日本の西洋料理の歴史

8.ホテル産業の夜明け


●日本のホテル産業の幕開け

 日本で海外貿易が盛んになり、世界に日本の名前が知られるようになっていくと、外交官や商人だけでなく、観光目的で日本に訪れる西欧人もあらわれ、新時代の波に乗ってハイカラな西洋式のホテルを利用する日本人も出てきます。
 そのため、居留地だけでなく、各地に西洋式の宿泊施設が必要になり、そこから日本でも「ホテル産業」が芽生えました。

 日本人によるホテルの嚆矢は「築地ホテル館」や「築地精養軒ホテル」ですが、旧都としてすでに外国人の観光地になりつつあった京都では、江戸時代より祇園で茶屋を開いていた中村屋が、早くも1868年(明治元年)に八室の客室を設け、ささやかながらホテル事業に転換し、「中村楼」と名前を変えます。
 日本の西洋料理店第一号を長崎に開業した草野丈吉も、レストランだけでなくホテル経営に乗り出し、1870年(明治三年)に大阪に渡って、当時外国人居留地のあった川口に「欧風亭ホテル」を開業し、1877年には京都の中村楼の向かいに「自由亭ホテル」を開業し、この自由亭ホテルのレストランが、京都ではじめての西洋料理店だったと言われています。また、川口の欧風亭ホテルは後に中之島に移転して「自由亭ホテル」(当初は「自遊亭ホテル」)に改名しますが、丈吉の死後、経営を妻の草野錦に引き継いだ後も大阪一のホテルとして名を馳せ、このホテルが後の「大阪ホテル」の前身となります

●観光ホテル

 1873年(明治六年)には、現存する日本最古のホテルである「日光金谷ホテル」の前身、「金谷カテージ・イン」が、日光東照宮のある栃木県日光市に開業します。
 これは、東照宮の楽人(演奏家)だった金谷善一郎が、日光に訪れたヘボン博士(ヘボン式ローマ字の創始者)を自宅に宿泊させたことをきっかけに、自宅を改造して外国人向けの宿泊施設として営業したことがはじまりです。ここにはイザベラ・バードも滞在し、"Unbeaten Tracks in Japan"の中で、とても快適な時間を過ごせたと記しています。
 その頃、日光への外国人の来訪者は年々増えつつあり、それに伴って日光に次々とホテルが開業していきますが、金谷善一郎は1893年(明治二十六年)に現在地に本館を建てて「金谷ホテル」と改称し、1904年(明治三十七年)には新館を建てて規模を拡大し、明治の末頃にはイギリスのコンノート王子やキッチナー元帥が宿泊するなど、日光一のホテルとしての地位を確立しました。

 日本を代表する湯治場・箱根は、観光地として明治以前から外国人にも人気があったと言われ、1884年(明治十七年)の記録では、夏に箱根に訪れた観光客の三割が外国人だったほどで、奈良屋旅館(「奈良屋ホテル」・2001年廃業)を代表に、いくつもの宿泊施設が古くから営業していました。
そこに、アメリカ遊学をしてホテル業に可能性を感じた山口仙之助が、箱根の宮の下にあった老舗旅館・藤屋を買収し、1878年(明治十一年)に「富士屋ホテル」を開業します。
 箱根では後発の富士屋ホテルは、はじめ同業他ホテルの後塵を拝していましたが、仙之助は「富士屋ホテルは外国人の金を取るをもって目的とす」という確固たる経営哲学を持ち、日本人から金を取るのは親が子の金を貰うのと同じであり、日本人の客は来なくていい、とまで言い切るほどで、最大のライバルだった奈良屋旅館と協定を結び、奈良屋旅館は邦人専門、富士屋ホテルは外国人専門とし、そうして富士屋ホテルは外国人専用のホテルとして評価を築いていきました。
 外国人向けのホテルとなると、料理は当然本格的な西洋料理が求められますが、当時の交通事情から、箱根という立地では西洋食材の確保が難しかったので、初代料理長の小島福太郎はホテルで乳牛を飼育してミルクを確保するなどして西洋料理を作ったと言われています。そして、食材が乏しい中の工夫として、芦ノ湖で獲れた虹鱒をバターでムニエルにし、醤油と味醂で味付けするという、フレンチと日本の味付けを融合させた「虹鱒の富士屋風」という料理を作ったところ、外国人客に大好評となり、現在でも富士屋ホテルの名物料理となっています。

 また、神奈川県の湘南に、「鎌倉海浜ホテル」の前身である「鎌倉海浜院」が、サナトリウム(療養所)として1887年(明治二十年)に開院します。
 湘南地域は、当時世界中で流行していた結核の療養の場所として、外国人が多くの療養所や別荘を建設し、また、海水浴などの行楽地として人気がありました。そうしたところに鎌倉海浜院は、洋式の建築と設備を備えた日本初の「サナトリウム」として設立されました。
 サナトリウムとして作られた海浜院でしたが、当初から宿泊施設の他にビリヤード場や外国人コックのいるレストランを備えたホテルに近い施設で、サナトリウムとしての経営がうまくいかなかったため、結果的に海浜院は解散し、完全なホテルに改築して「鎌倉海浜ホテル」に改称し、外国人から人気を獲得しました。
 湘南地域は、このように外国人の療養地・行楽地として発達していきました。

