日本の西洋料理の歴史

11. 明治時代の世相と和洋折衷料理


●明治期の社会的背景

 時治期の西洋料理の広まりを理解するには、当時の社会の世相を知らなければ誤解が生じるので、ここで少し当時の社会的背景を説明します。
 明治期に洋食屋や牛鍋屋がヒットしたと言うと、それがあたかも一般庶民にまで普及していたと思われがちですが、当時の格差社会は現代からは想像もつかないほど激しく、一般国民の大多数の生活は非常に質素で貧しいものでした。町に洋食レストランや牛鍋屋が増えたとはいえ、明治時代においてそれらはまだ、必ずしも誰もが気軽に食べに行けたわけではありませんでした。現在では大衆食となっているカツレツやオムライスといった料理でも、当時は裕福な人間でなければ口にすることは難しい時代でした。

 明治維新後、元公家や元大名家は官職が保証され、維新で功をあげた志士などは高い地位に就きましたが、それ以外の一般の農民や工民の生活は江戸時代と変わらず貧しく、武士の家柄であっても、俸禄を失った下級武士達の没落は著しいものでした、
 下級武士の生活が貧しかったことは江戸時代からでしたが(その不満が明治維新の原動力でもあった)、その一方で江戸期より力を持ち始めたのが「商人」でした。
 江戸時代より、浅草をはじめとする「下町」において大衆文化が栄えたため、庶民全体の生活文化が向上していたように思われがちですが、それはあくまで一部の豊かな商人、しかも、東京のような、日本の中心地というごく一部の都市の中の、さらに一部の地域でのことに過ぎません。
 1890年(明治二十三年)に生まれたフランス文学者の山本直文は、『食味ノオト』という著書の中で、明治時代の食生活について、「日本はまだ文化の転換期であり、一般日本人の食生活は旧幕時代と大差なかった。長崎とか横浜とかいう所を除けば、みそとしょう油とを主とした調理法の境域を脱していない。西洋料理も中国料理も、一般国民には全く用のないものであった」と書いています。山本は、東京に生まれ、東京帝国大を卒業して宮内省在外研究員としてフランスに渡り、帰国して学習院大の教授になった、当時としては間違いなく中流以上の育ちの人物ですが、その山本でこの感覚なので、当時の日本の大多数の「一般大衆」の食生活のレベルは、推して知るべしでしょう。

 戦国の世が終わったことで、支配階層であった武士や貴族が活躍の場を失い、それに代わって、被支配者層であった商人が経済・文化の発展を担った、という意味では、「庶民化」したことに間違いありませんが、大多数の日本国民が、華やかな文化を謳歌していたわけではありません。人口構成からすると、富裕な貴族や商人は一握りの存在に過ぎず、その他は貧しい元下級武士や、貧しい手工業者であり、そして人口の大多数を占めるのは、財産を持たない農民でした。地方にいたっては、その生活様式は維新前と何ら変わらない、貧しい農家がほとんどであり、「日本人全体」という点で見れば、それらこそが当時の大半の日本人の生活であったと言えます、
 明治期は、日本人の大半が、洋食とは無関係な質素な食生活をしていたのが実態で、洋食が本当の意味で大衆化するのは、まだまだ先のことです

●浅草の歴史

 浅草が栄えるようになったのは、1590年、江戸に入府した徳川家康が浅草寺を祈願所と定めて寺領五百石を与え、以来、将軍家に重んじられ、観音霊場として多くの参詣者が集まるようになったことにはじまります。
 しかし、浅草が有数の繁華街にまで栄えた理由は、浅草に「蔵前」があったことが大きいでしょう。
 江戸時代の武士の給料はお金ではなく米だったので、幕府が武士に支給する米を貯蔵していたのが蔵前で、それが浅草にありました。現金の支給がない武士は、蔵前で米を受け取り、その米を米問屋に売ることでお金を得ていましたが、そこに、米を武士に渡したり、換金を仲介する「札差」(ふださし)という業者が登場します。
 もともと札差は、支給される米の運搬や米問屋への換金の手間を代行し、その手数料を受け取ることが本業で、その稼ぎ自体は僅かなものでした。それが、支給される予定の米を担保にして、武士にお金を貸し出すようになったことから、次第に金融業者として機能するようになり、今で言う「サラ金」業者になっていきました。
 お金に困った武士は札差を頼ってお金を借りるようになり、そうなると「金貸し」の立場が強くなるのは今も昔も変わらず、次第に札差は武士よりも立場が強くなり、高利でお金を貸し付け、莫大な富を得るようになっていきました。

 そうして、富豪化した札差が浅草界隈で豪遊するようになって商業が発展し、1685年(貞享二年)には、仲見世の前身となる商店街が作られ、1842年頃(天保年間)には、江戸三座の芝居小屋が浅草に移転し、浅草は娯楽の場として栄え、江戸一番の繁華街となりました。
 こうした背景から、浅草では、武士や貴族ではなく、商人を中心にした町人文化が発展し、特に札差の栄華は幕末まで続きました。

 明治維新以降も、浅草は有数の繁華街として栄え、牛鍋屋や洋食屋も多く開業しましたが、それらは必ずしも大多数という意味での「大衆」文化を体現していたとは限らず、例えば、浅草の牛鍋屋の代表的存在として知られる「今半」は、かつて竜宮城をイメージした豪勢な建物を構えて「今半御殿」と呼ばれ、鍋には黄金の鍋を使っていたほどで、およそ「大衆」の店ではありませんでした。(残念ながら今半御殿は戦災で焼失)
 しかしながら、こうした背景があってこそ、浅草の繁栄があり、横浜や長崎のように開港地ではないにもかかわらず、新しい洋食文化の発達の一角を担う街となり得たのでした。

