日本の西洋料理の歴史 7.西洋食文化の普及と外食文化
●明治期の西洋料理
初期の日本の西洋料理界では、外国人館、横浜のホテル、外国船などといった系統で修行を積んで西洋料理を身に付けましたが、この頃の「西洋料理」というのは、基本的にはフランス料理をベースとしていました。というのも、先に述べたように、西欧における外交の接待などではフランス料理が主流だったので、日本でも西洋食のコックを探すとなれば、「フランス料理が出来るコック」を探したからです。
ただ、必ずしも純粋なフランス料理だったとは限らず、イギリスやオランダなどそれぞれの国の影響も当然あり、中でも強い影響を受けたのがイギリスだったので、明治期の日本の西洋料理は、「イギリス風フランス料理」という色合いが濃かったようです。
それは、明治期に日本に移住してきた西洋人は、最もイギリス人が多く、次いでフランス人、それにアメリカ、プロイセン(ドイツ)と続き、それ以外の国はごく少数だったからです。
その理由は、当時は西欧列国の中でもイギリスの勢力が強かったことが大きいでしょう。戦後日本のフランス料理界の発展に多大な貢献をした、辻調理師専門学校創立者の辻静雄も、著書『フランス料理の学び方』の中で、日本にフランス料理が入ってきた初期の時代について、「どちらかといえばイギリス風の料理が多かったようです。なぜかというと、そのころイギリスの国力がフランスよりも強かったからです」と書いています。日本海軍では、西洋の食事作法を身に付けることが義務付けられ、海軍士官は精養軒の領収書を何枚持っているかがチェックされたほどでしたが、当時の軍は、西洋の近代戦術を学ぶために外国人の講師を呼んでいて、海軍はイギリス式(陸軍はフランス式⇒ドイツ式)の近代戦術を導入していたので、ここでもイギリスの影響を強く受けていたことがわかります。
また、皇室はイギリス王室の作法を手本としたため、上流階級から政財界、いわゆる社交会におけるマナーはテーブルマナー含めてイギリス式を学び、今日でも、日本の公式行事ではイギリス式の作法が用いられているそうです。(ちなみに、イギリス式とフランス式のテーブルマナーは若干異なる)料理は、イギリスでも王室の行事や外交接待で出される料理はやはりフランス料理をベースとしていたので、イギリス経由といっても基本はフランス料理でしたが、ビーフシチューやビーフステーキのように、英語の料理名で日本に定着した洋食も多くあります。
また、世界の動向として、西洋における公用語は英語になりつつあったため、レストランのメニューでも、料理名は「ア・ラ・〜」というようにフランス語で書きつつも、鶏肉はチキン(フランス語ではボライユ)・豚肉はポーク(フランス語ではポール)、牛肉はビーフ(フランス語ではブフ)というように、英語とフランス語が混在していることが多くありました。それに、何もかもがフランス料理一辺倒だったわけではなく、ロシア料理やポルトガル料理を提供するホテルもあり、明治三十年頃の神戸のオリエンタルホテルでは、デビスというインド人を雇い、インドから何十種類ものスパイスを取り寄せ、欧風カレーのように小麦粉は一切使用せず、ココナッツミルクをベースに用いたインド式のカレーを提供していたようです。
このように、明治期の料理界はかなり雑多な様相を呈しながらも、確実に新しい食文化を日本の食文化の中に取り込んでいきました。
●明治期の食材事情
明治期の日本では、タマネギ、ニンニク、トマト、レタス、キャベツ、ジャガイモといった、西洋料理の基本となる野菜はほとんど栽培されていませんでした。
そのため、使用する食材の多くが海外から船便で届いた食材を使っていましたが、明治期は流通や保存技術が未発達だったため、生鮮食材の輸送・保存は容易でなく、例えばレタスのような葉物野菜は、生のままでは一ヶ月以上もかけて届く船便ではほとんど傷んでいて使えなかったので、野菜類も缶詰が多かったようです。
そこで、居留地に住む外国人は、ニンジンやレタス、アスパラガス、カリフラワー、キャベツなど、様々な西洋野菜の自家菜園を盛んに行っていましたが、それでも用意出来る食材には限界があったため、いかにコックは本場の人間だったとしても、当時はまだまだ本国と完全に同じ料理を作る事は難しく、何よりお金がかかり過ぎたため、当時は外国人コックが外国人客のために作った洋食ですら、ある意味「西洋風」という部分も少なからずありました。ただ、現代よりもむしろ当時のほうが盛んだったのが、野禽類、すなわち「ジビエ」料理です。フランス料理の秋頃からの名物といえば、青首鴨や鶉、野兎、鹿、雷鳥、蛙などといったジビエ料理です。
野禽類は癖が強いため、現代の日本人でも好き嫌いが分かれ、ある種「マニア」向けの料理に近い傾向がありますが、ただでさえ西洋食材の乏しい明治期の日本で、西洋人にとっては馴染みあるジビエを用いない手はなく、明治期のレストランでは野禽類もよくメニューに載せられ、日本最古の西洋料理書と言われている、1872年(明治五年)に発行された『西洋料理指南』には、蛙の肉を使ったカレーが紹介されています。●仕出し料理店の発達
