日本の西洋料理の歴史

10. 日本海軍と洋食


●日本海軍の洋食

 西洋食が一般大衆に広がったルートには、日本海軍からもたらされたものもありました。
明治維新後の日本海軍は、イギリス海軍を手本に近代化しましたが、兵術だけでなく食事作法にも洋食を取り入れました。外国と接する機会の多い海軍軍人は、西洋のマナーや食事作法を身に付けるべし、という軍の方針があったことと、栄養面において、従来の日本食よりも洋食の方が優れているという考えがあったからです。
 栄養上の観点からは、明治以前から福沢諭吉が牛鍋を推奨していたように、健康の観点から西洋食の優位性を認めて積極的に推奨する医学者は多く、医学者の横河秋濤は1873年(明治六年)に発行した『開化の入り口』で、西洋文化に抵抗を感じる日本人に対する啓蒙活動を行いました。

 海軍士官は、精養軒で食事することが義務付けられていたことは先述のとおりですが、当時の日本では、栄養失調症(ビタミンB1の不足)である脚気による死亡率が非常に高く、海軍でもそれが問題になっていました。そこで、1872年(明治五年)に海軍医になった高木兼寛は、脚気の原因は食事内容にあると考えて兵食改革を行い、海軍食において「洋食+麦飯」を推奨したことで、海軍内での脚気の発生はほとんどなくなりました。(なお、後に高木は、海軍医の最高位である軍医総監にまで昇進している)
 しかし、脚気の原因が科学的に解明されていたわけではなかったので、当時はまだ森鴎外のように細菌説を採る医学者も多く、海軍は洋食でしたが陸軍では和食が中心でした。

 こうして海軍食が洋食化する中、海軍兵学校や水交社(海軍関係者の社交クラブで、レストランもあった)の調理責任者に就任したのが、宇野弥太郎でした。
 宇野弥太郎は、由緒ある家柄に生まれながら家出して、後の外務大臣・小村寿太郎(1855〜1911)の書生となり、秘書兼調理番をしていましたが、小村が西欧諸国に外遊する際には随伴し、フランスやドイツ、イギリスといった様々な国で西洋料理を学び、フランスでは、当時フランス料理界で帝王と言われたオーギュスト・エスコフィエからも指導を受けるという、当時では稀少な経験を積んだ人物でした。
 その知識と腕を見込まれ、宇野は海軍や水交社の調理場の責任者となり、その他にも色々な企業や組織で料理の講師を務め、見所のある人材を見つけると大きな店を紹介するなどして、多くの若いコックの面倒を見ました。

 また、宇野は中央亭創業者の渡辺鎌吉とは無二の親友で、海外経験のない渡辺は、宇野を通じて海外の最新情報を入手していたと言われ、逆に宇野は青柳驥、前田誉次郎をはじめとして、自分の弟子を中央亭に紹介しました。
 そして、1911年(明治四十四年)、宇野は日本最初の西洋料理学校を東京麹町で開校し、『西洋料理法大全』や『家庭西洋料理』といった料理書を渡辺鎌吉との共著で出版するなど、西洋料理の普及と後進の育成に尽力し、日本の食文化史に大きな足跡を残しました。

 なお、宇野が水交社を辞した後には、精養軒料理長だった北川敬三が責任者に就任しています

●海軍洋食の大衆化

 本格的な西洋料理の指導者を迎えた海軍でしたが、海軍の中での洋食は嗜好品としての洋食ではなく、日常食としての洋食でした。
 そうした特徴から、海軍洋食は、次第に一般家庭にもその調理法が広まることになりました。軍用食において重要なことは、素材の保存性が高く、大量調理が可能で、栄養価が高く、かつ低コストであることなので、こうした点でも家庭向きだったと言えます。

 その代表的な料理がカレーやコロッケです。
 日本のカレーは、カレーの本場であるインドからではなく、イギリスで食べられていたカレーを参考に作られたというのが定説です。明治時代の古い料理書からもイギリス式のカレーが紹介されていることはわかりますが、日本海軍では1880年代にすでに軍用食のレシピにあり、日本独自のカレーライスが広まったのは、この海軍カレーの影響ではないかと言われています。現在、海軍基地のある横須賀では、「海軍カレー」をご当地料理にしています。(当初の名称はライスカレー)
 イギリス料理のカレーはシチューの一種で、肉と野菜を煮込みカレー粉で風味付けをし、付けあわせにライスが添えられます。(西洋ではライスは野菜料理に含まれる)

 インドは、イギリスやフランスをはじめとする西欧列国の植民地にされていたので、インドのカレーは十七世紀には西洋には知られ、十八世紀にはイギリスの食品会社・クロス&ブラックウェル社(C&B)によってカレー粉が製造・販売され、フランスでもエスコフィエのレシピにカレー風味の料理が登場しています。
 また、イギリスのカレーはシチューの一種なので、牛や羊といった「具」が主役であり、ライスはあくまで副菜でしたが、米食文化の日本ではライスを主食にカレーソースをかける、という食べ方で定着しました。

 コロッケは、もともと「クロケット」という西洋料理の名前がなまったもので、古くからヨーロッパで広く食べられていた料理で、フランスでは、魚介とクリームを混ぜたり、肉のミンチを使ったり、潰したじゃがいもを使ったり、調理法もオーブンで焼いたりフライしたりと、様々なバリエーションがあり、手の込んだものは一品料理として、簡易なものは料理の付けあわせとして出されました。じゃがいもを主食とするイギリスでは、じゃがいものクロケットが食べられ、現在でも冷凍食品で売られているほどなので、イギリスの影響を強く受けた日本海軍は、イギリス料理からじゃがいものコロッケを取り入れたのかも知れません。最近では、青森のむつ市が、明治時代の大湊村(現在のむつ市大湊地区)にあった海軍部隊の軍用食として採用されて人気のあったコロッケが、日本にコロッケを広めるきっかけになったのではないかとして、「海軍コロッケ」をご当地料理にして町おこしをしています。

 ちなみに、じゃがいもは、もともと日本ではほとんど栽培されていなかったので、明治初期においては貴重品でした。日本で「芋」と言えば、甘みのあるさつまいもが主流で、じゃがいもは、オランダ人によって持ち込まれたため、「オランダ芋」と呼ばれていました。
 それが、西洋料理の広まりによって需要が高まると、全国で栽培が試され、明治中期に北海道で大量栽培に成功してから次第に普及しました。

 海軍洋食のレシピは明治の初期から少しずつ作り出されて発達し、1908年(明治四十一年)には『海軍割烹術参考書』が発行され、一般にも知られるようになりました。じゃがいものコロッケやカレーライスは、調理も提供も簡単であったことから、後に洋食屋台や街の食堂でも売られるようになりました。
 また、明治時代の海軍大将・東郷平八郎が、舞鶴鎮守府の長官だった時に、ヨーロッパで食べたビーフシチューをイメージして部下に作らせたところ、出来上がったのが「肉じゃが」だった、という説もあり、それで現在の舞鶴では「肉じゃが」がご当地料理になっていたりと、海軍食と日本の食文化には深いかかわりあいがあります

 

←Back         Next→
      


 →TOPへ