日本の西洋料理の歴史

12.西洋料理界の礎を築いたコック達


●伝説のシェフ・内海藤太郎

 明治の末頃、帝国ホテルに、日本の西洋料理史上、最大の巨星の一人に数えられる伝説のコック・内海藤太郎が登場します。
 内海は、日本人でありながら幼少よりフランス人の家に引き取られて育ち、十二歳の時には横浜の外人ホテルに入り、フランス人コックの下で修行を積むという経歴の持ち主であったため、流暢なフランス語を話し、むしろ日本語はカタカナ程度しか書けなかったと言われるほど日本人離れした、特異なコックでした。
 二十歳の頃にはもう神戸のミカドホテルで料理長となり、1909年(明治四十二年)6月20日、A.デュロン(A.Duron。ジュロン、ジロンなどとも読まれる)の後を継いで帝国ホテルの第四代総料理長となってからは、強力なリーダーシップで、それまで寄せ集め部隊のようだった帝国ホテルの厨房組織をまとめあげ、一貫して「外国人のための外国料理」にこだわった料理を提供し、帝国ホテルの料理の名声を確立しました。
 当時の支配人・林愛作は、客層によって和風にアレンジした料理を出すことを内海にたびたび要求しましたが、内海はそれを一切聞き入れなかったため、林は内海を排除しようと試みましたが、内海の料理が外国人客に絶賛されていたため諦めるしかなかったと言われ、そうした内海の実力は業界内でも知らない者はなく、その技術を学ぶために、多くのホテルから料理長やコックがわざわざ研修に来ていたほどでした。
 内海は、後に「横浜ホテルニューグランド」が開業した際、総料理長サリー・ワイルを補佐する日本人料理長としてニューグランドに招聘され、その後は関西に戻り、関西No.1のホテルである神戸オリエンタルホテルの料理長に就任しています。
 腕の高さはもちろんのこと、帝国ホテル・横浜ホテルニューグランド・神戸オリエンタルホテルという、東西の主要ホテルの料理長として組織の基盤を作り、田中徳三郎、木村健蔵、岡山広一、小島鶴吉といった多くの優れた弟子を残した内海は、日本の西洋料理史において大きな足跡を残し、今もなお伝説のコックとしてその名が語り継がれています
。 

●築地精養軒の名料理人達

 関東における西洋料理店の原点のひとつである「築地精養軒」は、築地本店の他に上野にも支店を出して繁盛していましたが、精養軒は、西尾益吉〜鈴本敏雄が料理長の時代に黄金期を迎えます。
 西尾は、築地精養軒初代料理長・チャリヘスの下で修行を積み、その後単身渡欧してフランスの名門店で本物のフランス料理を学んだ、当時の日本で数少ない、本場の一流の技を知るコックでした。「ホテル・リッツ」でエスコフィエに師事したとも言われ、そこでフランスの最新料理を学んで帰国しました。
 そして、西尾の後任を務めた鈴本もまた、「名人」と評された伝説的なコックで、横浜のグランドホテルをはじめとして数多くの有名なホテル・レストランを渡り歩いて腕を磨き、その高い技術と見識から、西洋料理界では一目置かれた存在でした。

 この頃に精養軒の評価は最高に達し、ここから、後に宮内省大膳職初代主厨長となる秋山徳蔵、東京會館や華族会館の料理長を歴任する深沢侑史、豊平館の料理長を務めた関塚喜平、大門精養軒を創業する高須八蔵といった、西洋料理史上名高い数多くの名人が育ちました。
 精養軒は、仕出し料理店として重用されながらも、政財界の重鎮ら個人の会食や、森鴎外や芥川龍之介をはじめとする文壇の名士達に利用され、高村光太郎や横光利一の結婚披露宴の会場とされるなど、当時のハイクラスな人々に愛されました

●「天皇の料理番」

 精養軒で修業したコックの中で最も有名なのは秋山徳蔵です。
 秋山は、精養軒での修業時代に、当時の料理長だったフランス帰りの西尾に強く憧れ、ついには自身も自費で単身渡欧し、フランスで最高のレストランの一つに数えられる「カフェ・ド・パリ」で正コックとなり、その後念願のホテル・リッツでエスコフィエに師事し、最高のフランス料理の技術を学びました。
 この秋山こそ、1914年(大正三年)に、宮内省に新設された大膳職の初代主厨長となり、五十八年にもわたってその任を務めて「天皇の料理番」と呼ばれ、日本の西洋料理界の頂点に君臨することになる大コックです。

 

 

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