明治初期〜中期に誕生した西洋料理店のうち、西洋料理史を語る上で外すことの出来ない店としては、先に登場した「築地精養軒」に加えて、1876年(明治九年)に青柳条次郎が開業した「富士見軒」、1882年(明治十五年)に井上浅五郎が開業した「宝亭」が、まず挙げられます。この3店は、まだ宮内省に洋食を作ることの出来る部門がなかった時代に、宮内省に料理を納める「宮内省御用達」の仕出し料理店の代表的な存在でした。
富士見軒は、横浜居留地で修行した池山金一が料理長の時に全盛期を迎え、後に芝白金迎賓館やレストランピーコックで活躍する伊藤政次郎、札幌グランドホテル料理長となる青木小太郎、神戸三越の料理長となる飯島源治などを輩出し、宝亭は、岡田進之助料理長の時に全盛期を迎え、後に三笠会館の取締役調理部長となる佐藤竹松などを輩出しています。洋食を作ることが出来なかった明治初期の宮内省では、宴会の際には横浜の外人ホテルから料理を取り寄せていましたが、さすがにそれでは非効率だったので、より近郊で洋食を作れる店を必要とし、そうした需要から生まれたのが「富士見軒」や「宝亭」でした。
これらの西洋料理店は、通常のレストラン営業よりも、政財界の宴会や、陸海軍の式典などに出張して料理を作ることのほうが主体で、現代のような一般客相手の街場のレストランとは少し違った存在でした。
こうした「仕出し料理店」の考え方は、もともと日本料理や茶懐石でも行われていたスタイルで、この背景には、そもそも日本は歴史的に、「外食」というもの自体がそれほど盛んでなかったからでもあります。
江戸の寿司・天ぷら屋台や、牛鍋屋・洋食屋の流行などから、日本でも昔から外食文化があったように思われがちですが、それはあくまでトピック的なものであり、明治頃までの日本人の食生活のスタイルとしては、「外食」というもの自体はそれほど日常的な行為ではなかったようです。日本で、サラリーマンが日常的に外食店を利用するようになるのは、大正時代になってからだと言われています。ただこれは、西洋でも似たようなもので、フランスでもレストランが盛んになるのはフランス革命後の十九世紀頃からです。フランス革命によって、王侯貴族のおかかえコックが失業し、街にレストランを開いたことによってレストラン文化が花開いたのであり、それほど長い歴史があるわけではありません。
日常の食慣習というものは簡単に変えられるものではなく、しかも西洋食は高価だったので、一般客を相手にしているだけでは西洋料理店はとても商売になりませんでした。しかし、海軍でも陸軍でも、式典や大演習が行われる際には必ず大宴会が催され、それも西洋式で行われるようになっていたので、豪華な宴会料理をこなせる洋食店の存在は不可欠となり、軍隊は、日本で洋食店が発展する上での大きな存在のひとつとなりました。
開国以降、確かに多くの西洋料理店が開業し、そうした開業情報や店名を並べて、あたかも明治初期には西洋料理が流行していたかのように思われることもありますが、実際に長く続いたのは、政府や財界のパトロンを持った、仕出し料理店がほとんどだったようです。●「東洋軒」と「中央亭」
東京三田の慶応義塾前に、牛鶏料理屋「今福」(1892年開業)を営んでいた伊藤耕之進が、1897年(明治三十年)、築地精養軒のコック・北垣栄七郎を引き抜いて西洋料理店に転換し、「東洋軒」を開業します。
伊藤は、今福時代に、近所に住んでいた桂太郎(後の総理大臣)の贔屓の店となって上流層との知遇を得、そして伊藤博文の勧めによって西洋料理店に転換をし、宮内庁はもとより徳川公爵・園田伯爵といった名士達の仕出し料理店として隆盛を誇り、宮内庁御用達の店となります。伊藤は、高給で腕利きのコックを方々から引き抜き、コックを海外研修に送り込むほど人材育成にも力を入れたので、この店からは、「東京會舘」初代料理長の今川金松、「資生堂パーラー」初代料理長の飯田清三郎、二代目料理長の高石^之助、「レストラン・クレッセント」の川瀬勝博、銀座「コロンバン」創業者の門倉國輝など、多くの名人を輩出して一時代を築き、さらには、こうした東洋軒のOBを中心とした「東洋司厨士会」というコックの団体も生み出しました。そしてここに、明治期を代表する一人の天才コックが登場します。
少年の頃よりオランダ公使館※で修行を積み、当代随一の西洋料理人として名を馳せた、「オランダの鎌さん」こと渡辺鎌吉です。※近年になって、オランダではなくイギリス公使館で修行積んだという資料が発見されている
渡辺は、華族会館で料理長を務めた後、三菱財閥の総帥・岩崎弥之助をパトロンに、1899年(明治三十二年)「中央亭」(現在は竃セ治屋の傘下)を開業して名声を博し、その腕の高さはもちろんのこと、岩堀房吉(綱町三井倶楽部初代料理長)、小林作太郎(ホテルニューオータニ初代料理長)、佐藤良造(常盤家料理長)など、多くの名コックを輩出したことから、日本の西洋料理の歴史にその名を刻んだ巨星です。また、鹿鳴館の料理長を務めた藤田源吉は、公使館で共に料理を学んだ、渡辺の義弟です。
この「中央亭」も、宮内庁御用達の店としてその名を馳せ、全国に支店を持つほどになりました。この、「精養軒」「富士見軒」「宝亭」「中央亭」「東洋軒」の5店は、宮内庁御用達の西洋料理店の代表格として、また明治期を代表する高級レストランとして、明治期の西洋料理を語る上で必ずその名前が出てくる店であり、中でも精養軒と東洋軒が、西洋料理店の双璧として高い名声を誇りました。