日本の西洋料理の歴史

6.西洋料理のメッカ・横浜


●横浜居留地の外国人ホテル

 日本における西洋料理史を語る上で、最も重要な位置付けにあるのは、何といっても横浜です。開港地の中で最も江戸に近かった横浜は、外交官や貿易商人など、外国人居住者の数は、神戸や長崎といった他の開港地よりも何倍も多く、最も西洋文化が発展した街でした。    
 中でも、外国人が住む居留地は治外法権だったので、そこにある施設は全て、外国人による外国人のためのものであり、居留地にあるホテルやレストランの経営者や料理長は当然外国人で、利用者も全て外国人でした。

 とはいえ、この時代に、欧米からしてみれば全くの未開の地である日本にわざわざやってくるようなコックは、必ずしも一流のコックではなく、決まった職場を得られない流れのコックが多かったと言われています。ただ、それでも外国人による外国人相手の商売だったので、レベルの高低はあったにせよ、そこで提供されていた料理は正真正銘の西洋料理であったことは間違いないでしょう。

 横浜居留地は現在の関内・山下町あたりにあり、居留地のホテルは、維新前の1865年(慶応元年)時点ですでに九軒を数え、維新以降は数十軒まで増えましたが、1873年(明治六年)に、日本の西洋料理史において外すことの出来ない大ホテル「グランドホテル」が建設されます。

 グランドホテルは、「横浜クラブ」を開業した先の英海軍中尉・W.H.スミスがマネージングディレクター、支配人はJ.リオンズ、そして料理長は、築地ホテル館の料理長だったL.ベギュー、そして設計も築地ホテル館と同じくR.P.ブリジェンスでした。※
1886年(明治十九年)には新館を増築し、百の客室 三百人収容のレストラン、ビリヤード場、バー、自家発電装置を備え、横浜最大のホテルとして多くの西洋人に利用されました。
 このホテルで特筆すべきは料理です。グランドホテルは経営が安定しなかったため、所有者が転々とし、料理長もL.ベギューからG.ガンドーベル(G..Gandaubert)、P.ミュラウール(P.Muraour)、J.マルケス(J.Mercesse)とめまぐるしく交代しましたが、いずれも優れたコックだったようで、料理の評判が高く、1880年頃に滞在したクリストファー・ドレッサーは「パリのグランドホテルと錯覚する」と評し、1893年に宿泊したボヘミア教育総監のヨセフ・コジェンスキーは「種類が豊富で味も素晴らしい」と評しました。

※グランドホテル開業時の経営者をボン・ナ(Bon.Nat)としている資料もあるが、当時のJapan Directoryを見ると明らかに誤りであり、Bon.Natという人物は存在せず、1878年にグランドホテルの経営者となる「ボナ」という人物の正しい名前はL.Bonnatで、1873年時点では八十四番地のオリエンタルホテルの経営者。

 そして、このホテルの厨房から、日本の西洋料理界を牽引する多くの日本人コック達が育ちます。
 「帝国ホテル」初代総料理長となる吉川兼吉(修行のはじまりは長崎のホテル)、第七代総料理長の高木米次郎、第八代総料理長の石渡文治郎、「東陽軒」創業者の深沢為次郎(女子栄養大学教授・深沢侑史の父)、“煮込み料理日本一”と称された「清新軒」料理長の浅野清一、包丁技の達人「三河屋」料理長の兼高留吉、「築地精養軒」の全盛期を築いた鈴本敏雄、戦前・戦後と東京の一流店の料理長を歴任した荒田勇作、「ホテルニューオータニ」の初代総料理長小林作太郎、全日本司厨士協会初代会長を務めた斎藤文次郎など、日本の西洋料理史上名高い錚々たるコックがグランドホテルの外人シェフのもとで西洋料理を身に付け、巣立って行きました。
 いうなれば、黎明期の日本洋食界の総本山ともいうべき場所が、このグランドホテルでした。

 明治政府が日本の正餐をフランス料理と定めた際も、当時の宮内省にはまだ本格的に洋食を作れる人間がいなかったため、明治初期の頃は、外国人の賓客を応接する際にはこうした横浜の外人ホテルから料理を取り寄せていました

●洋食のルーツは横浜にあり

 このように、開国後の日本において、横浜の居留地が西洋食文化の最大の入り口であり、そうした横浜の外人ホテルで多くの日本人がコックの下働きをし、外国人の作る外国人のための本物の西洋料理を学び、後に日本のホテルやレストランの料理長として活躍していくことになります。

 中でも、明治初期の関東の西洋料理界で頭領として君臨したと伝えられる恩正長三郎は、日本人で初めて外人ホテルの料理長になったコックと言われ、明治二十年代には横浜居留地のオリエンタルホテルで料理長になり、針ヶ谷正太郎、芦沢宗太郎、柴田昌彦、並木新八といった優れた弟子を残しています。
 また、横浜の外人ホテルで修行を積み、帝国ホテル・横浜ホテルニューグランド・神戸オリエンタルホテルと、東西の大ホテルで料理長として腕を揮った内海藤太郎や、戦後洋食界の大親分として君臨した荒田勇作など、横浜の外人ホテルは日本の西洋料理人達の源流となる人材を生み出した、「洋食のメッカ」と言える場所でした。
 
 また、日本で最初に鉄道が敷かれたのは新橋―横浜(当時の横浜駅は現在の桜木町駅)間であったため、横浜では商業がよく栄え、町人文化においても、横浜の野毛〜馬車道〜伊勢佐木町を中心に、洋食屋や牛鍋屋が多く生まれました。
 こうした背景から、横浜で元祖牛鍋屋(現在の「太田なわのれん」)が開業し、1871年(明治四年)には、森井平吉によって「開花亭」というビフテキを看板にした西洋料理店が開業されるなど、西洋の新しい食文化の多くが横浜から発信されました。

 

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