●日本女子大と西洋料理教室

 明治維新後、女子への高等教育機関が少しずつ開設されていく中、1901年(明治三十四年)、東京の目白に、日本女子大学校が開設されます。
 そこでは、日本で初めての家政学科が設けられ、特に画期的だったのは、西洋料理のコースがあったことです。
 開校時の西洋料理講師はミセス・ブラッドベリという外国人講師でしたが、開校の2年後に交代して着任したのが、中央亭創業者の渡辺鎌吉でした。
 渡辺はそこで十七年にわたって教鞭を執りましたが、そこで教えていたものは決して家庭料理ではなく、フォアグラのゼリー寄せ、鴨のロティ、ロニョンのベアルネーズソース、牛肉のフリカンドー、シュークリーム、ルバーブのタルトなどといった、本格的な西洋料理でした。
 女学校でこのような高級料理が取り上げられていたのには理由があります。当時、高等教育を受ける子女というのは、一部の上流階級に限られていたことで、日本女子大が開設された1901年というのは、小学校への就学率ですらようやく五割に達したところです。そのような時代に大学に進学する女子というのは特別な存在であり、西洋料理講座が開かれたのは、家庭料理やお嬢様芸を教えることが目的ではなく、そうした上流階級のお嬢様が、社交界で西洋料理を食べる際に恥ずかしくないよう、知識やマナーを身に付けることが目的であったため、こうした本格的な料理が扱われたのでした。
 それでも、少数とはいえ、こうしたお嬢様学校の料理講座も、西洋食を日本人に広めていくことの一翼を担いました。

●和洋折衷料理

 とはいえ、維新後に流入した西洋食文化の何もかもが本格的で高級だったわけではありません。庶民の中で自然発生的に広まっていったものもあり、それらは単純に「洋食」とか「牛鍋」といった言葉などでくくれるものではなく、その影響の現れ方は雑多で、混沌としたものでした。
 現在では牛鍋やすき焼きは和食に分類されますが、西洋食である「肉」を食べる方法として生み出されたことから、当時は和食に分類されませんでした。
 西洋料理となると、材料の入手が難しかったため、日本の食材や調味料で味を補ったり、あまり抵抗のないように香辛料を減らしたり、パンに馴染めない顧客のためにご飯と共に提供するといった工夫をすることも当然発生しました。そこで、完全な西洋料理を西洋料理、日本化した西洋料理を洋食、と区別するといった考え方が、すでにこの時期からあらわれていたようです。しかし、そうした工夫は今日のフランス料理店などでも行われていることであり、店によっても、料理によっても、また工夫の程度も千差万別であるため、どこまでが西洋料理、どこからが洋食、どこまでいくと和食などと線引きすることは難しく、今日でも明確に定義付けるのは難しいでしょう。

 しかしながら、こうした和食とも洋食ともわからない、現在でいうところの「フュージョン料理」のような中間的な料理は、当時「和洋折衷料理」と呼ばれました。ただ、実験的な料理も多かったようで、文献などから様々なものがその存在を確認出来ても、それが果たしてどれくらい普及・定着していたのかはわかりません。
 また、こうした西洋食の和風化について、庶民の工夫や努力の結果のように語られることが多いですが、必ずしも自然発生的なものだけでなく、政府が日本国民の食生活の西洋化を意図的に推進していたことも背景としてあります。
 明治政府は、1871年に「断髪令」を発令し、その翌年には裃を廃して洋服を公式の正装に採用するなど、日本社会の西洋化を推進しましたが、その動きは食文化にも及んでいました。その理由は、日本を西欧に劣らない文明国としてアピールすることと、国民の食生活の栄養水準を高めることが狙いでした。
 しかし、ただでさえ食べ慣れない上に高価な西洋食をわざわざ好んで食べたりはしないので、政府は西洋食材を和風の味付けにした料理を女学校などで研究させ、雑誌などで紹介するなどして、少しでも西洋食への抵抗をやわらげて、西洋食に馴染ませようとしていたようです。
 このように、複雑な背景がからみあって生まれたのが「和洋折衷料理」であり、料理のジャンルとして明確に確立していたものではなく、とにかく見たことのない外国の食材を使用していれば「折衷料理」であり、美味しいかどうかもわからないようなおかしな料理が創作されることもあり、かなり大雑把な概念でした。

 折衷料理の最大のヒットのひとつとしては、「木村屋のアンパン」が挙げられます。
 木村屋は、1869年(明治二年)に、木村安兵衛が新橋に開業したパン屋「文英堂」が前身で、翌年に「木村屋」と改め、築地の海軍兵学校などにパンを販売していましたが、当時の日本人はまだパン食に馴染みがなかったので、砂糖を入れた「菓子パン」にしたところ大好評となり、そうした菓子パン開発の中で1874年(明治七年)に誕生したのが、パンの中に餡子を入れた「餡パン」だったそうです。
 今では、アンパンを「和洋折衷料理」というと大げさな感じがするくらい、日本人にとって馴染みのある食べ物になっていますが、西洋食のパンに和菓子の餡を入れたアンパンは、まさに見事な和洋折衷料理と言えます

 

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