日本の西洋料理の歴史

9. 西洋料理店の隆盛


●明治期の洋食屋

 文明開化とともに、街場に多くの西洋料理店が開業しましたが、先述の通り、経営が軌道に乗った店はそれほど多くありませんでした。
 代表的存在である精養軒や中央亭、東洋軒といった店は、いずれも政財界の大物をパトロンに持って開業した店であり、文明開化の誇示と西洋文化への慣れのために連日行われた大宴会や軍の行事、上層階級のお屋敷への出張料理などを作る仕事がほとんどで、一般客は必ずしも多くありませんでした。
 また、そうした宴会というのも、1,000名を超える大宴会は珍しくなく、5,000名を超えるような宴会もあったほどで、逆に言うとそういう特別な得意先のない店でなければ経営を安定させることは難しい時代でした。

 しかし、年を重ね、日本人の西洋食への慣れとともに、街場のレストランは少しずつ確実に定着し、増えていました。
 江戸時代から続く和菓子の老舗「風月堂」は、
番頭を務めていた米津松蔵が、五代目店主・大住喜右衛門の命で横浜に菓子修行に行き、後に暖簾分けして独立して洋菓子と西洋料理の店に転換します。また、フランスのサーカス団に従属していたイタリア人コックのピエトロ・ミリオーレ(P.Migliore)が、巡業先の新潟で1874年(明治七年)に「イタリア軒」を開業し、箱館では若山惣太郎が、教会でロシア料理を身に付けた五島英吉を料理長として1879年(明治十二年)に「五島軒」を開業するなど、これらは、明治初期に誕生し、現在も営業を続けている老舗中の老舗であり、中でも風月堂は、明治四十年頃に、横浜のホテルや鹿鳴館で修行した柴田十太郎を料理長に迎えたことで名声を不動のものとし、そこから数多くの名コックが育ち、イタリア軒からは後に仙台ホテルの調理部長となる井場猛夫を輩出するなど、どれも西洋料理史において大きな存在感を持つ名店です。

 東京では、海軍の出入り商人だった畑安之助が1885年(明治十八年)に「泰明軒」を開業。山本音次郎が1895年(明治二十八年)に「煉瓦亭」を銀座に開業。フランス公使館やイギリス公使館で修行を積んだ岡野菊松が1900年(明治三十三年)に「龍土軒」を開業。また、東京市が日比谷公園を開園する際に、銀座で小料理屋を営んでいた小坂梅吉がそこでのレストランの営業の権利を入札で落札し、ロシア料理のコック・青谷与之助を料理長として1903年(明治三十六年)に「松本楼」を日比谷公園に開業。イギリス外交官や海軍士官の下で修行を積んだ小川鉄五郎が1905年(明治三十八年)に「小川軒」を開業。同年、富士見軒で修行した島田信二郎が上野に「ぽん多」を開業。宮本治彦が1909年(明治四十二年)に「ランチョン」を駿河台下に開業(開業時は店名なし)。山県有朋のお抱え料理人だった小島種三郎が1912年(明治四十五年)に「小春軒」を開業。なお、泰明軒は戦災によって閉業していますが、そこで修業をした茂出木心護が、暖簾分けをして1931年(昭和六年)新川に開業したのが、現在日本橋に本店を構えて営業している「たいめいけん」です。
 京都では、1897年(明治三十年)に、常盤ホテルで修行を積んだ高橋銀次郎が「東洋亭」(現在の「キャピタル東洋亭」。創業時は「東洋亭ホテル」で、後にレストランに専念)を開業し、1904年(明治三十七年)には、京都ホテルで修業を積み、支配人兼料理長を務めていた伊谷市郎兵衛が「萬養軒」を開業しています(料理長は桜井六郎)。また、1907年(明治四十年)頃に、四条大橋の牡蠣料理店「矢尾政」が、西洋料理店を開業しています(現・「東華菜館」)。
 大阪では、日立造船の創業者、E.H.ハンターの息子であり、E.H.ハンター商会の主人となった範多龍太郎が、川口の古川町に「古川倶楽部」(開業年不明)を作り、初代の料理長は“半鐘の松っつあん”と呼ばれる人物で、この店と草野丈吉の自由亭ホテルが、大阪におけるコックの修行の場の双璧と言われ、大阪の西洋料理の発展において大きな存在となりました。また、現在カレーの老舗として知られる「自由軒」が、吉田四一によって西洋料理店として1910年(明治四十三年)に開業しています。また、1897年(明治三十年)に、大阪麦酒株式会社(現・アサヒグループホールディングス株式会社)が、日本で最初のビアホール「アサヒ軒」を中之島に開業しています。
 仙台では、神戸の外国人館で修業した前田常吉が1902年(明治三十五年)に「ブラザー軒」を開業するなど、現在でも営業を続ける名声店が、明治後半に数多く誕生しています。 
 福岡では、1909年(明治四十二年)に、横浜税関の官吏であった寺田静男が、東京から加賀田由太郎・安西酉造といったコックを引き抜いて「共進亭」を開業し、後にホテルや列車食堂など幅広い営業を手がけました。