 日本最北の地・北海道では、箱館を開港したことを機に、政府は1869年(明治二年)に北海道開拓使を置いて本格的な開拓に動き出すと、本土から北海道への移民がはじまりました。
 そして、アメリカの農務大臣ホーレス・ケプロンを筆頭に、多くの外国人を顧問として北海道に招き入れ、1876年には"Boys be ambitious"の言葉で有名なウィリアム・スミス・クラークによって、札幌農学校(現在の北海道大学)が開校します。
 こうした経緯により、北海道にも西洋人のための施設が必要になり、そうして1880年(明治十三年)、開拓長官の黒田清隆によって建設されたのが、ホテル「豊平館」です。
 豊平館は、非常に豪華で優れた西洋式建築であり、現在ホテル営業はしていませんが、建物は現存し、国の重要文化財に指定されています。
 竣工してすぐにはオープンせず、1881年に明治天皇の行在所となったことを正式な開業日とし、その二ヶ月後には地元のレストラン経営者・原田伝弥に貸し付け、民間経営のホテルとなりました。
 この原田伝弥は、札幌農学校の教師として東京から招かれたD.ペンハローのハウスコックで、札幌で初となる西洋料理店「魁養軒」を1880年(明治十三年)に開業し、豊平館を借り受けると、自身が豊平館初代料理長に就任しました

京都のホテル

 京都は、1868年(明治元年)に江戸が「東京」と改称されて首都機能が移された以後も、観光地として多くの外国人が訪れました。

 京都におけるホテル業の先駆けは、先述の茶屋からホテル業に転じた中村楼や草野丈吉の自由亭ホテルなどがありましたが、1879年(明治十二年)、円山公園内に、大型の西洋式ホテル「也阿弥ホテル」が開業します。
 このホテルは、長崎で外国人のガイドをしていた井上万吉が開業したホテルで、『日本ホテル略史』(1946年・運輸省観光課発行)の説明に「滞在客全部外人故、洋食を提供す」とあるとおり、外国人をターゲットにしたホテルでした。

 そして、1890年(明治二十三年)、神戸で料亭を経営していた前田又吉が、現在の「京都ホテル」の前身となる「常盤ホテル」を河原町御池に開業します。(なお、前田又吉は1888年に「常盤別荘」という小さな旅館を開業していたため、常盤ホテルの創業年も1888年とされている)
 このホテルは、日本の初代総理大臣・伊藤博文の肝いりで開業したという説もあり、採算度外視で建てられたと伝えられるほど豪華なホテルで、1891年にロシアのニコライ皇太子が京都に訪れた際には宿泊所に選ばれました。(初代料理長は西善次郎となっているが、詳細は不明)
 しかし、再三度外視の経営が祟ってすぐに経営難に陥り、也阿弥ホテルを経営していた井上喜太郎(万吉の弟)に買収され、1895年(明治二十八年)に「京都ホテル」に改称します。

 また、1900年(明治三十三年)には、「都ホテル」が開業します。
 もともと、油商の西村仁作が1893年(明治二十六年)に開いた、「吉水園」という上層階級のための社交場が前身で、その息子の西村仁兵衛が、温泉や図書室、宴会場、宿泊施設まで整備していたので、「吉水園温泉ホテル」とも呼ばれていました。そしてその宴会場では、料理に定評のある神戸オリエンタルホテルで歴代の外国人料理長の後を継ぎ、初代日本人料理長を務めた黒沢為吉が腕をふるいました。
 そしてそれを正式にホテルに改造し、1900年に改称したのが「都ホテル」で、支配人にはアメリカ遊学経験があり、日光金谷ホテルなどでホテルマンをしていた浜口守介を採用し、外国人客から「最高の支配人」と評され、名支配人としてその名を残しました

帝国ホテルの開業

 1890年(明治二十三年)、井上馨外務大臣の提案により、財界の重鎮・渋沢栄一や大倉喜八郎らが中心となって建設された日本最大・最高のホテル、それが「帝国ホテル」です。
 明治の初期は、港と居留地のある横浜がいち早く発展しましたが、政治・経済の中心として東京が発展しはじめると、東京にも内外から人が集まりだし、宿泊施設が足りていないことが問題になりました。
 そこで、宮内省が筆頭株主となり、時の財界の主要人物が出資者に名を連ねた、国家プロジェクトともいえる一大事業として誕生したのが帝国ホテルでした。
 建築は西洋式でしたが、内装には外国人に喜ばれるよう和風の装飾も施し、日本の顔としての役割が期待されました。
 そして、初代総料理長には、長崎のホテルや横浜グランドホテルで修行をした吉川兼吉が就任しました。
           

 

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