランスパンの開祖としてもその名を残しました。
 ベギュー、チャリヘス、オテントの三人は、洋食黎明期の東京に西洋料理の火を灯した恩人と言えるでしょう。

●「鹿鳴館」とその料理

 欧米列国から後進国と見なされている状況から脱却したかった政府は、日本の文明開化を誇示するために、1883年(明治十六年)、歴史上にも名高い迎賓館「鹿鳴館」を開館します。
 「鹿鳴館」は、学校の教科書などに掲載されている絵の印象から舞踏会場のように思われがちですが、贅を尽くした宴会場や宿泊施設、バー、そしてビリヤード場まで備えた立派な総合ホテルでした。
当時の鹿鳴館の宴席で出されていたメニューは現存し、その内容は、ポタージュにはじまり、オードブル、魚料理、肉料理、グラニテ、ロースト、そしてサラダ、アントルメ、というように、正式なフランス料理の形式に構成されています。1975年(昭和五十年)に、フランス料理店「クレッセント」の川瀬勝博料理長が、鹿鳴館の料理を当時のメニューから再現した際、「このメニューを作ったのは西洋人で、かなりなコックだったでしょうね。当時の日本人は、こんなもの作れなかったと思います」と語っているように、この時期の日本ではもうかなり本格的なフランス料理が作られていました。
 ただ、当時の鹿鳴館の料理長は藤田源吉という、オランダ公使館で西洋料理を身に付けた、れっきとした日本人であり、このことから、外国人館や外国船で学んだ程度といえども、明治期の日本人コックはすでに、かなりのレベルで西洋料理を身に付けていたことが伺えます。

 しかし、あまりに急速な西洋文化への傾倒ぶりと、そこで行われる宴会が贅沢過ぎたため、「おっぺけぺ」の歌に代表されるように国内で痛烈な批判を浴び、外国からも猿真似と皮肉られるなど、政府が期待した役割を果たすどころか、大きな不評を買うことになりました。
 また、鹿鳴館の建物はイギリス人建築家のジョサイヤ・コンドルが設計しましたが、コンドルは日本に来て東洋美術の素晴らしさに感銘を受け、当初は日本的なデザインを取り入れた和洋折衷の設計をしていたのですが、政府はヨーロッパに建ち並ぶような純西洋建築物となることを期待していたため、意見が衝突して何度も設計のやり直しが発生し、結果的に中途半端なデザインとなってしまい、建築物としても高い評価を得ることが出来ませんでした。

 そうして、鹿鳴館はわずか三年で組織が解散し、部屋は貴族の社交クラブや宴会場として貸し出されるようになり、七年後には華族会館(皇族や元大名家らの交流の場として1874年に開かれた社交場。現在の「霞会館」)に売却され、鹿鳴館はその名を消しました。
 なお、この時、料理長の藤田源吉は、鹿鳴館の部屋を借用した東京倶楽部(現在も存続する上流階級の社交クラブ)の専属料理長となりました

 

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