 このように、明治期には現在でもその名が知られる数々の西洋料理店が誕生しており、その中でも特筆すべきは煉瓦亭で、開業後まもなく店を受け継いだ二代目料理長の木田元次郎は非常に優れたアイディアマンで、西洋ではドライパン粉を使用しフライパンで焼いて作るカツレツを、生パン粉を使用して天ぷらのようにフライして作る方法を編み出したり、エビフライやオムライスといった現在でも大衆洋食の定番となっている数々の傑作料理を生み出し、純粋な洋食とは異なる新しい日本式洋食の発展に大きな影響を与えました。ガルニ(付け合せ)にキャベツの千切りを使用したのも木田が最初と言われています。
 また、西洋料理のカツレツは薄切り肉を使用するところ、ぽん多の初代・島田信二郎は、低温調理することで厚切り肉をジューシーに仕上げる調理法を編み出し、現在の「トンカツ」の原点となる新しいスタイルを生み出しました

●町人文化の開化華やぐ

 明治期の西洋料理店は、国策として推進された西洋化に乗じて発展していった側面が強くありましたが、それらの影響によって、一般町人の間でも純粋な西洋料理とは違う形の新しい食文化が生まれていきました。
 町人文化が最も花開いたのは、やはり文明開化の窓口であった港町・横浜や、浅草・上野といった下町でしたが、そうした街では焼肉の屋台や牛鍋屋が生まれ、カレーやコロッケを売る「洋食屋台」なるものも存在したようです。(当時、カレーはイギリス経由で伝来したため、洋食の扱いだった)
 洋食屋台の実態については明確な資料が乏しいため、どれくらい流行していたのかはわかりませんが、外人ホテルや外国船で洋食の技術は身に付けたものの、定職にありつけないコックが、生活のために屋台を引いていたのではないかと思われます。第二次世界大戦後なども、戦争で職場を失ったコックが、生活のために屋台を引いて洋食を売っていたという話があります。

 現在のようなスタイルの牛鍋屋の元祖は、横浜で高橋音吉によって1868年(明治元年)に開かれた牛鍋屋(現在の「太田なわのれん」)が元祖と言われていますが、「すき焼き」の手法を整えたのは、1869年に神戸の元町に開業した「月下亭」と言われています。
 そして、関西で生み出された「すき焼き」のスタイルが後に関東に伝播し、こちらのほうが主流となって全国に広がっていきます。
 横浜では、太田なわのれんの他にも、荒井庄兵衛が1895年(明治二十八年)に開業した「荒井屋」などが、現在も横浜で牛鍋屋の老舗として営業を続けています。
 下町の代表である浅草では、米屋を営んでいた竹中久次が1886年(明治十九年)に開業した「米久本店」、牛肉の缶詰などを軍に納めていた相沢半太郎が1895年(明治二十八年)に開業した「今半本店」などが有名です。
 当時の牛鍋の流行はすさまじく、明治期に都内には500軒近くの牛鍋屋があったと言われています。
 そして1899年(明治三十二年)、牛鍋を“丼ぶり”にして安価に提供する「吉野家」が、松田栄吉によって日本橋で開業されます。この頃は魚河岸が日本橋にあった頃で、市場で働く人が、牛鍋を安価で手軽に食べられる店として評判を得、これが現在の牛丼の吉野家です。

 また、関西の港町・神戸でも牛肉の文化が大いに花開いていました。
 関西では、先述のとおり江戸時代から「薬」として食肉用の牛を育てていたため、牛肉文化が発展する土壌がありました。
 そのため、開港時に日本の牛肉を購入していた外国人の間でも、関西の牛肉の評価が高かったので、神戸では外国人によって屠畜場が営まれ、明治初期の頃に一番牛肉を消費していたのは神戸だったといわれるほど、牛肉の普及が早く進んでいました。
 こうした歴史的経緯が、日本を代表する銘柄牛の「神戸牛」や「松坂牛」が関西から生まれる背景となり、1869年(明治二年)にはすき焼きの「月下亭」が開業し、1871年(明治四年)には「大井肉店」が岸田伊之助によって開業され、1873年(明治六年)には「森谷商店」が開業するなどして、牛肉は一般大衆にも普及し、「肉」いえば豚肉より牛肉が好まれるという関西人の嗜好性が形成されていったのでした

 

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